一人旅の無限の可能性と魅力を発掘! – みんなの一人旅 http://www.huge-dicks.com 一人旅の無限の可能性と魅力を発掘! Mon, 22 Nov 2021 02:28:58 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.8.2 http://www.huge-dicks.com/wp-content/uploads/2020/05/cropped-rogo_r-32x32.png 一人旅の無限の可能性と魅力を発掘! – みんなの一人旅 http://www.huge-dicks.com 32 32 【世界遺産】「長崎と天草地方の潛伏キリシタン関連遺産」を深く知るための予備知識6選 http://www.huge-dicks.com/wh-nagasaki-hidden-christian-sites-11390.html http://www.huge-dicks.com/wh-nagasaki-hidden-christian-sites-11390.html#respond Mon, 22 Nov 2021 02:27:30 +0000 http://www.huge-dicks.com/?p=11390 Copyright © 2021 みんなの一人旅 All Rights Reserved.

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2018年に世界遺産に登録された「長崎と天草地方の潛伏キリシタン関連遺産」。江戸時代から明治時代にかけて、厳しい禁教の時代の中、密かに引き継がれたキリスト教、そして信仰の力を今に伝える世界遺産です。
「潛伏キリシタン」とその終焉として「信徒発見」に目に行きがちですが、今回はもう少し広い視點でこの世界遺産を深く知るために知っておきたい予備知識をご紹介します。

【世界遺産】「長崎と天草地方の潛伏キリシタン関連遺産」の概要

五島列島:堂崎天主堂

世界遺産の內容

世界遺産?「長崎と天草地方の潛伏キリシタン関連遺産」は、江戸時代初期から明治時代にかけて現在の長崎県と熊本県の天草市を中心に形成された、「潛伏キリシタン」の存在とその信仰生活の跡を今に伝える世界遺産です。

「潛伏(せんぷく)キリシタン」というのは、簡単に言えば「隠れて密かにキリスト教を信仰していた人々」のこと。

なぜ隠れる必要があったかというと、江戸時代は今のように信仰の自由が認められておらず、江戸幕府が認めない宗派以外の宗教の信仰が禁じられていたためです。

また、世界遺産に登録されている構成遺産には「原城跡(はらじょうあと)」と「大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)」という遺産が含まれており、原城跡はあの有名な島原の亂(島原?天草一揆(しまばら?あまくさいっき))、大浦天主堂は「信徒発見(しんとはっけん)」(後述)の舞臺となった場所で、厳密にこれらの遺産は潛伏キリシタンの信仰の形態を示すものではありません。

ですが、原城跡が舞臺となった島原の亂は、その後の徹底的なキリスト教弾圧のきっかけとなった事件(始まり)で、「潛伏キリシタン」のきっかけとなったこと、逆に大浦天主堂は信徒発見により、「潛伏キリシタン」が初めて「潛伏」を辭めたきっかけ(終わり)となった出來事として、世界遺産に含まれています。

世界遺産の特徴

この「長崎と天草地方の潛伏キリシタン関連遺産」の特徴として、「シリアルノミネーション」によって世界遺産に登録された點が挙げられます。

シリアルノミネーションというのは、複數の遺産を例えば一體のストーリー性を持ったものとして扱い、全體として特定のストーリーを示すことで、世界遺産の登録基準である「顕著な普遍的価値」(けんちょなふへんてきかち)があるとして世界遺産に登録することを言います。

「長崎と天草地方の潛伏キリシタン関連遺産」で言えば、この世界遺産は全部で12の構成遺産が含まれていますが、この12の構成遺産によって、

「①潛伏キリシタンが生まれ、②③その信仰が江戸時代の200年以上に渡って獨特な形で受け継がれ、やがて④潛伏が終わった」

という潛伏キリシタンに関する一連のストーリー(歴史上の出來事)を証明しているのです。

そして、このようにキリシタンたちが長期間に渡って隠れてキリスト教を信仰し、それによって獨特な信仰の形態が生まれたことは世界的に見ても例がない、ということで世界遺産に登録されました。

ちなみに先ほどご紹介した「原城跡」は上記の①、大浦天主堂は④を示す構成遺産として登録されています。

日本史における世界遺産「長崎と天草地方の潛伏キリシタン関連遺産」の位置づけ

二十六聖人記念館

キリシタンに関連する日本史の流れ

それではこの世界遺産をもう少し前後関係の歴史を含めて見てみましょう。

①キリスト教伝來(1549年)

皆さんもおそらく日本史の授業で習ったかと思いますが、キリスト教は戦國時代にフランシスコ?ザビエルによって日本に初めて伝えられました。

當時の世界は大航海時代。スペインとポルトガルが覇権を爭うべく、海を渡って勢力を拡大する中でキリスト教も同様に布教を世界に展開していた中で、日本にたどり著いたのです。

②キリスト教と織田信長(~1582年)

キリスト教の伝來によって、ヨーロッパの文化(南蠻文化)が持ち込まれる中、織田信長はキリスト教を容認?保護しました。

織田信長自身はキリシタンではありません。単に南蠻文化を積極的に取り入れるために、その仲介役的な存在だったキリスト教宣教師を利用しただけと思われます。

③キリスト教と豊臣秀吉(~戦國時代終わり)

一方、天下統一を果たした豊臣秀吉は徐々にキリシタンへの弾圧を強め、1587年に「バテレン追放令」を出しました。バテレンとはキリスト教の宣教師や神父のことです。

秀吉が行ったキリスト教弾圧で最も激しかったのが、1597年に長崎で磔(はりつけ)となった「日本二十六聖人の殉職」です。

殉職した二十六人の中には12歳の少年も含まれていました。

わざわざ長崎までキリシタンたちを連行して処刑したのは、當時から九州はキリシタン大名はじめ、キリスト教の布教が最も進んでいた地域だったからです。

それでも秀吉のキリスト教弾圧は激しさを増すことはありませんでした。秀吉自身が南蠻貿易で利益を得ていたことから、貿易の影響を恐れて二の足を踏んだのではないかと考えられています。

④江戸幕府と禁教令(1612年、1614年)

江戸時代に入ると1612年、そして1614年に江戸幕府から禁教令が出され、ついにキリスト教の布教が全面的に禁止されました。

この時にターゲットになったのはキリシタンというより、布教に務めていた宣教師たちです。宣教師たちはことごとく國外に追放されることになります。

その後1620年頃まで密かに日本で布教を行う宣教師たちがいましたが、江戸幕府によって徹底的に弾圧が行われ、表面的に日本から宣教師たちは一掃されました。

⑤島原の亂(1637年)

日本でのキリスト教の取り締まりが落ち著いたかと思った頃に突如として勃発したのが島原の亂(島原?天草一揆)です。

美少年とされる天草四郎時貞が総大將を務めたこの事件は江戸幕府により鎮圧されましたが、江戸幕府には大きな衝撃を殘しました。

この事件が、「宣教師だけでなくキリシタンそのものも徹底的に取り締まらなければならない」という江戸幕府の危機感を呼び起こしたのです。

もう一つ、この事件をきっかけに進められたのが鎖國政策です。鎖國により、スペインやポルトガルのようなカトリック教國は完全に日本から締め出されることになりました。

⑥宗門改役の設置と宗教取り締まり(1640年~)

島原の亂に衝撃を受けた江戸幕府は、1640年に宗門改役(しゅうもんあらためやく)という役職を設置し、ここから徹底的に宗教の取り締まりを始めます。

そして、1960年半ばには各村ごとにお寺が所屬する村民を管理することでキリシタンではないことを証明する寺請制度が整備されることになり、基本的にすべての民衆はどこかのお寺に所屬していることが求められました。

⑦信徒発見(1865年)

江戸時代後期、開國を余儀なくされた日本では、長崎に再び海外から多くの外國人たちが訪れ、宣教師たちによる教會の建設も進められました。

そんな中、1865年3月、建設されたばかりの大浦天主堂で祈りを捧げていたプティジャン神父の元に浦上村(うらかみ)から訪れた信徒たちがキリスト教の信仰を告白します。

200年以上も宣教師が途絶えていた日本で、キリスト教の信仰が途絶えずに続けられていたことは、當時のヨーロッパ?カトリック教會にも奇跡として瞬く間に伝えられました。

⑧キリシタン禁制の高札撤廃(1873年)

明治維新後の1873年、ついに江戸時代から続いていたキリシタン禁制の高札が撤廃され、ここにキリスト教の禁止令に終止符が打たれました。

以上の通り、世界遺産「長崎と天草地方の潛伏キリシタン関連遺産」は、もはや宣教師がいなくなった日本において、ついにキリシタンにまで弾圧が及びだした島原の亂(⑤)以後、潛伏せざるを得なくなったキリシタンたちが、日本の開國とともに再び日本に宣教師たちがやって來たことで潛伏を辭めた時(⑦)までの潛伏キリシタンたちの信仰を伝えることを知っておいてください。

なぜキリスト教は禁止されたのか?

﨑津教會

それではなぜ日本において、これほどまでにキリスト教は徹底的に取り締まりの対象となったのでしょうか。

豊臣秀吉の戦國時代と江戸時代によって狀況は違うかもしれませんが、概ね考えられる理由をいくつか挙げてみます。

キリスト教の教えが神仏習合と支配にそぐわない

キリスト教というのはイスラム教やユダヤ教と同じように、一神教の宗教であり、絶対的な神への信仰が前提です。

ですので、日本で古くから信じられていた「八百萬の神」のような神道とは根本的に考え方が異なるとともに、権力者よりも絶対的な神が上位に來ることになります。

秀吉にしても家康にしても、天下統一を果たして國を治める側としては、絶対的な神への信仰がその妨げになると考えるのも不思議ではありません。

西歐の支配を恐れた

最初にお話しした大航海時代において、當初の覇権を爭っていたスペインとポルトガルですが、その支配権の拡大においてキリスト教の布教が一つの手段であった事は考えられます。

だとすると、日本からすればキリスト教を通じて徐々に西歐列強の支配に組み込まれていくのではないか、という漠然とした不安は常にあったことになります。

信仰による反亂分子の誕生を恐れた

宗教への信仰は時にとてつもない結束力を伴い、一大勢力になりえます。

日本においても、戦國時代には信長と石山本願寺、比叡山延暦寺の衝突が起こるなど、寺社勢力は無視できない存在になっていました。

この教訓があったからこそ、支配する側としては宗教の恐さを十分身に染みて分かっていたのでしょう。そして島原の亂で、それは決定的になりました。

怪しげな魔術を使うイメージを持っていた

やはり、よく分からない海外から入ってきた教えというのはそれだけでも「怪しげな存在」という先入観を持たれがちです。

當時は戦國時代。外見や文化、言葉も違う人たちが何やら怪しい教えを布教して回っているのをのんきに眺めているほど、日本はおおらかな時代ではなかったということも考えられます。

世界遺産と合わせて知っておきたい予備知識

頭ヶ島天主堂

信仰の弾圧を受けたのはキリシタンだけではなかった

世界遺産?「長崎と天草地方の潛伏キリシタン関連遺産」はキリシタンに関連する遺産のため、キリスト教に関連する世界遺産と言えます。

確かに戦國時代の終わりから江戸時代、明治初期までの300年近くの間、日本においてキリスト教への弾圧は苛烈を極めており、キリシタンにとっては苦難の時代でした。

ですが、例えば江戸時代に厳しい取り締まりが行われたのはキリスト教に限った事ではありません。

例えば日蓮宗の「不授不施派」という宗派は、日蓮宗以外の信徒からのお布施を受けず、また信徒も日蓮宗以外の僧にお布施をしない考えを持っていましたが、これとお布施を容認する宗派との爭いにより、最終的に不授不施派は幕府によって「異宗」として取り締まりの対象になってしまいました。

その他にも、とりあえずよく分からない、怪しげな教えを振れ回っているとタレコミが入れば「邪教」として厳しく取り締まりの対象となっていたのです。

つまり、元々はキリシタンが厳しい取り締まりの対象だったのに対し、それが徐々に「幕府が正式に認めた宗派以外」は全て取り締まりの対象になったということになります。

ですが、このことが逆に、「邪教」「異教」=「切支丹」(キリスト教と違う意味のため表示を漢字にしています)というとらえ方になり、取り締まるべき純水なキリシタンへの圧力が分散されたという皮肉な現象を生みました。

「潛伏キリシタン」も普通の村民と同じ暮らしをしていた

「潛伏キリシタン」というと、周りにもバレないように密かに信仰を続けているキリシタン、というイメージを持ちますよね。

実際、江戸時代の中期以降は、弾圧から逃れるために外海の島に移り住むキリシタンたちがいたことは事実です。

ですが、一方で、村の中でキリシタン以外の村民たちと共に暮らしていたキリシタンも多くいました。

先ほど寺請制度の話をしましたが、當時は村単位での管理(年貢の取りまとめ含む)だったため、ある意味で村民全體が連帯責任を擔っていたと言えます。

そんな狀況でキリシタンの村民を除外してしまうと、村としての生産性も落ち、かえって自分たちの生活も苦しくなってしまいます。

また、特にキリシタンだからと言って何か損害や迷惑をこうむっているわけでもなければ、わざわざ自分たちの生活に降りかかるリスクを冒してまで、キリシタンの排除をする必要もありません。

後ほどご紹介しますが、遠藤周作の「女の一生」という小説でも、キリシタンの存在を知りつつもそれを黙認している村の人々の様子が描かれています。(ただし、友好的なわけではなく、どちらかというと面倒なことに巻き込まれたくない、という避けるイメージ)

「信徒発見」がキリシタン受難の終わりではない

世界遺産?「長崎と天草地方の潛伏キリシタン関連遺産」の構成遺産にも含まれている「大浦天主堂」は信徒発見の舞臺としても有名です。

ここで、先ほどの歴史の流れにあるように、信徒発見はキリスト教禁教が撤廃されるより前に行われていた、という點が注目です。

明治維新に向けての開國で日本には西歐諸國からの圧力が強まり、それまでのようにキリスト教の弾圧も幕府は出來なくなりました。

だからこそ、長崎にも教會が建てられ、潛伏キリシタンたちも「歐米の目があるから、幕府もこれまでのように強硬な弾圧はしないだろう」という考えを持ってキリスト教の信仰を告白したのかもしれません。

ですが、禁教令の発布は引き続き有効であったことに変わりは無く、この信徒発見は逆に禁教令に背いていることを自ら証明する形にもなり、幕府に取り締まる言い訳を與えてしまうことでもありました。

特に有名なのが1867年に行われた「浦上四番崩れ」と呼ばれる大規模な取り締まりです。密告その他事実に基づいて奉行所の役人などが行う「ガサ入れ」をイメージ頂ければと思います。

キリスト教信仰を告白した浦上村のキリシタンたちが一斉に連行、投獄され、厳しい迫害とともに棄教を迫られました。

それでも棄教しなかったキリシタンたちは長崎から追放され、追放先では想像を絶する拷問が続けられたのです。追放されたキリシタンは3,000人以上にも及ぶと言われています。

この間に江戸幕府から明治政府に移行したものの、明治政府は引き続きキリシタン禁教を継続したことでキリシタンたちの悲劇は1873年のキリシタン禁教の高札撤廃まで続きました。

世界遺産だけでは分からないキリシタン迫害の事実をぜひ知っておいてください。

なぜ潛伏キリシタンは200年以上も続くことが可能だったのか

五島列島?頭ヶ島

島原の亂の後、キリシタンが「潛伏」してから信徒発見により「潛伏」を解除するまで、その間何と200年以上。ここまでの長期に渡って「潛伏」が続けられていたのは、本當に奇跡としか言いようがありません。

ではなぜそれほど長期に渡る「潛伏」が可能だったのでしょうか。その理由を考えてみたいと思います。

潛伏キリシタンたちが當時の村社會に溶け込んでいた

まず、「潛伏」していたといっても、潛伏キリシタンたちは他の民衆と同じように當時の日本社會の一員として生活していたことは特筆すべきことかと思います。

運命共同體でもあり、きちんと働いて年貢を納めていれば誰も表立ってキリシタンたちを阻害したわけではなかったということです。

このような「黙認」に加えて、藩主としても強硬的にキリシタンたちを取り締まって連行しようものなら、むしろ働き手を減らされた村から反発を食らうリスクさえあったのです。

事実、「異教」の取り締まりが入った村で、村の莊屋が村民と結託して取り締まる側の奉行に異議申し立てをした記録も殘されています。

「疑わしきは罰せず」の取り締まり

もう一つ考えられるのは、信仰をする側のキリシタンたちも、200年以上という長い期間、宣教師がいない狀態で信仰を続けているうちに、自分たちの信仰が「キリスト教」である、という意識が薄れていったことです。

例えば、先ほどご紹介した「浦上四番崩れ」というのは浦上村で4回目の「ガサ入れ」ということなので、それまでにも少なくとも3回、「異教」の取り締まりが入ったことが分かっています。

その內、三回目、つまり「浦上三番崩れ」では、取り締まりの結果、浦上ではイエスの生誕やユダの裏切りの教義の他、クリスマスの行事など明らかにキリスト教の信仰が行われているにも関わらず、村民たちは自分たちが「キリシタン」であることを認識せず、「単に代々受け継がれてきた地元の信仰」であることを主張したと記録されています。

そして、結果的には「異教」とは見なされなかったのです。

このようにキリシタンたちの取り締まりが「疑わしきは罰せず」をベースとしていたため、キリシタンの根絶には至らなかったのかもしれません。

世界遺産「長崎と天草地方の潛伏キリシタン関連遺産」が私たちに問うこと

浦上天主堂

最後に、この世界遺産が私たちに問いかけていることを考えてみたいと思います。

「負の世界遺産」の側面がある

これまでお話ししてきたように、「長崎と天草地方の潛伏キリシタン関連遺産」という世界遺産は當時の江戸幕府によって弾圧されたことで「潛伏」を余儀なくされたキリシタンたちが、獨自の形で信仰を続けたことを示す遺産です。

このように世界に類を見ない形でキリスト教の信仰が行われた裏側には、時の支配者による信仰の自由が阻害、時には殘酷なまでの拷問や迫害の歴史がありました。

この點で、「長崎と天草地方の潛伏キリシタン関連遺産」は「負の世界遺産」の側面を持っていると考えられます。

「負の世界遺産」とは、正式に定められたものではないですが、人類の過ちなどを教訓として後世に引き継ぐために登録された世界遺産のこと。日本では原子力爆弾の悲慘さを今に伝える広島の原爆ドームが有名ですよね。

九州には世界遺産に登録されていないキリシタンゆかりの場所が數多く存在し、今では観光スポットの1つになっている雲仙地獄という場所も、キリシタンの拷問が行われた場所としても知られています。

世界遺産だけでなく、このような場所を訪れることで、當時を生きたキリシタンたちの本當の姿が見えてくるのではないでしょうか。

信仰と人間の尊厳

世界遺産?「長崎と天草地方の潛伏キリシタン関連遺産」が私たちに示しているのは、信仰がもたらす信念の強さと同時に、人間の持つ殘酷さではないかと思っています。

信仰を拠り所にすることで人は強くなり、一方でそれを認めない権力者や支配者たちはその信仰を奪おうと、より過激な攻撃に打って出る-。

「信仰が本當なら、神が存在するなら、今こうして迫害されているキリシタンたちをなぜ神は救わないのか。」

迫害する者たちはこのような挑発をしていたかもしれません。

「神は私たちに無駄な試練はお與えにならない。いつも我々と共にある。」

そう信じながら、キリシタンたちは厳しい時代を生き抜いたのかもしれません。

この世界遺産に限らず、世界には信仰や思想とそれに対する迫害の歴史が數多く存在します。迫害だけでなく、宗教間の爭いも現在でも続いています。

技術や文明が発展し、IT、SNS、ドローン、AIなど最先端のテクノロジーが登場しても、宗教や信仰というものは無くなりませんし、それによる衝突や攻撃も変わらず行われています。

なぜでしょうか。

筆者が思うに、宗教や信仰は、もっと深い人間の根本や存在意義、尊厳といったものと繋がっているからなのではないでしょうか。

信仰も、それに対する執拗で殘酷なまでの迫害や攻撃も人間しか為しえない行為です。

この世界遺産は、そんな問題を私たちに問いかけている気がします。

ぜひ読んでおきたい!遠藤周作の「長崎キリシタン三部作」

天草:大江天主堂

長崎やキリシタンと切っても切れないのが遠藤周作です。

彼はキリスト教や長崎、そしてキリシタンを題材にした小説を數多く出されました。

特に有名なのが「長崎キリシタン三部作」とも呼ばれている「沈黙」、「女の一生(一部)」、「女の一生(二部)」です。沈黙は映畫にもなったことでも有名です。

「沈黙」は江戸時代初期、島原の亂の後に一気に厳しくなったキリシタン弾圧の時代を、宣教師の視點から描いています。

「女の一生」は一部が先ほどご紹介した浦上四番崩れからキリシタン禁制が撤廃されるまで、二部が太平洋戦爭を生きるキリシタンを描いています。

いずれの作品も、信仰を持つ者と持たない者が時代に翻弄されていく姿を通じて、信仰とは、人間の強さ?弱さとは何かを問いかける名作です。

世界遺産を知るだけでなく、素晴らしい名著としてぜひお読みください。

 

いかがでしたでしょうか。
日本で唯一のキリスト教に関連する世界遺産、「長崎と天草地方の潛伏キリシタン関連遺産」。

時代は進んでも世界が分斷されている現在だからこそ、この世界遺産が私たちに教えてくれることがたくさんある、そう感じて頂ければ嬉しいです。

 

(參考:「潛伏キリシタン」大橋 幸泰 講談社學術文庫)

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古墳?ピラミッド?陵墓???世界遺産に見る世界の巨大建造物の違いを楽しむマメ知識4選 http://www.huge-dicks.com/pyramid-kofun-compare-11376.html http://www.huge-dicks.com/pyramid-kofun-compare-11376.html#respond Mon, 08 Nov 2021 23:27:38 +0000 http://www.huge-dicks.com/?p=11376 Copyright © 2021 みんなの一人旅 All Rights Reserved.

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2019年に世界遺産として登録された「百舌鳥?古市古墳群」。日本における古墳時代の巨大古墳が世界遺産として登録されましたが、世界を見渡すと、エジプトのピラミッドや中國の秦の始皇帝陵、メキシコのテオティワカン遺跡など、巨大な歴史上の建造物が世界遺産として登録されている例が多く見られます。
今回はこれらの世界遺産を比較して見ることで、世界遺産の魅力に迫ります!

日本の世界遺産:百舌鳥?古市古墳群(もず?ふるいちこふんぐん)

百舌鳥?古市古墳群の概要

そもそも「古墳」(こふん)というのは時の権力者などが埋葬されているお墓のことを言います。

権力者のお墓は日本のみならず世界においても、その強大な力を誇示する等の理由で大規模に造られる傾向にあり、日本の古墳や中國?朝鮮半島の王墓のように、その外観はちょっとした丘や山のように見えることから、「墳丘」(ふんきゅう)とも呼ばれます。

この墳丘の中でも、特に日本の歴史において集中的に巨大な墳丘が一斉に造られた古墳時代に造られたものを「古墳」と呼んでいるのです。

世界遺産の百舌鳥?古市古墳群(もず?ふるいちこふんぐん)は、日本の古墳時代(3世紀中頃から6世紀後半頃)において日本中に築かれた古墳の中でも、最大の大きさを誇る大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)(百舌鳥古墳群)と2番目の大きさを誇る譽田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)(古市古墳群)を含む古墳群です。

これらの古墳群で世界遺産として登録された古墳は45件、49基にもなりますが、墳丘の長さが200メートルを超える古墳が11基もあり、古墳時代の最盛期である4世紀後半から5世紀にかけて造営されたものになります。

ちなみに登録件數と古墳の基數が一致しないのは、大仙陵古墳など巨大な古墳には陪冢(ばいちょう)と呼ばれる附屬のような古墳がいくつかあり、これらを1つとしてカウントしているためです。

百舌鳥?古市古墳群の中で巨大な古墳の多くは、當時の最大権力者、つまり天皇の陵墓と考えられており、宮內庁により指定されています。

例えば、大仙陵古墳は仁徳天皇の陵墓として治定(じじょう:古墳に埋葬されている人物を特定すること)されていますが、考古學的には大仙陵古墳が仁徳天皇陵の陵墓であることは証明されていません。

百舌鳥?古市古墳群に見る日本の古墳の特徴

日本の古墳時代が世界においてもユニークな點をいくつかご紹介します。

日本中で多様な古墳が一斉に造営された

古墳に限らず、大きなお墓というのは特定の権力者を埋葬しているため、その數はそれほど多くはなく、造営される場所も當時の社會の中心であった場所であることが通常です。

ですが、日本の古墳時代はわずか300~400年にも関わらず、造られた古墳の數は16萬基以上にも上ると考えられています。また、造られた場所も関東から九州に至るまで、日本各地に広がっており、これは世界で見ても他に例がありません。

また、造られた古墳の形も前方後円墳や方墳、円墳、帆立貝形墳などバラエティーに富んでいるのも特徴です。

これだけ多く、多様な古墳が造られた理由として考えられているのが、當時の日本では絶対的な権力者による統一國家が存在しておらず、日本中に広がる首長連合のような支配體制にあったことです。

首長連合と言っても中心的な権力者はいたと思われますが、地方の隅々までその支配が行き屆いておらず、ある程度地方の統治は地方の支配者に委ねていたと考えられています。

このため、古墳の大小や種類などに一定のルール(権力者になるほど規模が大きくなる、また巨大な古墳のほとんどが前方後円墳など)がありつつも、日本全國で古墳が造られたというわけです。

お墓だけでなく葬送の舞臺としての役割も持っていた

日本の古墳が世界の他の墳墓と異なる點の1つに、造営から埋葬までの順序があります。

日本においては、古墳が造営された後に改めて古墳に穴を掘って埋葬が行われました。一方、例えばエジプトのピラミッドなど世界の墳丘は埋葬した後にその周辺を積み上げて築かれるケースが一般的です。

このように順序が異なる理由は、日本の古墳は埋葬する際の葬送儀式が重要視されたためです。

例えば前方後円墳の場合、後円部分に竪穴式石室などの埋葬スペースを作り、そこに埋葬されるのですが、埋葬された真上部分である後円部分の平面には多數の埴輪が並べられました。

これは、埋葬された死者の魂が天に昇っていくことを壯大に見送る意味が込められていると考えられています。

エジプトの世界遺産:メンフィスのピラミッド地帯

ピラミッドはいつ、なぜ誕生したのか?

エジプトの世界遺産でもあるピラミッドはぜひ一度は訪れてみたい場所でもあり、今でも多くの歴史のロマンが詰まっている場所ではないでしょうか。

ピラミッドの前身と言われているのがマスタバ墓と呼ばれる臺狀の形をした墳墓で、エジプト王朝の初期王朝時代(第1?第2)から古央朝時代(第3~第8頃)に造られたものです。

このマスタバ墓はピラミッドのような石造りではなく、日干煉瓦(レンガ)造りであることも特徴です。

そこから最初のピラミッドとして誕生したのが、第3王朝のジェセル王(BC2665~2645頃)によりサッカラに造られた階段ピラミッドです。

サッカラの階段ピラミッドは、元々は四方が63メートルの正方形の平面の一段造り、高さ10メートルの石造マスタバ墓として計畫されたものでした。ですが、その後、四方を拡張するなど変容していき、その都度もともと造られていた部分と段差が生じました。そして、その都度段差が生じることで階段狀のピラミッドになっていったと考えられています。

この階段ピラミッドがマスタバ墓から変容して大きくなった理由は、當時の王権の強大な力を誇示することにあったと考えられています。

第2王朝最後の王であったカセムケイ王の治世ではホルス神を信仰する王朝でしたが、一方でセト神信仰する勢力がその勢いを増し、カセムケイ王はセト信仰勢力との和解を図り、以後、王の名前にはホルス?セト両神を冠した名前が採用されるようになります。

ホルス神信仰勢力が弱體化していることに危機を抱いたジェセル王は、マスタバ墓の高さを積み上げて大きくすることでメンフィスの街からいつでもその姿を観られるようにし、強大な王権の象徴としたというわけです。

屈折のピラミッド?赤のピラミッド?三大ピラミッド

第4王朝に入ると、ピラミッドの巨大化と最盛期になります。

有名なピラミッドとして、まずはスネフェル王の屈折ピラミッドと赤のピラミッドの二つをご紹介しましょう。

屈折のピラミッドはその名の通り、ピラミッドの傾斜が途中で変わっているピラミッドです。基底部の長さは188.6メートル、創建時當初の高さ105メートル(現在101メートル)で、基底部からの高さ49メートルまでが54度31分という急角度になっており、それより上部はやや緩やかな43度20分に変更されています。

赤のピラミッドは基底部の長さ220メートル、創建時の高さ105メートル(現在は99メートル)になり、傾斜角が43度40分です。この傾斜角は屈折ピラミッドの上部とほぼ同じ傾斜であることがお分かり頂けると思います。

赤みを帯びた石灰巖の切り石を利用していることから、この名前が付けられています。

ピラミッドの中でも側面が滑らかなピラミッドを「真正ピラミッド」と言いますが、赤のピラミッドは最初の真正ピラミッドとしても有名です。

スネフェル王の次の王、クフ王によって築かれたギザのピラミッドが最大のピラミッドとされており、その後のカフラー王、メンカウラー王のピラミッドと合わせて三大ピラミッドと呼ばれています。

第4王朝の真正ピラミッドに見るピラミッドの特徴

さて、階段ピラミッドと真正ピラミッドをご紹介しましたが、両者には明確な違いがあります。

例えば、いずれのピラミッドにも葬祭殿と呼ばれる、王の葬儀や禮拝のために建てられた祭殿が設けられていますが、階段ピラミッドは北側に、真正ピラミッドは東側に造られています。

真正ピラミッドで祭殿が東側に設けられている理由として、太陽信仰が挙げられます。スネフェル王の時代より、太陽信仰が浸透したと考えられており、日の出の方向である東側に祭殿が設けられているというわけです。

ちなみに真正ピラミッドの側面は二等辺三角形となっていますが、これは太陽光線を形どったもの。また、三大ピラミッドの南東の角は一直線上に並べられており、それを北東に伸ばした先には太陽信仰の中心地であるヘリオポリスがあります。

このことから、クフ王のピラミッドに代表される巨大なピラミッドは太陽信仰によるモニュメントとしての意味合いが強かったと考えられており、王墓であったかどうかは未だにはっきりと解明されていません。

中國の世界遺産:秦の始皇帝陵

秦の始皇帝陵の概要

次に、お隣の國、中國の世界遺産にも登録されている秦の始皇帝陵を見てみましょう。

中國において秦という時代は短命に終わるものの、この一時代を築いた秦の始皇帝は歴代の中國の皇帝の中でも最も有名な人物と言えるでしょう。

そもそも、「皇帝」という存在はこの秦の始皇帝から始まっており、秦の始皇帝は中國の歴史において初めて統一國家を築いた人物です。

そんな人物が埋葬されているお墓ですから、秦の始皇帝陵というのは規模の面でもそれまでの王墓とはスケールが全く異なるビッグなものになっており、日本の大仙陵古墳、エジプトのギザのピラミッドと並んで世界三大墳墓の一つに數えられています。

また、秦の始皇帝陵は紀元前208年に完成しました。

ご參考までに大きさを記載しておくと、始皇帝陵の墳丘は截頭錐體(せっとうすいたい)型で南北350メートル、東西345メートル、高さ76メートル。
墳丘は二重の城壁に囲われており、外城は東西約940メートル、南北約2,165メートル、內城は南北1,355メートル、東西580メートル。

ぱっと想像できない大きさですが、並んでいる數字を見る限り「ものすごく大きい」ということは分かって頂けるかと思います。

秦の始皇帝陵に関しては、その名の通り始皇帝のお墓であること、そして初めて中國を統一した王朝としてその強大な権力の象徴を具現化するために、これほど大きな陵墓を築いたことは明確で、日本の古墳と共通するものがあります。

一方で、始皇帝陵は二重の城壁で囲われているなど、地下?地上を含めて複雑な構造になっています。

內城壁の內側には、墳丘の他に、地上に陵寢(りょうしん:後ほどご説明します)と推定される儀禮を行うための施設と、王妃等を埋葬したと想定される陪葬墓(ばいそうぼ:王の家臣など、身近な側近たちのお墓)があります。

墳丘の西側では始皇帝がお乗りになった車馬を象る銅車馬を納めた陪葬坑(ばいそうこう:王の身近な物を副葬したもの)や、文官を模した俑(よう:人型の副葬品)を納めた陪葬坑などが地下から発見されています。

二重の城壁に挾まれたスペースを見ると、西側に「飤官(しかん)」と呼ばれる、始皇帝陵での日常奉仕を擔當する官署の建物が地上にあり、東側では力士俑あるいは石製の甲冑を納めた陪葬坑が見つかっています。

さらに二重の城壁の外側には、あの有名な兵馬俑があります。

秦の始皇帝陵に見る、中國王朝の陵墓の特徴

皇帝という強大な権力者のお墓であり、その強大なパワーの象徴を表現するために始皇帝陵が巨大であることは明らかである一方、日本の古墳とは明確に異なる特徴があります。

それは、日本の古墳は埋葬に重きが置かれ、古墳が造営されて権力者を埋葬するまでが一大イベントであり、埋葬後の古墳というのはそれほど意識をして管理や維持がなされた形跡は見られません。

一方の始皇帝陵や漢時代の王墓というのは、王墓を造営して埋葬するだけでなく、むしろその後の管理と運営にも重きが置かれていました。

どういうことか。

先ほど、始皇帝陵の複雑な內部構造をご紹介しましたが、そこには陵墓を日常的に管理?維持するために奉仕する人たちがおり、その人たちの住む建物があったと考えられています。

つまり、始皇帝陵や漢時代の歴代の皇帝の陵墓というのは、造営されて埋葬された後も管理?維持と合わせて様々な祭禮や儀式が行われるなど、神聖な場所として重要に扱われていたということです。

実際、皇帝陵における日々の儀式は相當なものだったと考えられています。

皇帝陵ごとに寢(しん)?廟(びょう)?便殿(べんでん)と呼ばれる儀禮のための祭殿があり、それぞれで目的の異なった祭祀が行われていました。

例えば寢では毎日に4食を奉り、廟では1年に25回の祭祀を捧げ、便殿では1年に4回の祭祀を行ったと言われており、寢が日常の奉仕を捧げる場で、廟?便殿は四季や節目ごとに祭祀を行う場だったというわけです。

この他、月に一度、皇帝が生前に身に付けていた衣冠を外遊させていたとも言われています。これは、皇帝の魂を身に付けていた衣服に憑依させ、「目に見えない皇帝」の御幸(ごこう:皇帝の外出)とも言えると思います。

これだけでも儀式がかなり行われていたことが分かるかと思いますが、當然そのためには莫大な予算と労働力がかけられており、陵墓の周囲にはそのための人たちが生活していたと言います。

當時の中國王朝は皇帝の住む宮殿の周りに城壁が築かれ、その外側には一般の民衆が住んでいたわけですが、陵墓もまさにこれと同じように、「死した皇帝」のおられる墳丘を中心としてその周りに城壁と陵園が造られ、そのお世話をする人たちが住むスペースがその外側に広がっていたのです。

このように、埋葬後も生前と変わらずに皇帝を神聖化する風潮が中國に根付いたのは、秦の始皇帝の時代から明確な「國家」というものが存在し、その頂點に「皇帝」があるというヒエラルキーと仕組みが成立していたからでしょう。

したがって、秦から漢に時代が変わろうとも、その頂點に君臨する歴代の「皇帝」が強大な権力の象徴であることに変わりなく、このために始皇帝陵を始めとする陵墓は、中國の歴代の皇帝により時代が築かれ、それによって現在の私たちの社會が成り立っている、という強烈なメッセージを強く民衆に植え付ける権力の象徴としても機能したのです。

メキシコの世界遺産:テオティワカン遺跡

テオティワカン遺跡の概要

最後に、メキシコの世界遺産であるテオティワカン遺跡についてご紹介します。

この遺跡がどのような民族によって形成された都市のものなのか、いまだに解明されていないなど謎が多いものの、この地に大規模な都市が形成されていたことは確かであり、注目すべきはその最盛期が350年~650年頃だということ。

そうです、日本の古墳時代と重なりますよね。

遺跡からは複數のピラミッドの他に大通りや大広場の跡も見つかっており、この地には約10萬人の住民が暮らす大規模な都市が存在していたと考えられています。

ただ、この地において権力を握っていたと思われる王の王宮などが見つかっておらず、絶対的な権力を持ったリーダーが不在であり、共和的な都市運営がなされていたとも考えられています。

もしそうだとすると、この點も日本の古墳時代と共通しますよね。

月のピラミッド?太陽のピラミッド?羽毛の蛇(ケツァルコアトル)神殿

テオティワカン遺跡では約600基ものピラミッドが建設されていたと考えられていますが、有名な月のピラミッドと太陽のピラミッド、そして中心的な祭殿と考えられている羽毛の蛇(ケツァルコアトル)神殿をご紹介します。

月のピラミッド

月のピラミッドは、紀元後100年頃から400年頃にかけて、7回にも渡って増築が行われたと考えられているテオティワカンにおいて中心的な存在のピラミッドです。

度重なる増築が行われたものの、増築はこの都市の中心と考えられている南北線上の軸に沿って大きくなっています。

また、月のピラミッドには黒曜石や貝製品など豪華な副葬品と一緒に13體の犠牲者が埋葬されています。13體の犠牲者の內、10體は打首の狀態で手を後ろで縛られた狀態で埋葬されていたことから、生贄(いけにえ)として捧げられたか、又は敵の捕虜ではないかと考えられています。

生贄という點では人間の他、ジャガーやピューマ、狼、鷲(ワシ)や蛇なども同じように生贄として埋葬されています。

これらの動物はいずれも肉食動物であり、自然界の食物連鎖では支配的な立場であることから、テオティワカンが軍事的な國家として覇権を握っていたのでは、と言われています。

なお、月のピラミッドはもともとは神殿の基壇と考えられていましたが、近年の調査ではその上に神殿のようなものは築かれておらず、儀禮を行うスペースだったのではとみられています。

また、月のピラミッドから王家の墓のようなものは見つかっていません。

太陽のピラミッド

太陽のピラミッドは月のピラミッドとは異なり、一時期に一気に今見られる大きさまで造営されたピラミッドです。

ですが、その內部からはさらに古い建物の遺構や、また雨水を引き込む穴が見つかっており、ピラミッドの真下約100メートルまで続くトンネルが掘られていたことが分かっています。

殘念ながらトンネルの先の空間は盜掘されており、そのスペースが何のためのものだったのかははっきり分かっておらず、王家の墓だったのか、神聖な儀式が行われていたのか説は分かれますが、このスペースの上に太陽の神殿が築かれていることから、このテオティワカンが勃興する最初の場所だったのでは、とする見方が一般的なようです。

また、太陽のピラミッドも月のピラミッドと同じように、その上部に神殿のようなものが造られていた形跡は見つかっていません。

羽毛の蛇(ケツァルコアトル)神殿

月のピラミッド、太陽のピラミッドと並んでテオティワカンにおいて重要な施設として考えられていたのが羽毛の蛇(ケツァルコアトル)神殿と呼ばれる神殿(ピラミッド)です。

この神殿自體は月のピラミッド、太陽のピラミッドに比べると小さいものの、四面には石彫(いしぼり)が施されており、またこの神殿を囲うようにして「城塞」が築かれており、約400メートル四方の大広場となっています。

このことから、この場所は大勢の民衆を集めて重要な儀式やイベントが行われていたと考えられています。

広場の中心に建てられたこのケツァルコアトル神殿(ピラミッド)の外壁には雨と雷の神であるトラロックと、創造と文化の神であるケツァルコアトルが祀られています。

ケツァルコアトルはマヤ文明においてはククルカンという神としても知られており、王位のシンボルとしてこの場所で王位継承などの儀式が行われたのではとみられています。

このケツァルコアトル神殿がある広場からも、太陽とピラミッドと同じような、雨水を吸い込む穴が偶然見つかり、そこから全長約100メートルの古代トンネルが掘られていたことが明らかになりました。

トンネル內部からは多くの埋葬品が出土していますが、こちらも王族の王墓であったことまでは証明されていません。

 

以上、テオティワカンにおける3つのピラミッドをご紹介しましたが、今のところは重要な儀式が行われた祭祀の場としての機能が有力視されており、王墓の可能性は謎のままですが、將來的にはびっくりする発見があるかもしれませんね。

 

(參考:「日本の古墳はなぜ巨大なのか」松木 武彥, 福永 伸哉, 佐々木 憲一 吉川弘文館)

 

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【世界遺産】百舌鳥?古市古墳群と日本の古墳時代を100倍楽しむマメ知識6選 http://www.huge-dicks.com/wh-osaka-mozu-furuichi-11350.html http://www.huge-dicks.com/wh-osaka-mozu-furuichi-11350.html#respond Thu, 04 Nov 2021 12:42:54 +0000 http://www.huge-dicks.com/?p=11350 Copyright © 2021 みんなの一人旅 All Rights Reserved.

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2019年に世界遺産に登録された大阪府の「百舌鳥?古市古墳群 -古代日本の墳墓群-」。
登録された當時は日本の歴史の中で最も古い時代(古墳時代)の遺産であり、京都や奈良に比べると少し馴染みも薄い古墳。
ですが、古墳時代は知れば知るほど面白く、日本の歴史上の重要な転換期でもありました。今回は百舌鳥?古市古墳群と古墳時代を詳しくご紹介します!

【世界遺産】百舌鳥?古市古墳群(もず?ふるいちこふんぐん)の「古墳」(こふん)って何?

「古墳」って何?

世界遺産「百舌鳥?古市古墳群」(もず?ふるいちこふんぐん)の詳しいお話しをする前に、「古墳」(こふん)について少しご説明します。

「古墳」というのは少し獨特な言葉で、厳密には考古學上で使われている言葉になります。

皆さんは「墳墓」(ふんぼ)もしくは「墳丘」(ふんきゅう)という言葉を聞いたことはあるでしょうか。「墳墓」というのは「お墓」を意味するのですが、誰かを埋葬した後、その周りや上に土などを積み重ねて小高い丘のように仕立てたものを「墳丘」と言います。

「古墳」というのは「墳丘」の一種なのですが、日本の歴史上、古墳時代というのは3世紀から6世紀までの短期間で日本各地で數多くの大きさも異なる「墳丘」がたくさん造られた特殊な時代であり、この時代に造られた「墳丘」を考古學上は「古墳」と呼んでいます。

世界各地で見られる巨大な墳丘

世界遺産「百舌鳥?古市古墳群」はその名の通り、たくさんの古墳「群」として登録されたものですが、日本で最も大きな古墳である大仙陵古墳(仁徳天皇陵)と二番目に大きな譽田御廟山古墳(応神天皇陵)が含まれていることがその特徴の一つと言えます。

時の権力者によって巨大なお墓が造られること自體は、実は日本に限らず世界の歴史においても世界各地で同様に見ることができます。

例えば、「世界三大墳墓」と呼ばれているのが、大仙陵古墳(日本)?秦の始皇帝陵(中國)?クフ王のピラミッド(エジプト)です。(ただし、厳密にクフ王のピラミッドが「王墓」であるかについてははっきりしていません。)

この三つの墳墓はそれぞれ全く異なる形をしており、體積では秦の始皇帝陵が、高さではクフ王のピラミッドが、全長では大仙陵古墳が最も大きく、まさに三大墳墓にふさわしいラインナップとなっています。

ちなみに、大仙陵古墳の全長は525メートルにも及びます。

大仙陵古墳は「仁徳天皇陵」と呼ばれていますが、これは宮內庁により定められた呼び名(「治定」(じじょう)と言います。)であり、考古學上は埋葬されているのが誰であるかははっきり分かっていません。
ですが、古墳時代に造られた古墳の中でも最も巨大な古墳であることから、當時の権力者(當時は倭國王と呼ばれていた)が埋葬されていることでは概ね見解が一致しています。

そう考えると、世界三大墳墓はそれぞれ時の最高位権力者によって造られたという點で共通しており、その目的の一つに強大な権力の誇示があったと言えるでしょう。

被埋葬者の謎

古墳はお墓ですので、誰かを埋葬するために造られたものです。ですが、「誰が埋葬されているか」というのが判明している古墳はほとんどなく、世界遺産の百舌鳥?古市古墳群も同様です。

「大仙陵古墳は仁徳天皇陵と呼ばれているから、仁徳天皇が埋葬されているのでは?」

そう思われる方も多いかと思います。同様に譽田御廟山古墳は応神天皇陵と呼ばれているため、応神天皇のお墓だと。

ですが、これは宮內庁が歴史上の資料等に基づいて定めたものであり、考古學上埋葬者が証明されたわけではありません。

ここが複雑なところで、「大仙陵古墳」という名前の中には「陵」という天皇のお墓を意味する言葉と、「古墳」という不特定の人のお墓を指す言葉の両方含まれていますが、これは「証明されたわけでもないのに天皇の名前を付けると誤解される恐れがある」とする考古學的な立場と、「天皇のお墓として神聖な場所である」とする宮內庁の立場が混ざった玉蟲色の結果になっています。

宮內庁が管理している古墳は自由に発掘調査等を行うことができません。ですが、日本一の大きさを誇る大仙陵古墳は誰のために造られたのか、近い將來に解明されることを期待します。

【世界遺産】百舌鳥?古市古墳群の概要

百舌鳥?古市古墳群ってどんな古墳?

それでは世界遺産に登録された「百舌鳥?古市古墳群」(もず?ふるいちこふんぐん)について概要をご説明します。

「百舌鳥?古市」とセットになっていますが、厳密にはそれぞれ異なる古墳群になっており、堺市の百舌鳥と羽曳野市及び藤井寺市の古市の二つのまとまりに分かれながら、內容的には一體性を持った古墳群であるために合わせて世界遺産に登録されました。

日本の古墳時代というのはおおよそ3世紀から6世紀頃まで、古墳が活発に造られていた時代を言うのですが、この二つの古墳群が造られたのは最も活発であると考えられている古墳時代中期(4世紀後半から6世紀前半)にかけてと考えられています。

當初この二つの古墳群だけでも200以上の古墳が造営されたと考えられていますが、現在殘されているのは89基のみ。その中でも世界遺産に登録されているのは45件、49基となっています。

登録件數と古墳の數が合わないのは、「陪冢」(ばいづか)と呼ばれる、大型古墳の一部を構成する小型古墳が含まれているためです。

百舌鳥古墳群には日本で最大規模の大仙陵古墳が、古市古墳群には二番目に巨大な譽田御廟山古墳がありますが、これらを含めて、墳丘の長さが200メートルを超える古墳が11基も含まれています。

「倭の五王」の謎

百舌鳥?古市古墳群の主な古墳

百舌鳥?古市古墳群は世界遺産に登録されるだけあり、巨大な古墳が多く含まれていますが、上記の通り200メートルを超える古墳の多くが宮內庁の登録では天皇陵となっていることが分かります。

日本において文字が利用されるようになったのは古墳時代からと言われているため、當時の狀況を知る歴史的な資料というのは8世紀頃に作られた「古事記」や「日本書紀」しかありません。

ですが、中國の「宋書」において當時の日本(倭國:わのくに)から使節が送られていたという記載が殘されており、それによると少なくとも倭國の5人の王の名前が記載されています。

それぞれ、讃?珍?済?興?武という名前で、「倭の五王」とも言われるのですが、それぞれが具體的に上記の古墳一覧に定めているどの天皇に當たるのかははっきりしません。

唯一、武王が雄略天皇であることは古事記や日本書紀の記載內容と整合が見られることからほぼ間違いないとされています。

倭の五王と天皇の推定

宋は420年に中國で興った國ですが、宋書では早速その翌年の421年に日本(倭國)より讃と呼ばれる國王の使節が來たと記されています。これと古墳の出來た時代を考えると、倭の五王というのはおおよそ応神天皇から雄略天皇に至るまでの天皇だったのではないか、と考えられています。

さらに、讃と珍は兄弟、済と興?武は親子関係とする記載があり、これが正しいとすると倭の五王は上記のようにそれぞれの天皇に當てはめることができるのですが、特に讃と珍に関しては論爭も多く、定かではありません。

なぜ百舌鳥?古市古墳群だけが世界遺産に登録された?

古墳時代というのは、大阪や奈良といった當時日本の中樞であったと考えられる畿內だけでなく、関東から九州に至るまで日本全國で大小さまざまな古墳が造られた時代で、実に16萬基以上もの古墳がこの時代に造られたと考えられています。

もちろん、現在も殘っている古墳は限られていますが、その中で百舌鳥?古市古墳群だけが世界遺産に登録されたのはなぜでしょうか。

先ほどもお話しした通り、百舌鳥?古市古墳群は古墳時代の最盛期に造られた古墳と考えられています。その理由の一つが、最大規模の大仙陵古墳と、二番目の大きさを誇る譽田御廟山古墳が含まれていること。

200メートルを超える墳丘を持つ古墳は全部で11基も含まれており、間違いなく古墳時代において日本で最も活発で巨大な古墳が造られたエリアと言えます。そして、これは同時にこのエリア(一説には奈良の大和地域という説もありますが)が、當時日本で最も強大な権力を持ち、日本の中心だったことでもあります。

古墳の大きさだけでなく、この二つの古墳群には前方後円墳?帆立貝形古墳?円墳?方墳の4つの古墳が含まれていますが、これは當時日本各地で造営された古墳の形式を網羅しています。

このことからも、百舌鳥?古市古墳群を押さえておけば古墳時代の特徴は概ね摑める、というわけで、まさに古墳時代の象徴であり、典型例を今に示すものとして世界遺産に登録されました。

実務的にはすべての古墳を世界遺産として登録、管理することは不可能ですし、世界遺産の登録基準の考え方として「完全性」という概念があります。

これは世界遺産として「顕著な普遍的価値」を示すために必要十分な要素が全て完全に含まれていることを指していますが、上記の通り百舌鳥?古市古墳群を押さえておけばこの完全性も満たされると考えることができるのです。

一大事業!世界遺産、百舌鳥?古市古墳群の巨大な古墳はこうして造られた

世界三大墳墓の一つに數えられる大仙陵古墳。墳丘の長さは525メートルにも及びますが、もちろん古墳は人の手で造られたもの。

古墳の造営というのは、皆さんの想像をはるかに超える一大事業であり、當時の日本人が高度な技術を持っていた証でもあるのです。古墳がどのようにして出來上がったのかをお話ししながらそれをご紹介しましょう。

①古墳を造る場所の選定

後ほどご説明しますが、大仙陵古墳を始めとして巨大な古墳は高臺の上に造られている傾向があります。

もちろんこれにも何らかの意図があったものと思いますが、古墳を造るに當たってはこの他、地盤が固くて安定している場所が選ばれています。

200メートルを超える巨大な古墳ともなると、その重さはもちろん、雨や気候変動により地盤が緩い場所だとすぐに地滑りで古墳がガタガタになってしまうからです。

大仙陵古墳は、三重に周濠(しゅうごう:濠(ほり)で周りを囲っていること)が張り巡らされていますが、その深さは內堀で4~6メートルにもなるそうです。

地盤が安定しているということは、地層が固いわけですが、それを4~6メートルも掘るというのは相當な労働量だったことが分かります。

②古墳を設計する

古墳の造営が始まる前には、當然そのデザイン設計から始まります。

巨大な古墳の多くが前方後円墳という傾向があるのですが、一言で前方後円墳と言ってもその幾何學的な形は同一ではありません。(中には同じ尺度で造られた古墳もあります。)

形のデザインが決まると、まず実寸大を一定の割合に縮小したミニチュア版の模型のようなものを、おそらく木版で作っていたのではないかと考えられています。

古墳というのはいくつかの層に分かれて段階的に積み上げが行われているため、精緻な設計に基づく古墳を造り上げるためには立體的な模型が必要だったと思います。

③実寸大の大きさを地面に平面上に作る

デザインと寸法が固まったら、それを実寸大に落とし込んでいくわけですが、まずはその平面狀の形を地面に描いていきます。イメージとしてはグラウンドに白線を引いていく作業を思い浮かべて頂くと分かりやすいかもしれません。

もちろん當時は石灰のような便利なものはありませんので、杭を打ち込んで測量しながら木の棒などを等間隔に立てるなどして大枠を固めていったのでしょうか。

ここで、幾何學的に精緻なデザインを作り上げるには「尺度」と「幾何學」の技術が必要不可欠であり、當時は何らかの基準に従った尺度が存在していた事、また、それを元に等間隔?直角?円弧などを正確に描く技術が存在していたことが分かります。

④周濠を掘り、盛り土を積み上げていく

平面狀の設計を地面に描くことができれば、後はそれに沿って周濠を掘り、土を積み上げていくだけですが、もちろんこれが最も労働力を必要とする作業になります。

まずは周濠を掘る作業からはじめ、堀った土は盛り土に使われたはずですが、もちろんそれだけでは盛り土は十分ではありませんので、他の場所から土を運んでくる必要もあります。

また、盛り土を積み上げていくのは簡単なように見えますが、実はそれを平らに仕上げるのは容易ではありません。ましてや大仙陵古墳のように巨大な平面をきれいな平にするためにはそれ相応の技術力が必要になります。

その技術力を日本人はどのようにして身に付けたのか。考えられるのは水面を利用することです。

彌生時代から日本の人々は稲作に必要な水を入手できる川の付近に村落を構えることが多く、村落が大きくなると周りを濠で囲った環濠集落が登場します。

稲作に川を利用していた日本人にとって、水面はどんな場所でも平面になることは実生活の中で知っていました。

水面に2本の木を立てて、水面に印を付けるとその印は同じ高さになり、平面を作る目安になるというわけです。

⑤葺石(ふきいし)を敷き、と土器(埴輪)(はにわ)を並べる

盛り土が完了すると、古墳の外観はとりあえず完成しますが、これで終わりではありません。

古墳はいくつかの層になっているとお話ししましたが、その層は傾斜になっており、そこには葺石(ふきいし)が敷き詰められていました。葺石というのは、土で盛った古墳が崩れないように斜面を敷き詰める時に使われた石の事です。

斜面を葺石で埋める一方、平面部分には埴輪を並べるため、大量の埴輪も前もって作っておく必要があります。

現在の古墳の寫真を見ると、どれも木々が生い茂っていてまるで1つの森のようになっていますよね。

ですが、出來上がったばかりの古墳は葺石が綺麗に敷き詰められ、おびただしい數の埴輪が規則正しく並べられていたことから、どちらかというと祭殿のような外観でした。

さらに、遠くから見ると敷き詰められた葺石に光が反射して、キラキラと輝いて見えたのでは、とも言われています。そんな神々しい古墳の姿、一度は見てみたいですね。

⑥埋葬

前方後円墳の場合、埋葬は後ろの後円部分で行われます。後円部分の墳丘からご遺體を安置するスペースを掘り、そこに埋葬をするわけです。

大量の埴輪と立派に造られた前方後円墳は、時の権力者などを埋葬する際の儀式が行われる舞臺だったとも言えるでしょう。

 

以上でようやく古墳が完成するわけですが、建設會社が出した試算によると、大仙陵古墳は2,000人もの労働者が16年かけないと完成しないほどの規模であるとされています。これだけでも古墳の造営が途方もない一大事業であることがお分かりいただけるかと思います。

【世界遺産】百舌鳥?古市古墳群と古墳が語る歴史

世界遺産の百舌鳥?古市古墳群に限らず、日本では全國で今も古墳が比較的良好な狀態で殘されており、古墳を調べることで當時の様子を詳細に知ることが可能になります。

今回は、古墳から分かる當時の日本の様子をいくつかご紹介します。

百舌鳥?古市古墳群に巨大な古墳が密集している理由

これまでご紹介してきたように、世界遺産の百舌鳥?古市古墳群はひときわ大きな古墳が密集しています。

ですが、古墳時代と呼ばれる3世紀後半から6世紀までの間で見ると、百舌鳥?古市古墳群と同時期、もしくは少し前は現在の奈良県にある大和古墳群や佐紀古墳群に見られるように、大和地域で活発に古墳が造られていたことが分かっています。

このことから、當時の日本を「大和政権」と呼んだりするわけですが、巨大な古墳が活発に造られているということは、その地域に強大な権力者がいたことを意味します。

ですが、古墳群が奈良の大和から百舌鳥?古市古墳群のある大阪?河內地域に移動していることについては、権力者の交代と考える説と、単に古墳の造営地が変わっただけとする説に二分されています。

いずれにしても、現在の奈良県?大阪府に権力の中心があったことは間違いありません。ではなぜこの地域で強大な権力者が現れたのでしょうか。

考えられる理由の1つが、當時の中國や朝鮮半島との関係です。

先ほど倭の五王のお話をした通り、実は古墳時代の日本は朝鮮半島や中國と積極的な交流がありました。

當時の日本は中國や朝鮮半島に比べるとまだまだ文化や技術で後れを取っており、馬具の生産技術や土木?建築、金屬製法から漢字まであらゆる最先端の技術が朝鮮半島を伝って日本に伝來していたのです。

注目すべきはその「交易ルート」と「鉄」です。それぞれ見ていきましょう。

交易ルート

彌生時代から古墳時代にかけて、朝鮮半島との交流は地理的にも最も近かった九州北部から活発になっていったと考えるのが自然です。

そうすると、勢力の中心は九州になるわけですが、そこからさらに日本國內にモノの移動が生まれると、九州から瀬戸內海を通って畿內へのルートが生まれます。

交易ルートが出來上がってくると、交易の途中に立ち寄るハブとなる港町に人が盛んに行き來するようになり、やがて経済的にも活発になっていくわけですが、畿內においては堺港がその役目を持っていたと考えられています。

當時の大阪灣というのは現在よりももっと內陸部にあり、大仙陵古墳は大阪灣のすぐ目の前にあったと言われています。

先ほど、大和から大阪の河內エリアに古墳群が移動した、とお話ししましたが、可能性の一つとして堺港を起點とした交易が活発になったことが考えられるのです。

「鉄」をおさえる

當時日本にはまだ製鉄技術はなく、鉄は朝鮮半島から輸入をしていました。

鉄の登場により、稲作にしても戦にしても狀況が一変するわけで、當時の日本において「鉄」をコントロールすることは強大な権力を手中に収めることにも直結したと考えられます。

では、どんな人物が強大な権力を手にすることが出來たか。それは、日本國內で製鉄の技術を確立した人でしょう。

それまで輸入に頼っていた鉄を自國で生産できるようになれば、間違いなく権力爭いを塗り替えることができたと思います。

百舌鳥?古市古墳群に巨大な古墳があり、そこに強大な権力があったということは、この地において製鉄をコントロールする権力者がいたのではないか、と考えられるのです。

古墳の埋葬品が語ること

古墳には、埋葬者と共に多くの副葬品も埋葬されます。この副葬品は古墳が築かれた時代によって、異なる傾向が見られます。

初期の古墳には鏡や腕輪型石器などが副葬品として主流だったのですが、中盤以降は鉄製の武具や武器、馬具の他に銀製品や金銅製の馬具などが數多く出土しています。

これは先ほどお話しした通り、朝鮮半島から鉄が伝わり、それがやがて日本國內で生産できるようになると一気に流通が広がったことによるものと考えられています。

また、世界遺産の百舌鳥?古市古墳群からは數多くの鉄製の武具や武器が出土している一方、関東の千葉県などにある古墳からは鉄製の副葬品はほとんど出土されていません。

このことからも、「鉄」は當時の権力の象徴でもあったことが分かります。

ちなみに、副葬品に鉄製の武器や武具が多く含まれていることは、必ずしも當時の日本において統率された軍隊があったことを示しているわけではなく、実戦ではなく儀式的な裝飾のためと考える説もあり、はっきりしたことは分かっていません。

次にお話しする通り、當時の日本國內は緩やかな首長連合のような支配體制にあったことから、戦國時代のように戦に明け暮れていたわけではなく、また、當時は朝鮮半島で高句麗が勢力を強め、當時倭國と同盟関係にあった百済に攻め込むなど、倭國全體の安全が脅かされていたこともあり、むしろ倭國としては一団となっていた可能性もあるためです。

多様で數多い古墳が語るもの

古墳時代には16萬基以上もの古墳が造られたと言われています。

この記事の最初にご紹介したように、世界を見てみると秦の始皇帝陵やピラミッドなど、大きな墳墓は世界各地で見られるものの、これほどまでに數多く作られた例は他に類を見ません。

なぜ日本の古墳時代にはこれほどまでに多くの、そして多様な古墳が生まれたのでしょうか。

その理由として考えられているのが、當時の日本國內での勢力のあり方です。

縄文時代から彌生時代を経て、日本國內では定住生活が根付き、血縁関係による集落が各地で生まれます。そして、集落の規模は大きなものになり、近隣の集落との爭いも経ながら徐々に頭角を現すリーダー格となる人物も出現します。

その一人が、皆さんがよくご存じの卑彌呼です。卑彌呼は呪術や祭術により人々を掌握し、日本國內で一定の勢力を持つ國を形成しました。

ですが、倭の五王でお話ししたように、朝鮮半島との交流が生まれるにつれ、卑彌呼の祭術では倭國の統一が難しくなったと考えられます。

卑彌呼亡き後の日本を考えてみると、今のように「國家」は誕生していないものの、國內で緩やかな首長連合のような體制は成立していたものと考えられています。

この首長連合は、獨裁的なトップが存在するわけではなく、権力の大小はあるにしてもその支配が緩やかに広がっている體制を言います。

つまり、首長の中でトップの権力を握る人物がいたにしても、その権力が國內隅々まで行きわたるわけではなく、ある程度地方の支配は地方の首長に委ねられていたということです。

そう考えると、古墳が日本國內の各地でサイズや形狀に一定のルールを持った中で一斉に造営されたことも説明が付きます。ルールというのはもちろん、権力の大きな首長ほど大きな古墳を造る資格があるというものです。

さらに、巨大な古墳のほとんどが前方後円墳である一方、全體の古墳の多くは方墳や円墳が占めていることは、地位によって古墳の形狀が決められていたという考え方もできそうですよね。

なぜ百舌鳥?古市古墳群に見られる巨大な古墳が造られたのか?

古墳は権力者の墓であることは十分お分かり頂けたかと思いますが、それではなぜ世界遺産の百舌鳥?古市古墳群に見られるような巨大な古墳が競うようにして數多く造られたのでしょうか。

古墳が巨大化した理由についても、これという明確な説はまだ確立しておらず、いくつかの説が唱えられています。

①外交上の理由で対外的に日本の力を誇示する必要があった

先ほど少しお話ししましたが、古墳時代の大阪灣は現在よりももっと內陸部にあり、大仙陵古墳は海からほど近い場所に見えていたとされています。

それはどういうことか。考えられるのは、海を通って外から港に入ってきた外來人に古墳の大きさを見せつけることで、日本の強大な力を誇示する目的があったということです。

この説の裏付けとして、大仙陵古墳は海岸線に平行に、そして高臺の上に造られていることが挙げられます。このような造りは、海から眺めた際により巨大に見える視覚的な効果があるからです。

2つ目の裏付けとして、當時の朝鮮半島では高句麗が勢力を南に伸ばし、日本と同盟関係にあった百済を脅かしていたことも挙げられます。當時の日本はすでに朝鮮半島という外交戦略を積極的に進めていたのです。

②國內での勢力爭いでより強大な力をアピールする

2つ目の説は、逆に國內での権力の誇示を目的としたとする説です。

先ほど、當時の日本は首長連合のような支配體制だったので、激しい爭いは起こりにくかったのではという話をしましたが、権力の象徴とされる「鉄」の生産が可能になると、鉄を持つことによるアドバンテージは一気に弱くなってしまいます。

そこで、鉄を大量に生産できるパワーなど、「質」ではなく「量」が権力を見せつける基準になり、その一つが古墳の大きさだったと考えられるわけです。

もう一つの説として、百舌鳥と古市古墳群はそれぞれ対立する勢力による古墳群ではないか、という説があります。これは、百舌鳥の大仙陵古墳が陵墓とされる仁徳天皇と、譽田御廟山古墳が陵墓とされる応神天皇が、當時天皇の系列の中でも対立する勢力だったことによるものです。

百舌鳥?古市古墳群が世界遺産に登録された理由

最後に、百舌鳥?古市古墳群が世界遺産に登録された理由をいくつかご紹介します。

この記事の最初にご紹介した通り、世界遺産に登録された理由を考える時、世界の墳墓における日本の古墳の特殊性に著目することがポイントです。

①首長連合という獨特の支配體制の存在を示す遺産であること

これは先ほどご紹介したため省略します。

世界では秦の始皇帝陵やピラミッドのように、當時の絶対権力者による少數の巨大墳墓が一般的であるのに対し、日本の古墳は緩やかな首長連合體制により、大小多くの古墳が造られたこと。これは日本にしか見られない特徴です。

さらに、ピラミッドはせいぜいマスタバ墓と2種類しかないのに対し、古墳は前方後円墳の他、円墳や方墳など種類が豊富にあることも日本にしか見られない特徴です。

②特定の期間の後、一気に姿を消したこと

16萬基以上も造られた古墳も、7世紀以降はぱったりと姿を消します。

7世紀といえば日本に仏教が伝來し、8世紀になると聖徳太子が活躍しますよね。

古墳が消えた理由の一つとして考えられるのは、そもそも巨大な権力を示す必要が無くなった事。これを可能にしたのが仏教の伝來と、天皇制の確立です。

天皇制によって、天皇が神聖な存在になり基本的にその血縁が絶対視されるようになると、不可侵なものとして古墳を造るまでもなく、権力の象徴になりました。

そして、仏教の力で國を護り治める、いわゆる護國仏教が日本に定著すると、権力を示すことよりも仏教の偉大な力が國を治める源になるとの信仰から、こぞって寺社が建てられるようになるのです。

③儀式の舞臺としての古墳

日本の古墳とピラミッドを比較した時、どちらも墳墓であるという共通點があるものの、一方で明確な違いが見られます。

それは、ピラミッドでは埋葬した後にピラミッドを積み上げていくのに対し、日本の古墳はまず古墳を造ってから埋葬を行うことから、埋葬の順序が異なることです。

これは、日本の古墳がお墓だけでなく、死者を黃泉の國に送り出す儀式の場として捉えられていたことを意味しています。

このような思想は古墳に並べられた埴輪に見ることができます。

前方後円墳を例にすると、埋葬者は後円部分に埋葬されますが、その真上の平面部分には多くの埴輪が並べられました。

埴輪は中心に家形の埴輪が置かれ、その外側に建物を護る盾や太刀、甲冑などの武器?武具が置かれました。さらにそれらを包み込むように円筒埴輪や朝顔形埴輪が何重にも置かれ、これらの埴輪は食べ物や飲み物を満たす壺や高杯を意味するものです。

これを象徴的に見ると、埋葬者の上には堅固な守りの家が建てられ、たくさんの食べ物や飲み物で満たされています。

つまり、埋葬された人の魂が死後の世界に旅立つための豪華な送り出しの儀式の舞臺が仕立てられているのです。そして、肉體は地下に還る-。

このように考えると、死者を送り出すための舞臺を途方もない労働力で準備する日本人の思想には驚かされるばかりです。

ちなみに、大仙陵古墳に見られる周濠も、周囲と古墳を明確に切り離すことで死後の世界を表現しようとしたのではないか、と考える説もあります。

④現在も多く殘されている古墳

考えてみると、1700年近く前に造られた古墳が、今は森のように木々が生い茂る狀態ながらも現在まで殘されているのは奇跡と言えます。

日本においては信仰から保存の対象とされたお寺や神社でさえ、災害や戦、明治時代の廃仏毀釈などで多くが失われている一方、意図した保存の対象とはなりにくい古墳が今に殘っていることは素晴らしいことです。

今に至るまで古墳が殘されている理由の一つとして、古墳がその周囲に住む住民たちと共生していたことが言われています。

例えば古墳の周囲を巡る周濠は稲作の環濠用水や生活用水として利用され、古墳に生い茂った木々は生活の材料として伐採されてきたと考えられています。

 

いかがでしたでしょうか。

自由に見學もできず、京都や奈良に比べると少し印象の薄い世界遺産ですが、百舌鳥?古市古墳群を知ることで日本の古墳時代の面白さや、日本人の思想、そして日本の歴史において古墳時代がいかに重要な時代であったかを知ることができます。

未だに解明されていないことも多いからこそ、ロマンもある世界遺産の百舌鳥?古市古墳群。ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。

 

(參考:「古墳文化の煌めき」 五十嵐 敬喜, 巖槻 邦男、西村 幸夫、松浦 晃一郎 編著 株式會社ブックエンド、「仁徳天皇陵と巨大古墳の謎」 水谷 千秋 寶島社、「巨大古墳」森 浩一? 草思社、「日本の古墳はなぜ巨大なのか」國立歴史民俗博物館、松木武彥 福永伸哉 佐々木憲一、吉川弘文館、「倭王の軍団」西川 壽勝 田中 晉作 新泉社)

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【世界遺産】高野山?慈尊院を100倍楽しむためのマメ知識と見どころ http://www.huge-dicks.com/wh-wakayama-jisonnin-11327.html http://www.huge-dicks.com/wh-wakayama-jisonnin-11327.html#respond Mon, 18 Oct 2021 01:08:03 +0000 http://www.huge-dicks.com/?p=11327 Copyright © 2021 みんなの一人旅 All Rights Reserved.

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世界遺産、「紀伊山地の霊場と參詣道」の構成遺産として高野山エリアで登録されている慈尊院。
弘法大師?空海の母親である玉依御前(たまよりごぜん)にゆかりのお寺として、以降特に女性の御利益を司る場所として親しまれています。
今回はそんな世界遺産の慈尊院の歴史や見どころ、高野山との関係についてご紹介します!

【世界遺産】高野山?慈尊院ってどんなお寺?

慈尊院へのアクセス

世界遺産に登録されている高野山へは、南海高野線の極楽橋駅からケーブルカーで高野山まで上り、そこからバスで気軽にアクセスすることが可能です。

ですが、この地を真言密教の聖地として開創した弘法大師?空海が生きていた時代には當然電車もケーブルカーも、それにバスもありません。

今回ご紹介する慈尊院は、電車やバスが無かった時代に人々が高野山に參詣する時の起點、入口となった場所です。

南海高野線で極楽橋駅まで行く途中にある「九度山(くどやま)」駅が最寄り駅となりますが、この駅で下車して徒歩20分くらいでしょうか。約2キロほど歩いた場所にあります。

南海高野線の九度山駅を出た場所から慈尊院や町石道への案內板が設置されているので、それに沿って進めば慈尊院にたどり著くことができます。

駅を出てすぐは少し迷われるかもしれませんので、あらかじめグーグルマップなどで駅から慈尊院への方向だけでも大まかに把握しておくと安心です。

慈尊院と弘法大師?空海の母、玉依御前

世界遺産?慈尊院は、もともと弘法大師?空海の御母公(母親)である玉依御前(たまよりごぜん)という方が滯在していた草庵が起源となっています。

弘法大師?空海の生まれは今の四國ですから、もとからこの場所に母親が住んでいたわけではなく、高野山を開創し、そこで修業と真言密教を広げるために籠っていた息子の空海に一目見ようと、834年、四國からはるばるこの地を訪ねてきたのです。

実は高野山はもともと女人禁制の地として、周囲七里四方は女性の立ち入りが禁止されていました。

別記事でご紹介した通り、高野山というのは弘法大師?空海が仏教の聖地として開創する前から神々が宿る場所として、地元の人々からも深く信仰の対象とされてきた場所です。

そうした歴史もあり、弘法大師?空海は真言密教の道場として高野山を開創した後も、女性の存在が仏教の修行の妨げになるものとして女人禁制としました。

そして、この規則はたとえ弘法大師?空海の母親であっても例外ではありません。

はるばる息子に會いにこの場所に訪れた玉依御前でしたが、そこから先、高野山への立ち入りは固く禁じられており、泣く泣くこの場所から息子を祈ることしかできなかったのです。

母親の深い愛情に感銘を受けた弘法大師?空海は、母親に會うために足しげく高野山から20キロ以上ある道のりを慈尊院まで通っていたと言われています。
その頻度は月に九度にも及んだというエピソードから、この地は「九度山」という名前が付いたと言われているのです。

慈尊院の役割

世界遺産?慈尊院は弘法大師?空海の母親の玉依御前の草案という以外にも、高野山が開創されて以降重要な役割を擔っていました。

それが、高野山の政所(まんどころ)としての存在です。簡単に言うと、高野山の運営事務局のようなもので、例えば根本大塔の創設に當たって必要な木材の材料等の保管場所としても使われていました。

資材の保管場所だけでなく、高野山での生活に必要な物資もこの慈尊院に集められて高野山に運搬されたり、また弘法大師?空海の入定後、平安時代後期に藤原道長を始めとする貴族や皇族による高野詣(こうやもうで)が活発になると、參詣者の宿泊所としても機能したと言われています。

慈尊院の裏手にある世界遺産の丹生官省符神社の名前にもなっている「官省符」というのは、年貢など租稅の免稅が許された特別な扱いを意味しているのですが、貴族や皇族、その後は武士の庇護も受け、高野山は広い寺社荘園を有することになり、経済的なゆとりも生まれます。

この際にも慈尊院は寺社荘園の管理事務所として食糧の保管も行っていましたが、1540年の紀ノ川の氾濫をきっかけに、その機能は山上に移りました。

【世界遺産】高野山?慈尊院の見どころ

下乗石(げじょういし)

それでは世界遺産?慈尊院の見どころをいくつかご紹介していきます。

まずは表門の外側、左手にある小さな石の記念碑にご注目ください。この石は「下乗石(げじょういし)」と呼ばれています。

慈尊院は昔から高野山に參詣する際の表參道(町石道(ちょういしみち)と呼ばれ、現在も歩くことができる信仰の道です。)の出発地點として、ここから多くの參詣者が高野山に上っていきました。

高野山への參詣に身分は関係ありません。先ほど申し上げた通り、貴族?皇族もこの場所から高野山に上っていったわけですが、この下乗石で、貴族たちが馬や籠を降りて、御歩きになったのです。

ちなみに、高野山の表參道である町石道も參詣道として世界遺産に登録されており、別記事で詳しくご紹介していますが、先ほどお話しした通り、この道は弘法大師?空海が母親に會うために通った道でもあります。

築地塀

慈尊院への入り口では、まず慈尊院の周りに巡らされた築地塀にぜひ注目してみてください。

寫真の通りとても古いもので、砂を含めた粘土を積み上げて築かれたとても珍しいものです。後述する16世紀の紀ノ川の氾濫が起こった時にはすでにあったものとされています。

多寶塔

慈尊院の中にあるのがこちらの多寶塔。高野山の根本大塔に比べると一回り小さなサイズになっていますが、真言宗のお寺の象徴でもあります。

こちらの多寶塔は室町時代に建設が行われ、最終的に完成したのは100年以上先の江戸時代、1624年のことと考えられています。

完成までやけに長い年月がかかっていますが、その理由は定かではありません。室町時代から江戸時代までは戦國の世だったので、建設がいったん中斷してしまったのか、それ以外の理由によるものか。

ですが、近年の発掘調査で面白いことが判明しています。それは、室町時代に著工した當初は多寶塔ではなく三重塔として設計がなされていた、ということ。

當初三重塔として計畫され、初重、つまり一階部分まで完成したところでいったん作業がストップしていたようで、その後再開する際に出來上がっていた初重部分を多寶塔の下の基壇として利用し、多寶塔として完成させたそうです。

鬼子母神

多寶塔の隣に小さく佇んでいるのが鬼子母神を祀る御堂で、ご利益は子育て、安産、子供いじめの解消、子供安全となっています。

慈尊院が玉依御前という女性に捧げられたお寺であることから、同じ母親の神として鬼子母神も祀られているのでしょうか。

鬼子母神は千人とも言われる子どもがいましたが、子どもを育てるために他人の子どもをさらってはそれを食べていました。

子どもをさらわれた母親たちは悲しみのあまり、お釈迦様に相談したところ、お釈迦さまは鬼子母神の子どものうち一人を隠してしまわれます。

自分の子どもがいなくなった悲しみに打ちひしがれた鬼子母神は、子どもを失う悲しみを知り、以後は子供をさらうことはしなくなった代わりに、子どもと同じ味がすると言われるザクロの実を食べたと言われています。

少し不気味な話ではありますが、このため秋にはザクロがお供えされ、鬼子母神は右手にはザクロを持ち、左手に子どもを抱いた天女の姿をされています。

彌勒堂と彌勒菩薩(國寶)

世界遺産?慈尊院の一番の見どころが、ご本尊である國寶の彌勒菩薩(彌勒仏坐像)が安置されている彌勒堂です。

このお寺も、彌勒菩薩の別名である「慈尊」という名前から付けられたものです。

生前に彌勒菩薩を厚く信仰していた母?玉依御前を弔うため、弘法大師?空海が彌勒堂を建てたと言われており、このためご本尊の彌勒仏は玉依御前の化身とも言われています。玉依御前は835年に入滅されました。

ちなみに、彌勒菩薩というのはお釈迦様の入滅後、56億7千萬年後、仏の教えが世界に行き屆かなくなり、廃れた世界を救済するために地上に現れる未來仏。

そして高野山には弘法大師?空海の入定信仰があり、空海は現在も奧之院の御廟にて人々の救済のために瞑想されており、彌勒菩薩と共に遠い未來にこの世に現れるものと信じられています。

國寶にも指定されている彌勒仏坐像は秘仏のため、殘念ながら直接拝むことはできません。ですが、彌勒堂の前に置かれているみろく石を片手で撫でることで、ご本尊の彌勒仏と縁結びを行うことができます。

乳房型の絵馬

世界遺産?慈尊院の特徴の一つが、お寺を訪れた參詣者が掲げていった乳房型の絵馬がたくさん飾られていること。

これは、いつの頃から行われているか不明ですが、自分の乳房と同じ大きさの乳房を布で手作りで作り、それを絵馬として奉納する風習に基づくものです。

この寺が玉依御前という母親の女性のために建てられたこと、そして、玉依御前に限らず、明治時代に入るまで女人禁制だった高野山を、男性と同じように參詣したい女性が高野山に入山できない代わりに、この慈尊院を訪れてここから祈りを捧げたことによるものでしょう。

このため、慈尊院は「女人高野(にょにんこうや)」とも呼ばれています。

高野山の案內犬?ゴン

この慈尊院には不思議な出來事がありました。

昭和の終わりごろ、どこからともなく一匹の白い犬が慈尊院に住み著くようになりました。訪れる參詣者から「ゴン」という名前で親しまれるようになります。

このゴン、不思議なことに、いつの頃からか自然に、高野山にお參りする參詣者が道に迷わないようにと、大門まで案內するかのように參詣者と一緒に山を上り、その後はまた慈尊院に戻ってくるようになったのです。

慈尊院から大門まで、片道20キロ近くある道のりです。それを往復するだけでどれだけ大変か、參詣道である町石道を歩かれた方ならお分かり頂けるかと思います。

実は高野山の開創にまつわるエピソードでも、この地を訪れた弘法大師?空海に対して高野山に鎮座する神で狩人に姿を変えて白黒二匹の犬を連れた高野明神が、高野山を案內したと言い伝えられており、「犬」は高野山信仰におけるキーワードでもあるのです。

その犬が、參詣者を高野山に案內するのはまるで、かつて高野明神が弘法大師?空海に対して行ったそれと考えると、とても不思議ですよね。

この案內犬?ゴンは2002年6月5日、天壽を全うするわけですが、奇しくも5日というのは玉依御前の月命日でもある日。このことから、ゴンは玉依御前が生まれ変わり、高野山を訪れる人々の手助けをしていたのでは、と言われています。

慈尊院の奧にある弘法大師象の隣には、案內健?ゴンの石造も建てられているので、是非合わせてお參りしてください。

慈尊院が世界遺産に登録された理由~高野山とのつながり~

慈尊院と高野山のつながり

慈尊院の中には、上の寫真のような蓮の花のモニュメントが置かれています。仏様と言えば蓮の上で瞑想をされているイメージがあると思いますが、仏教と蓮は深いつながりがあります。

ですが、高野山において「蓮」というのはもう一つの意味を持っています。それは、高野山が「八葉の峰」と呼ばれていること。

高野山というのは周りを1,000メートル級の高い山々に囲まれている中にある平地になった場所です。そのため、まるで蓮の花が開いたような姿から、このような呼び名がつきました。

こちらは、蓮の花のモニュメントの橫に置かれた看板です。何やら蓮の花の絵が描かれていますが、これは何を意味しているのでしょうか。

よく見ると、上部左側には「慈尊院」の文字があり、真ん中に「大塔」という文字と蓮の大きな花が、そして右側には「奧院」とさらに蓮の花が伸びています。

そうです、これは慈尊院?根本大塔?奧の院を含む高野山全體を表しているのです。そして、それぞれをつなぐ「莖」の部分になっているのが、先ほどご紹介した表參道の町石道を示しています。

これについては別記事で詳しくご紹介していますが、弘法大師?空海は高野山の開創に當たって、この世に真言密教の世界を創り出す壯大な計畫を持っていました。

真言密教の世界というのは、両界曼荼羅に表される金剛界と胎蔵界、そしてその中心におられる大日如來のこと。

そして上の寫真は、慈尊院を含む高野山が金剛界と胎蔵界からなる真言密教の世界であり、この世の浄土であることを説明した図になっているのです。

慈尊院が世界遺産に登録された理由

いかがでしたでしょうか。

慈尊院が世界遺産に登録された理由。筆者はそこには二つの理由があると考えています。(ご本尊である彌勒菩薩が國寶に登録されており、歴史文化上貴重な財産である點以外で考えています。)

一つ目は、慈尊院が聖地?高野山の入口であり、先ほどご紹介した真言密教の世界の一部分を擔っていること。

高野山の聖域というのは慈尊院から始まるのであり、その仏教の聖域に対する人々の信仰として、長い歴史の中で出來上がった信仰の道である町石道の起點となっています。

また社會?経済的な役割としても高野山の政所として、歴史上重要な役割を擔っていた高野山の拠點でもあります。まさに今に至るまで高野山を支えてきた屋臺骨とも言える存在と言えますよね。

二つ目は、慈尊院に根付いている女人高野の信仰を今に伝える存在であること。

女人禁制で高野山に入山することが出來なかった女性にとって、高野詣の対象となったのはこの慈尊院だったことはすでにお話ししました。

もともと弘法大師?空海の母親である玉依御前ゆかりのお寺ということもあり、女性の拠り所として乳房型の絵馬に見られるように獨特の風習が根付いています。

これは、女人禁制という高野山信仰が生み出した獨特な文化慣習であり、また、女性にとっての高野山信仰の全容をを今に伝える上では欠かせないものであると思います。

 

高野山のふもとにあるものの、少しアクセスしにくい場所にある世界遺産の慈尊院ですが、ぜひ高野山を訪れた際にはこちらも合わせて訪れてみてください!

 

(參考:「空海と高野山」中村 本然 青春出版社、「世界遺産マスターが語る高野山」尾上 恵治 新評論、「古社名剎 巡拝の旅 高野山」集英社)

 

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世界遺産の宿坊に泊まる!高野山?金剛三昧院(こんごうさんまいいん)の一人旅宿泊記 http://www.huge-dicks.com/wh-wakayama-kongosanmaiin-shukubou-guide-11287.html http://www.huge-dicks.com/wh-wakayama-kongosanmaiin-shukubou-guide-11287.html#respond Mon, 11 Oct 2021 06:02:00 +0000 http://www.huge-dicks.com/?p=11287 Copyright © 2021 みんなの一人旅 All Rights Reserved.

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世界遺産の高野山の楽しみの一つとして、宿坊での宿泊體験を挙げる方も多いのではないでしょうか。現在、高野山には50を超える宿坊があるのですが、今回ご紹介するのはその中でも唯一世界遺産に登録されている金剛三昧院です。
宿坊での滯在がどのようなものか、世界遺産?金剛三昧院の見どころと合わせてご紹介します!

「宿坊(しゅくぼう)」って何?

宿坊の概要

皆さんは「宿坊(しゅくぼう)」という言葉はご存じでしょうか。

宿坊というのは、お寺などに併設されている參詣者のための滯在施設のことです。お寺にある旅館、というイメージを持っていただければ良いかと思います。

宿坊があるお寺であれば、檀家でない一般の人でも宿泊可能な時期で予約を取ることができれば誰でも宿坊を利用することができます。

ホテルや旅館と同じように個室が用意されていて、大浴場や食事、中には露天風呂付きの宿坊まであります。

世界遺産?高野山の魅力は何といっても、50を超える宿坊があり、ホテル選びのようにいろいろな宿坊の中から気に入った宿坊に滯在することができること。

一口に宿坊といっても庭や食事(精進料理)、露天風呂併設など宿坊ごとに違った魅力があるので、高野山を訪れるたびに違う宿坊に滯在する、という楽しみ方ができますよね。

ホテルや旅館と宿坊の違い

宿泊施設としてはホテルや旅館と同じ宿坊ですが、違う點もいくつかあります。ホテルや旅館と同じ感覚で利用すると、少し不便に感じたりがっかりすることがあるかもしれないので、ホテルや旅館と違う部分もある、ということは理解しておいてください。

例えば、ホテルや旅館と違って宿坊の場合はチェックイン?チェックアウトの時間が比較的短く、柔軟に対応してくれるわけではありません。

もちろんやむを得ない事情などで、指定の時間にチェックインをすることが出來ないことだってあると思いますので、そのような場合は事前に電話等で連絡をしておけば個別に対応してくれることがほとんどです。

利用時間、という點で言えば宿坊にもよりますが、食事や共同浴場の利用時間も決められていることが多いかと思います。

ですので例えば食事の時間をこちらの好きな時間にセットしてもらう、というような柔軟な対応を行っていない宿坊もありますので、もし時間を拘束されるのは避けたい、ということであれば事前に柔軟に対応してもらえる宿坊があるかリサーチしてみましょう。

このように、宿坊はあくまでも「參詣者が一時的に滯在できるような施設」であって、滯在者のお世話をしてくれるのもそのお寺に勤めたり修行をされている僧の方です。

ホテルや旅館は「おもてなしのサービス」がメインである一方、宿坊は必ずしも「おもてなし」を目的としたものではない點は理解が必要だと思います。

と言っても、案內してくださる僧侶の方は親切に対応してくださいますし、十分に「おもてなし」の気持ちを感じながら快適に滯在することができるのでご安心ください。

ご參考用に、高野山の宿坊協會のホームページもチェックしてみてください。

【世界遺産】高野山?金剛三昧院(こんごうさんまいいん)

金剛三昧院の概要

今回筆者が滯在したのは金剛三昧院(こんごうさんまいいん)というお寺の宿坊です。

このお寺を選んだ理由が、高野山內の寺院の中で唯一世界遺産に登録されているから。なぜ世界遺産に登録されているのかについても含め、金剛三昧院の見どころをご紹介します。

金剛三昧院の特徴の一つとして、高野山の中では珍しく武家によって創設された寺院であり、建立後の歴史においても武家とのつながりが強かったことが挙げられます。

創建は1211年であり、鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻、北條政子が亡き夫の菩提を弔うために建立したことが始まりです。

また、本尊は北條政子が源頼朝と等身大の念持仏(ねんじぶつ:個人的に常にお祈りできるよう、身近に置いておくための仏像)として仏師の運慶(うんけい)に造らせたと言われている愛染明王(あいぜんみょうおう)です。

愛染明王というのは怒った形相(忿怒:ふんぬ)をした明王で、その名の通り戀愛や結婚、家庭円満など女性の祈願を司る仏様になります。

お寺を造った當初は禪宗のお寺として、臨済宗の開祖である栄西(えいさい)を招いて開山第一世としていましたが、その後息子の実朝(さねとも)が暗殺されるとその供養のために多寶塔を建立し、お寺の名前も金剛三昧院に改稱されました。

その後は密教や禪宗に加えて律宗の三宗兼學の場となり、さらに浄土宗も加わるなどかなり特殊な仏教道場となりましたが、現在は高野山真言宗のお寺となっています。

北條政子が建立したということもあり、鎌倉時代以降源家?北條家や足利家といったそうそうたる武家の菩提寺として、高野山の中でも多くの諸寺院を束ねる有力な存在であり続け、寺領(お寺が所有する土地)も高野山內の寺院の中では最も多かったと言われています。

主な見どころ

多寶塔

世界遺産?金剛三昧院の一番の見どころは何といってもこちらの多寶塔です。建立された理由は先ほどご紹介しましたが、鎌倉時代に造られた多寶塔であり、高野山內では最古の木造建築になります。

経蔵

こちらの経蔵も多寶塔と同時期に造られた建築物として、鎌倉時代の建築を伝えるものとしてとても貴重な建物です。校倉造りになっているのも特徴的ですね。

四所明神本殿

金剛三昧院の境內に鎮守として祀られている神社で、高野?丹生?気比?丹生御息の四柱の神をお祀りしています。高野?丹生?気比に関しては、同じく高野山の世界遺産に登録されている丹生都比売神社や丹生官省符神社でもおなじみです。

さらに、こちらの社殿は一間社の春日造りになっており、建築様式も同様ですね。

お寺の中にこのような神社が置かれていることは、この金剛三昧院が造られた鎌倉時代にはすでに神仏習合(しんぶつしゅうごう)、つまり神様と仏様を同一の存在として信仰することが根付いていたことを表しています。

金剛三昧院においても、丹生明神は胎蔵界の大日如來、高野明神は金剛界の大日如來、気比明神は千手観音、丹生御息は文殊菩薩を祀っているものとされています。

金剛三昧院が世界遺産に登録された理由

以上見てきた通り、金剛三昧院が世界遺産に登録された主な理由は以下の二つになるかと思います。

①鎌倉時代に建てられた多寶塔や経蔵が、當時のままの姿で今も殘されており、當時の貴重な建築物を今に伝えている
②北條氏の菩提寺として、武家との強いつながりを元に高野山內でも有力寺院としての存在であったこと

金剛三昧院は高野山の中でも中心地から少し外れた場所にあり、壇上伽藍や他の寺院が度重なる火災に見舞われた一方、このお寺はそのような災害から免れられたことが、多寶塔など貴重な建物が當時の姿を失うことなく今に至るまで殘った理由と言われています。

【世界遺産】金剛三昧院の宿坊體験記

世界遺産の金剛三昧院は、高野山內のメイン交差點である千手院橋を少し奧の院側に進み、南に坂を上ったところにひっそりとたたずむお寺です。

ちなみに、坂を上る手前の通りにはコンビニ(デイリーヤマザキ)もあり、金剛三昧院は宿舎とお寺が別の場所にあるため夜間の出入りも自由ですので、ふらっとコンビニに食料や飲み物を買いに出かけることも可能です。

チェックインまでの時間つぶし

チェックイン前に荷物を預けに

こちらが金剛三昧院のお寺の入口です。通常の參拝客は入口入ってすぐ右側にある拝観料を支払って中に入ります。

宿坊に宿泊する客は、窓口で宿坊の宿泊者で予約していることを伝えると中に案內してもらえます。

ちなみに金剛三昧院のチェックイン時間は14時から17時の間。筆者はチェックインより前の時間に、まず荷物だけ置きに一度立ち寄りました。

宿坊の宿泊者である場合は荷物も窓口で預かってもらうことができます。預かる、と言っても窓口橫のスペースに置かせて頂くだけです。でも窓口の人がずっとそばにいるわけですので、ある意味とても安全ですよね。

この日は高野山3日目で、前日までは別のゲストハウスに宿泊しており、最後の一泊だけは高野山の醍醐味でもある宿坊に泊まりに來ました。

中華料理屋「ミッチー」

荷物を預けに行ったのが正午前だったので、荷物を預けてデイリーヤマザキの隣にある中華屋「ミッチー」でお晝にしました。

コロナ禍ということもあり、高野山內の観光客はまばら。ましてや平日なので、お店も空いていました。

飲食業界で働かれている方は想像以上に大変なんだろうな、特に観光地だったらなおさらだな、、と改めて実感。

注文したのはラーメン+チャーハンセット。

今日はこの後、高野山ケーブルで極楽橋まで下り、世界遺産にも登録されている不動坂を歩く予定なので體力をつけるためにもガッツリ頂きます。

女將さんはとても気さくな方で、お客さんもまばらだったため少し雑談して世間話もしました。

やっぱりコロナ禍で、それまでたくさん訪れていた外國人観光客がぱったり來なくなってしまったと嘆いてました。

女將さんによると、外國人観光客で多いのがイスラエルなんだとか。その次はスペインだったかな?意外にアジア系はそこまで多くないとのこと。

高野山は宗教の聖地だし、參詣道という信仰の道でも有名なので同じく「信仰の道」が世界遺産に登録されているスペインや、ユダヤ?イスラム?キリスト教の聖地であるエルサレムのあるイスラエルから多く人が訪れるのかな、と思いました。

コロナ禍で大変でしょう、という話をすると、和歌山県は補償制度がとても厚いようで、いろいろな手當が支給されていて助かっているようです。

一時的な給付金以外にも、観光地である高野山內で利用できる地域クーポン券みたいなものも発行されていて、割安で日用品などにも使えるので、県內からも買い物がてら高野山に來る人が多いのだとか。

県のサポートが充実しているようで何より。

不動坂

晝食後、高野山ケーブルで極楽橋まで下りて不動坂を上ることに。

高野山には不動坂の他、女人道や町石道などの參詣道ルートがあり、トレッキングがてら楽しむことができます。中でもこちらの不動坂は約2.2キロ程度、1時間弱の道のりなので散歩気分で楽しむことができるお手軽コースです。

道はこのように整備されているので、特に準備無しにスニーカーでも歩くことができます。

一つ注意しないといけないのは、極楽橋を下りたところにも看板が出ていたのですが、この近辺ではクマの出沒情報が出ているとのことで、できればクマ除けの鈴などあると安心です。

人で賑わうトレッキングルートでもなく、人気が無いと余計に怖いなあと思い、筆者も太い木の枝で杖代わりに地面を叩きながら歩きました。

途中、何人かの観光客とすれ違い、ホッと安心したのを覚えています。皆さん上から降りて來られるので、下から上がるよりも上から下る方が一般的なのでしょうか。もしくは往復しているのかも。

1時間ほどで山頂の車道に出て、無事女人堂に到著!不動坂は極楽橋から女人堂までの短いルートです。

この道を歩けば、高野山ケーブルカーと高野山バスに乗車せずに高野山の中に入ることができるので、そういう意味でも歩いて損はない道になります。

チェックイン?滯在

不動坂を歩いた後はそのまま歩いて高野山內に入り、こちらも世界遺産に登録されている徳川家霊臺を観光。

その後バスで千手院橋まで移動し、いよいよ金剛三昧院にチェックインです。

入口では晝前に來た時に名前と顔を覚えていてくれたので、そのまま中に案內していただけました。

入口で女性の僧の方に、建物の概要と基本的な利用方法(共同浴場の利用時間や朝のお勤めの時間、チェックアウトの時間や夜間の外出ルールについて)の説明を受けた後、そのままお部屋まで案內していただきます。

宿坊に宿泊する客が滯在するのはお寺を出て正面の階段を下りた先にある、宿舎のような建物です。こちらでこのお寺で修業されている僧の方も生活しているのかな。

宿舎の中はこのような感じです。建物自體は年季の入ったものですが、內部は所々リノベーションされていて和風の落ち著いた雰囲気になっています。

宿舎は結構広くて、このように長廊下もあるためちょっと迷ってしまうかもしれません。また、晝間でも廊下の燈りが付いていないと少し薄暗い印象を持ちました。

宿舎內には自販機も置かれているので、飲み物だけでしたら外に出なくても事足ります。

こちらが今回宿泊するお部屋です。

6畳の部屋で、ふすまを挾んで縁側の內庭も観ることができる部屋でした。エアコン、テレビも完備されているのでとても快適に過ごすことができます。

ちなみに、高野山は標高が高いので7月、8月の夏場であっても夜間は25度以下に下がる日が多く、窓を開けていれば十分涼しいのですが、こちらのお部屋は網戸が無かったと思うので夜は弱めのエアコンをつけて寢ました。

一點気を付けないといけないのが、部屋には內側から鍵をかけることができないこと。

外出の際は貴重品をもって出かけるとしても、身の回りの荷物などは部屋に置いていくことになります。気になる方はお寺の方にお願いして、安全な場所に置かせてもらうようにしてください。

內庭はこんな感じです。石塔が置かれてある以外は特に特徴はないです。

晝間はハチがブンブン飛んでいてガラス戸にぶつかる音がひっきりなしに続いていたので、ガラス戸は開けられませんでした。。

部屋の中には今はほぼ見かけない、黒電話が置かれています。歴史を感じますね。

その隣には護摩焚き用の木の札が置かれていて、説明によると裏にお祈りごとを書いておけば後日お寺で護摩焚きに奉納してださるそうです。宿坊ならではのサービスですね。

今回宿泊した部屋には風呂場はついておらず、風呂は共同浴場の利用になります。利用時間は17時から21時だったと思います。24時間ではないので、気を付けましょう。

ちなみに共同浴場の脫衣所や部屋の洗面所、トイレはリノベーションされていてとてもきれいでした!脫衣所はドライヤーも完備されていたと思います。

部屋で少し休憩した後は、金剛三昧院の中を観て回りました。宿坊利用者は拝観料無料で楽しむことができます。

まずは一番の見どころの、多寶塔。近くで見ると思っていたよりは小さいですが、鎌倉時代に建てられたそのままの姿が今に殘っていると思うと感慨深いものがあります。

多寶塔の正面に建てられているのがこちらの経蔵です。こちらも校倉造りが特徴で、鎌倉時代の姿を今に伝える貴重な建物です。

お寺の中にある階段を少し上った、小高い丘に造られたのがこちらの四所明神本殿。社殿は二か所に分かれていて、丘の中腹と上にそれぞれありました。

こちらも木造でとても歴史を感じます。

こちらがご本尊の愛染明王が祀られている本堂の入口です。外側から覗いてその御姿を観ることができます。

その後、お寺の中も拝観して一通りの観光を終了。そこまで広くないお寺ですので、30分もあれば十分全て観て回ることができると思います。

高野山の中でも中心地から少し坂を上った場所にあるので、とても靜かだし山の中にあるお寺、という雰囲気を楽しむことができます。

観光を終えた後は、楽しみにしていた精進料理の夜ご飯!

食事の時間はチェックインの際にご案內頂きますが、今回は17時30分でした。

時間になるとお寺の僧侶の方が臺に乗せて食事を部屋まで運んでくれます。畳に直置きして頂きましたが、テーブルもあるので食べづらいという方はテーブルの上に置いてもらうようお願いしても良いかもしれません。

精進料理はこの寫真に加えておひつに入ったごはんもあり、十分に満足できるボリュームでした。

精進料理というのは基本的に動物の殺生を行わない料理ですので、野菜やマメとお吸い物、ご飯がメインの料理になります。

夏場ということもあり天ぷらや煮物の他にそうめんもあって、見た目や気持ち的にも涼しくなりました。

もちろん味も文句なく美味しかった!イメージ的に少し薄味なのかな、と思っていましたが味付けを特に薄いと感じることもなく、天ぷらやお吸い物、煮物や酢の物もあり、様々な味を楽しむことができました。

食事は19時前ぐらいに、また僧侶の方が回収しに來てくれます。さらに、その時に布団の準備までしてくれるおもてなしまで!

実は今回、どうしても夕陽の名所である大門で美しい夕陽を見たくて、夕食を急いで食べた後にすぐ外出し、バスで大門まで移動しました。

夏場の日沒は18時10分から30分ぐらいの間なので、17時30分に夕食で本當にギリギリでしたが、何とか夕陽も楽しむことができました!

 

翌朝は6時15分ぐらいから朝のお勤めがあるとのことで、5分ほど前にお寺の奧にある千手観音像が置かれたお部屋でお勤めに參加。

正座してだと大変かな、、と思っていましたが椅子が並べられていて、椅子に座ってお勤めに參加することが出來ました。

真言宗の読経はその抑揚に特徴があって、まるで音楽の音色を聞いているような感覚。

30分ほど集中してお勤めを聞いた後は、僧侶の方にご案內頂いて護摩焚き用の札の奉納、千手観音像、そして隣の部屋にあるご本尊の愛染明王へのお祈りをさせてもらいました。

お勤めを終えて7時前には部屋に戻ります。そしてその後、7時30分から朝食の時間。

夕食と同じように僧侶の方が食事を運んで下さり、その時に布団も片づけてくださいました。

朝食も精進料理でしたが、夕食と同じように美味しく頂きました!普段は加工食品が多めの生活を送っているので、このように野菜や穀物の素材を活かした自然な料理がとても美味しく、健康的に感じます。

 

朝食後、荷物をまとめて8時にチェックアウト。チェックアウトはお寺の社務所で行いますが、その時に現金で宿泊料の支払いを行います。

【世界遺産】金剛三昧院の宿坊體験を終えて

いかがでしたでしょうか。少しでも宿坊での宿泊のイメージを持っていただければと思います。

今回滯在をしてみて、不便さは全く感じませんでしたし、お食事を運んでくださる僧侶の方もとても愛想がよく、雑談をして高野山の話をお聞きすることもできました。

個人的に今回の宿泊體験を終えて感じたことが、「足るを知る」ということ。

筆者は今回數日間高野山に滯在しただけですが、金剛三昧院でお勤めをされている僧侶の方はこちらに來て數年経つ、とおっしゃっていました。

夏場は比較的涼しいものの、冬場の寒さは厳しく、時には雪が降り積もって一日中雪解け作業に追われることもあるのだとか。

お話を伺いながら、都會から離れてお寺に入り、靜かな環境で仏道にお勤めをされている僧侶の生活や環境を想像してみました。

毎日朝早くから起床し、お勤めにお寺の仕事、そして宿坊に宿泊されるお客様のお世話など忙しい日々を送りながら、精進料理と仏の道を探求し続ける-。

そのような日々と、都會で仕事やいろいろな悩み事に追われ、また欲求を追い求める自分自身を照らし合わせてみた時、果たしてどちらが充実しているのか、また精神的に安らかな気持ちでいることができるのか。

便利さや楽しさ、ビジネスチャンスなどで溢れる都會で切磋琢磨することが必ずしも人生のあるべき姿ではなく、今ある環境、今ある狀況に感謝をしながら日々心穏やかに過ごすことも、同じくらい大事なことなのではないのか。

高野山と宿坊での滯在を通じて、ぼんやりとそのようなことを感じるようになりました。言ってみれば「心の浄化」とでも言うものでしょうか。

皆さんも是非、高野山を訪れた時には宿坊で心落ち著く穏やかな時間をお過ごしください!

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【世界遺産】高野山?壇上伽藍を100倍味わう見どころ徹底ガイド~根本大塔に見る密教浄土の世界~ http://www.huge-dicks.com/wh-wakayama-kouyasan-danjogaran-11255.html http://www.huge-dicks.com/wh-wakayama-kouyasan-danjogaran-11255.html#respond Mon, 04 Oct 2021 08:04:30 +0000 http://www.huge-dicks.com/?p=11255 Copyright © 2021 みんなの一人旅 All Rights Reserved.

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世界遺産?高野山は弘法大師?空海によって開創された、真言密教の道場(修行の場)。その中心となるのが、壯大で美しい根本大塔を始めとする壇上伽藍です。
壇上伽藍は弘法大師?空海の設計をベースに完成されたものですが、そこには「この世に密教浄土を創る」という空海の思いが込められています。今回はそんな壇上伽藍の見どころと楽しみ方を徹底解説します!

【世界遺産】高野山?壇上伽藍を楽しむために知っておきたい真言密教の教え

世界遺産?高野山の壇上伽藍のお話をする前に、この地が真言密教の道場として開創されたことを知っておく必要があります。

そこで、まず初めに基本的な真言密教の教え、特に他の宗派にはない特徴を3つご紹介します。

「密教」って何?

弘法大師?空海が留學僧として唐に渡り、持ち帰ってきた教えを獨自にアレンジしたものを真言密教と呼んでいます。

大きなくくりで言えば真言密教も仏教の中の、大乗仏教という種類に區分される教義であり、この點では浄土真宗や天臺宗といった日本の他の仏教宗派とは同じ分類に含まれます。

ですが日本の他の仏教宗派と真言密教が異なる點が、他の日本の仏教宗派は「顕教」と呼ばれているのに対し、真言密教は「密教」と呼ばれていること。

簡単に言ってしまえば、他の宗派は言葉で簡単に理解することができ、実踐も可能な宗派であるのに対し、密教はその教えを言葉で伝えることが困難であり、このため寺に入って一定の修行と実踐を積まなければその教義を身に付けることができないとされています。

秘「密」の教え、だから「密教」と呼ばれているわけです。

真言密教の本尊

仏教の宗派にはそれぞれ「本尊」と言って、その教義において最も最高位としている仏様がいらっしゃいます。

例えば浄土真宗であれば阿彌陀如來となりますが、真言密教では大日如來がご本尊になります。

この大日如來がどのような仏様かというと、少し難解ではありますが、「法身仏」といってこの世の真理そのものであり、世界の中心でもある存在です。

分かるようでよく分かりませんよね。

「法身仏」というのは、究極の教えや真理そのものが仏様の形になったもので、目に見えないものを具現化したもの、と言えば分かりやすいでしょうか。

ですが、大日如來は単にそのような教えや真理そのものというだけでなく、自らも説法をあまねく説く存在でもあります。

ちなみに同じく世界遺産に登録されている奈良の東大寺、こちらの大仏様も廬舎那仏という仏様ですが、「法身仏」という點では密教にとても近い存在です。

即身仏の考え

真言密教の教義の特徴の1つが「即身仏」(そくしんぶつ)という考えです。

先ほど、大日如來はこの世の究極の教えと真理そのものであるとお話ししましたが、これをさらに広げていくと、目に見えるありとあらゆるものは大日如來の説く真理と教えが形を変えたものである、と考えられています。

これは私たち人間も同じで、このことからその真理と教えを正しく身に付けることができれば、私たちも大日如來と一體、つまり仏として悟りを開くことができるということ。

このような教えを「即身仏」と言います。

浄土真宗と対比して考えると分かりやすいですが、浄土真宗では「阿彌陀如來の御救いによって死後に浄土に往生できる」と説く教義であり、浄土に行くことができるのはあくまでも死後、つまり未來となります。

一方、密教で説く「即身仏」は今生きているこの時でも、密教の教えを身に付けることで悟りを開くことができると言っているわけですから、ある意味で現世主義と言えます。

真言密教が「私たちが今生きている世界」において救いの教義を説いている、という點は覚えておいてください。

両界曼荼羅

真言密教に関連するものとして有名なのが「両界曼荼羅」(りょうかいまんだら)と呼ばれる幾何學的な絵です。皆さんも一度はどこかで見たことがあるのではないでしょうか。

先ほど、密教は言葉で説明することが難しい、とお話ししました。両界曼荼羅はその教えを分かりやすく絵にしたものです。

「両界」という名前の通り、二つで1つの教えを説いているというのが両界曼荼羅の特徴で、「両界」というのは「胎蔵界」(たいぞうかい)と「金剛界」(こんごうかい)と呼ばれるもの。

言葉は難しいですが、密教に含まれる2つの教義、と思ってください。

真言密教の開祖はご本尊である大日如來ですが、そこから教えが伝わる中で「大日経(だいにちきょう)」と「金剛頂経(こんごうちょうきょう)」という二つの教えが誕生します。

どちらも大日如來を本尊としながらも教えが異なっているのですが、この二つを合わせて1つの教義としたのが弘法大師?空海が唐で教えを受けた第七代開祖の恵果(けいか)阿闍梨で、空海は第八代開祖としてこの教えを引き継ぎました。

つまり、大日経と金剛頂経が密教における経典ということです。

ちなみに、大日経は大日如來のお慈悲を説き、私たちの中にも仏様の心が存在している、と説き、金剛頂経というのは密教において修行を実踐する重要性を説いています。

大日経と金剛頂経をセットで考えると、先ほどお話しした即身仏の考えにもたどり著くわけです。

【世界遺産】高野山?壇上伽藍の中心、根本大塔って何?

根本大塔

根本大塔って何?

それではいよいよ世界遺産?高野山の中心、壇上伽藍についてご紹介していきます。まずは壇上伽藍の中心であり、最も重要な存在である根本大塔をご紹介しましょう。

根本大塔(こんぽんだいとう)。
壇上伽藍でも最も大きく、その鮮やかな白と丹(朱色)の建物は思わず見とれてしまうほど美しく靜かに佇んでいます。

仏教寺院でこのように高くそびえ立つ建物といえば、日本では多重塔をイメージされる方が多いと思います。奈良?薬師寺の雙塔や法隆寺の五重塔など、いずれも仏教寺院の伽藍ではひときわ目を引く存在ですよね。

高野山の壇上伽藍における根本大塔もこのような多重塔と同じ存在かというと、実はそうではなく、全く別の意味を持った建物です。

まず、日本でよく見る多重塔のルーツは、インドやスリランカでよく見る「ストゥーパ」と呼ばれるもの。

ストゥーパは日本語で言うと「仏塔」と呼ばれますが、これはお釈迦様の遺骨が埋められている場所です。それが日本に伝わる中で形が変わり、多重塔の姿になっています。

一方、高野山?壇上伽藍の根本大塔というのは、弘法大師?空海が密教の教えを具現化するために構想し、造られたものです。(殘念ながら根本大塔が完成したのは空海の御入定後です。)

このため、根本大塔は真言密教の象徴であるとともに、高野山?壇上伽藍の根本大塔が日本で最初に作られたものとなります。

その後日本の真言密教寺院でも根本大塔のような建物が造られるようになりましたが、これらは総稱して「多寶塔」と呼ばれています。

根本大塔の內部

根本大塔內部

根本大塔の內部は開放されており參詣者は中に入ることができますので、是非中に入ってください(ただし、入場料500円。內部の集金箱か、寺務所にて支払い。)。

內部は外から観るよりもとても広く感じますが、大日如來の像を中心としてその周囲に四つの仏像が配置され、さらにその周りに立つ十六の柱には十六菩薩が描かれています。

大日如來が中心にいらっしゃるのはもうお分かりですよね。真言密教の本尊であり、中心だからです。

大日如來を取り囲む四つの仏像と柱に描かれた十六菩薩は金剛界における四仏とそれを囲む十六菩薩になっています。ちなみに、それぞれの御名前は上の図をご參照ください。

こちらを見て何か思いつきませんか?

そうです、この配置はまるで曼荼羅の世界を立體的(三次元)に表現したように見えますよね。これこそが、弘法大師?空海の構想だったのです。

大日如來と四仏を囲む十六菩薩にはすべて「金剛」の名前が付いていることから、これは金剛界の菩薩であることが分かります。同様に、四仏も金剛界の仏様です。

ですが、中心にいらっしゃる大日如來の仏像だけは胎蔵界のものとなっています。

金剛界を表したものかと思いきや、胎蔵界の大日如來が中心に置かれており少し違和感を感じますね。これについては後ほど理由をご説明します。

大日如來と四仏の仏像はもちろんですが、それを取り囲む柱に描かれた十六菩薩もまるで宙に浮いているかのような効果があり、まさに根本大塔の內部には密教浄土の世界が広がっていると言えるでしょう。

また、內部の四面には弘法大師?空海に至るまでの密教の開祖の肖像畫が飾られていますので、そちらもぜひご覧になってください。

根本大塔の外観

現在の根本大塔は1937年に再建されたもので、その高さは48.5メートルにもなる壯大な建築物になり、先ほどご紹介したように日本で最初の多寶塔になります。最初の完成は887年頃。

外観としては二層の建築物に見えますが、中は吹き抜けになっているため厳密には一層構造となります。

形にも特徴があり、下部は方形(四角形)になっているのに対し、中間部は円形になっているのがお分かり頂けるかと思います。

奈良や京都のお寺でも講堂、金堂、多重塔など基本的に方形の形が多いので多寶塔の形はそれだけでも特徴があるものですが、中間部の円形は大日如來の教えが四方八方にあまねく広がっていく様子を表したものと言われています。

根本大塔の前に立つ金堂もそうですが、建物の土臺になっている基壇部分もかなり高めに造ってあり、大塔の壯大さがより強調されています。

【世界遺産】高野山?壇上伽藍の見どころ解説

それでは根本大塔以外の壇上伽藍の見どころを簡単にご紹介しておきます。

中門(ちゅうもん)

中門

高野山への參詣道としては慈尊院から大門へ続く町石道(ちょういしみち)が表參道に該當するのですが、大門から高野山內に入り、金堂の前に建てられているのがこちらの中門(ちゅうもん)です。

大門と同様、聖域である壇上伽藍への入り口として建てられた中門ですが、1843年に焼失して以來、2015年に高野山開創1200年の記念事業として再建されるまでは疎石だけが殘る寂しい狀態となっていました。

現在は、焼失から免れた持國天と多聞天に加えて新たに創作された増長天と広目天が加わり、四天王によって聖域が守られています。

再建に當たって使われた木材のほとんどが高野山內で採れる木から利用されており、西塔の奧には中門再建のために伐採された檜(ヒノキ)の切り株を観ることができます。

また、現在の中門の建築様式は五間二階の樓門様式になっています(五間というのは五つ間があること、つまり柱は六本)が、これは鎌倉時代(1253年)に再建された様式を踏襲したものです。

よく見て頂きたいポイントとして、中門と大塔の朱色が微妙に違っている點があります。中門は大塔に比べるとやや暗い朱色になっていますが、これは鎌倉時代の中門の色を再現したためです。

金堂

金堂

中門をくぐると目の前にある建物が金堂です。高野山の開創時は「講堂」と呼ばれていました。

こちらも拝観料500円を払えば中を見學することができます。

現在の建物は1932年に完成したもので、梁間23.8メートル、桁行30メートル、高さ23.73メートルという立派なもの。本尊とされているのは秘仏の阿閦(あしゅく)如來(薬師如來と同體)です。

金堂では現在でも修正會(しゅしょうえ)や結縁灌頂(けちえんかんじょう)といった重要な行事が行われています。

高野山の創建に當たっては次にご紹介する御社(みやしろ)と並んで最も最初に作られた建物になります。

御社(みやしろ)

御社

金堂の西側の少し高臺に造られたのが御社(みやしろ)です。

こちらは高野山をはじめ、この地に古くから鎮座されている丹生都比売大神とその御子である高野明神が祀られています。

弘法大師?空海は高野山の開創に當たって、まず最初にこの二柱の神様をこの場所にご勧請することから始めました。空海であっても、この地に古くから伝わる神々への信仰を怠らず、丁重にお祀りされたということになり、これがその後日本で深く根付く神仏習合の先駆けになったと言われています。

仏教だけでなく、この地の神々を信仰する心は今も引き継がれており、現在でも毎日高野山の僧が、御社の前でお経を読む姿を観ることができます。

外側からでは分かりにくいですが、御社の境內には白黒の二匹の狛犬が置かれている點はぜひチェックしてみてください。この二匹の犬は、弘法大師?空海が高野山を開創するきっかけとなった高野明神との出會いのエピソードを示したものになっています。

祀られている神様のお話しに関しては下記の記事も合わせてお読みください。

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山王院(さんのういん)

山王院

御社の前に立つのがこちらの山王院(山王院)です。

山王院という名前になっているのは、ここが壇上伽藍という仏教寺院であるためですが、役割としては目の前の御社に向かって祈願する拝殿としての位置づけになります。

山の神に向かって祈願することから、「山王」院という名前になりました。

こちらの山王院では舊暦の五月に「山王院竪精」(さんのういんりっせい)、舊暦六月に「御最勝講」(みさいしょうこう)という儀式が行われます。

「山王院竪精」は密教における學道、つまり勉強のようなもので問答形式で行われるものです。「御最勝講」は「金光明最勝王経」と呼ばれる経典を講讃し、鎮護國家を祈る法會であり、問答も行われます。

いずれも、山王院で行われることでその実踐的な修行の成果を神前にて報告するものであり、この二つの儀式を無事クリアした僧は「院家」から「上綱」(じょうごう)という稱號が付與されることになります。

このように、僧の昇格試験を神前で行うというのは高野山の特色と言えます。

六角経蔵(ろっかくきょうぞう)

六角経蔵

山王院の南側にあるひときわ目を引く白いお堂が六角経蔵(ろっかくきょうぞう)です。

鳥羽天皇の妃の美福門院(びふくもんいん)が、天皇の菩提を弔うため一切経千巻を納めるために寄進されたもので、1159年に建立されましたが、現在のものは1934年の再建となります。

お堂の外側には取っ手がついており、これを押して一周回すと一切経を一回読経したのと同じ功徳が得られると言われています。千巻を一回りで読経できるのであれば、かなりおトクに思えますが、それなりに重いです。

西塔(さいとう)

西塔

壇上伽藍の西側にひっそりと建っているのがこちらの西塔(さいとう)です。

姿形は根本大塔にとてもよく似ていますが、こちらは木造の建物でなんだか時の流れを感じさせる風情があります。高さは27.2メートルと、根本大塔に比べると一回り小さいサイズになっています。

この西塔が最初に建立されたのは886年と言われていますが、こちらもその後焼失を繰り返し現在の姿は1834年のものです。

さきほど、根本大塔は887年頃の完成と言いましたが、西塔の方が完成が早かったのはその大きさによるものでしょう。

建立に著手したのは根本大塔が先ですが、高野山創建の816年から著手したとすると完成まで70年ほどかかっており、あの大きさの建物を造るのには莫大な費用がかかったものと思われ、西塔が根本大塔より小さいのはその予算が足りなくなったからでは、とも言われています。

西塔は高野山では最も大きな木造建築物であり、納められている大日如來像は創建當初のものと伝えられ高野山最古のものと言われています。

実はこの西塔と先ほどご紹介した根本大塔が一対をなす関係になっており、西塔は中に入ることができませんが、內部には金剛界の大日如來を中心に、その周りを胎蔵界の四仏(寶幢如來、開敷華王如來、無量壽如來、天鼓雷音如來)(ほうとうにょらい、かいふけおうにょらい、むりょうじゅにょらい、てんくらいおんにょらい)が囲んでいます。

つまり、根本大塔と西塔で両界曼荼羅の世界が體現されているというわけです。

ちなみに壇上伽藍の東側に「東塔(とうとう)」という多寶塔がありますが、こちらは白河上皇の御願により建立されたもので、當初空海が設計したものとは関係ありません。

孔雀堂(くじゃくどう)?準胝堂(じゅんていどう)?御影堂(みえいどう)

(左から)孔雀堂?準胝堂?御影堂

西塔から根本大塔に向かう間に並んで経っているのが、西から順に孔雀堂(くじゃくどう)?準胝堂(じゅんていどう)?御影堂(みえいどう)です。

孔雀堂は後鳥羽法皇の御願により、雨ごいのため1200年に奉納された建物ですが、1926年に焼失し、現在の姿は1983年に再建されたもの。本尊は孔雀明王です。

準胝堂は光孝天皇の御願により、空海の跡を継いで高野山の運営を擔った真然(しんぜん)大徳が建立したものです。

現在の建物は1883年の再建によるもので、本尊の準胝観音は密教修行者の守り本尊と言われています。

最後に、御影堂は弘法大師?空海が住まわれていた建物と言われ、空海の持仏堂でしたが、空海の入定後はその御影(姿絵)が納められています。ちなみにこの御影は日本最古の弘法大師御影です。

こちらも1847年の再建になります。

【世界遺産】高野山?壇上伽藍と根本大塔に秘められたメッセージ

伽藍配置に見る密教世界

世界遺産?高野山の壇上伽藍の主な見どころを一通りご紹介しましたが、ここで改めてこの壇上伽藍の設計に著手した弘法大師?空海に思いを馳せてみましょう。

まず最も重要な根本大塔と対をなす西塔は、「御図記」(ごずき)という弘法大師?空海が遺した壇上伽藍の建立計畫案に沿ったものです。

空海は834年に「毘盧遮那法界體性塔二基」(びるしゃなほうかいたいしょうとうにき)を発願していることから、當初から大塔二基を建立したかったことは明らかです。

また、根本大塔は壇上伽藍の東側、西塔は西側に建てられていますが、この位置関係にも意味があります。それは、胎蔵界では東が最高位とされ、金剛界では西側が最高位とされていること。

根本大塔は胎蔵界の大日如來が、西塔には金剛界の大日如來が中心に置かれているのはそのためです。

さらに言えば、金堂から見て御社も西側にあるわけですが、これも胎蔵界が大日如來の教えやお慈悲を説く言わば仏界の教えであるのに対し、金剛界はどちらかというと物理的な実踐に重きを置くものであり、それはすなわち現世界であると言えます。

そう考えると、現世界での実踐として密教の他に古くから伝わる神々への信仰があれば、それも合わせて大切にせよとするのが金剛界の説く教えであり、そのため御社も西側に建てられているのです。

また、金堂の北側にある御影堂は弘法大師?空海の持仏堂であったことを考えると、空海の入定信仰によって弘法大師?空海は今彌勒菩薩の元におられることから、御影堂は彌勒菩薩が本尊とも言えます。

そして、彌勒菩薩が司る方角は北。ですから、金堂の北に位置しているわけです。

いかがでしょうか。

重要な行事が行われる金堂で祈りと読経が捧げられることで、東側の胎蔵界、西側の御社と金剛界、そして北の彌勒菩薩と弘法大師?空海が結ばれることになるのです。

根本大塔と西塔の意味するもの

壇上伽藍において、根本大塔と西塔は対になる存在であり、二つで一つを表したものとお話ししました。

密教において、つまりそれは胎蔵界と金剛界を意味し、それらが実質的には一體のものであるとする考えを「金胎不二」(きんたいふに)と呼びます。

胎蔵界と金剛界はそれぞれ精神世界と物質世界、という二元論とも言えますが、「金胎不二」の教えが私たちに語りかけているのは、そのような二元論からさらに広いところにあります。

自然と人間、生と死など、あらゆるものには表と裏、または対となる存在があるわけですが、それらを一體として捉えることの重要性を密教は説いていると思います。

あらゆるものを一體で考えること、つまりそれは分け隔てなく物事に接することにもつながることではないでしょうか。

【世界遺産】壇上伽藍と高野山が織りなす壯大な密教世界の仕掛け

根本大塔と西塔の「ねじれ」

先ほど、根本大塔と西塔はそれぞれ中心にいらっしゃるのが胎蔵界と金剛界の大日如來である一方でそれを取り囲む四仏は金剛界と胎蔵界の仏であり、「ねじれ」が生じていることに違和感がある、とお話ししました。

この「ねじれ」の意味を考えてみましょう。

一つには先ほどお話しした「金胎不二」の考えに基づくものと思います。つまり、密教においては胎蔵界?金剛界のいずれにおいても、その中心におられるのは大日如來という絶対中心的な存在であり、それが形を変えてそれぞれの世界に姿を現しているに過ぎません。

ですので、あえて大日如來と対の四仏を置くことで、その一體性を強調しているという狙いがあるものと思われます。

もう一つ考えられることは、「ねじれ」を起こすことで根本大塔?西塔のいずれにおいても「両界曼荼羅」の世界を感じることができるということ。

根本大塔と西塔がそれぞれ胎蔵界と金剛界を表すとなると、どちらかが欠けてしまえば両界曼荼羅は完成しません。これはつまり、一體性が欠けるだけでなく、胎蔵界と金剛界を別々に捉えてしまうことにもなりかねません。

真言密教、そして弘法大師?空海が目指したのはあくまでも両界が一體であるとの教えです。ですので、根本大塔と西塔のそれぞれ単獨でも両界曼荼羅の世界が完結することを感じてもらう必要があったわけです。

高野山全體に仕掛けられた密教世界の仕掛けとは?

根本大塔と西塔はそれぞれで両界曼荼羅を表現していることは「ねじれ」で分かりました。

これをさらに広いビジョンで見てみると、先ほどご紹介した通り壇上伽藍においても根本大塔と西塔の配置から、両界曼荼羅の世界を體現したものであることが分かります。

それだけではありません、実は高野山全體も両界曼荼羅の世界を創り上げているのです。

それが分かるのが、先ほど少しお話しした高野山の正規の表參道であった「町石道」です。これは慈尊院から大門を経て根本大塔に至る道と、根本大塔から奧之院へ続く道の二つの領域から成り立っており、その道中には「町石」と呼ばれる石の卒塔婆が一定の間隔で立てられているのが特徴です。

別記事で詳しくご紹介していますが、この卒塔婆というのは大日如來の象徴であり、根本大塔を中心として、慈尊院側を胎蔵界、奧の院側が金剛界の領域となっています。

つまり、慈尊院?根本大塔?奧之院をつなぐ領域が両界曼荼羅の世界を表しているというわけです。

いかがでしょうか。まさか真言密教の教えの象徴である両界曼荼羅が三重にも造られているという、その壯大なスケールに圧倒されます。

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【世界遺産】高野山?壇上伽藍に見る真言密教と弘法大師?空海の思想

いかがでしたでしょうか。

弘法大師?空海が高野山、そして壇上伽藍の創建するに當たって願ったのは真言密教の世界をこの世に創り出すことでした。

ですが、真言密教の世界や壇上伽藍が私たちに示しているのはそれだけではないような気がします。

先ほど、「金胎不二」のお話で二元論を飛び越えて、ありとあらゆるものに分け隔てなく接することをお話ししましたが、これは弘法大師?空海の思想でもあると筆者は考えます。

分け隔てなく接すること、つまりそれは「平等」の精神であり、今風に言えば「ダイバーシティ」でもあると思います。その思想が生み出したのが、世界遺産?高野山のもう一つの聖地でもある奧之院と言えるでしょう。

なぜなら、奧の院には宗派や國、身分を超えたあらゆる人や生き物が丁重に弔われており、日々供養の祈りが捧げられているからです。

皆さんも世界遺産?高野山を旅された際には、本記事でご紹介した見どころを參考に壇上伽藍を心行くまで味わってみてください!

 

(參考:「空海と高野山」中村 本然 青春出版社、「高野山ガイドブック」ウイング出版部 株式會社ウイング、「世界遺産マスターが語る高野山」尾上 恵治 新評論、「高野山」総本山 金剛峯寺)

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【世界遺産】丹生都比売神社?丹生官省符神社を100倍楽しむためのマメ知識6選 http://www.huge-dicks.com/wh-wakayama-niutsuhime-niukanbushou-11225.html http://www.huge-dicks.com/wh-wakayama-niutsuhime-niukanbushou-11225.html#respond Mon, 27 Sep 2021 03:16:36 +0000 http://www.huge-dicks.com/?p=11225 Copyright © 2021 みんなの一人旅 All Rights Reserved.

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空海が開創した高野山は世界遺産に登録されていますが、その中には丹生都比売神社と丹生官省符神社という神社も含まれていることをご存じでしょうか。空海と言えば仏教?真言宗の開祖ですが、神社とどのような関わりがあったのでしょうか。
この二つの神社無くして、高野山は世界遺産に登録されなかった!?今回はそんな丹生都比売神社?丹生官省符神社の魅力に迫ります!

【世界遺産】丹生都比売神社ってどんな神社?

神社の創建

高野山に続く參詣道である町石道の途中、のどかな田園風景が広がる天野に靜かに佇んでいる世界遺産の丹生都比売神社。別名天野神社とも呼ばれていますが、その歴史はかなり古く、創建は1,700年以上も前のことだと言われています。

ちなみに、空海が高野山を開いたのが約1,200年前の816年のことですから、それよりも500年以上古い歴史を持つ神社ということになります。

この神社で祀られているのは、丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)という神様です。

丹生都比売大神は天照大神(あまてらすおおみかみ)の妹神である稚日女命(わかひるめのみこと)とされ、神代(ずっとずっと昔の神様の時代)に、この辺りを流れている紀ノ川沿いの三谷に降臨。そして、紀州や大和に農耕を広めた後に、天野にご鎮座されました。

丹生都比売大神は古くから戦の神としても知られており、「播磨國風土記」(はりまこくふどき)(風土記:各地に伝わる産物や文化、言い伝えや風習などをまとめた歴史書)によると、神功皇后(じんぐうこうごう)が挑戦出兵の際、丹生都比売大神の託宣(ご進言)によって、船や武具を朱色に塗ったところ、戦に勝利したため、これに感謝した息子の応神天皇が社殿と広大な土地を神領として寄進したという伝説も殘されています。

祀られているのはどのような神様?

世界遺産?丹生都比売神社は、この丹生都比売大神がご祭神である神社ということですが、この丹生都比売大神が祀られている第一殿の隣の第二殿に、その御子である高野御子大神(たかのみこのおおかみ)(別名:高野明神、狩場明神)が祀られています。

さらにその後、鎌倉時代に入ると行勝上人によって第三殿、第四殿に神様が勧請され、それぞれ福井県の気比神宮から大食都都比売大神(おおげつひめのおおかみ)と、こちらも世界遺産で有名な広島県厳島神社から市杵島比売大神(いちきしまひめのおおかみ)が祀られています。

その御名前にも含まれている「丹」という文字は、丹砂(たんしゃ)の鉱石から採れる「朱」を意味しています。この「朱」には古來から魔除けの力があり、そこから丹生都比売大神は悪しきものを退ける強い女神として信仰されてきたのです。
もう1つ、後ほどご説明しますが、丹砂は水銀の原料にもなるということも覚えておいてください。

皆さん、神社の鳥居というと朱色のイメージをお持ちかと思いますが、この朱色がまさに丹砂から來ており、魔除けの意味が込められているというわけです。

魔除けは不純なものを退けることから、丹生都比売大神は不老長壽の神としても知られています。

日本に神風をもたらし、「元寇」に勝利したのは丹生都比売神社のおかげ!?

丹生都比売神社がある天野

日本史を勉強していると必ず習うのが、鎌倉時代に日本を絶體絶命のピンチに追いやった元寇。

元寇は、當時の中國大陸を手中に収めていたモンゴル帝國による日本への二度の侵略ですが、二度とも大戦中に吹き荒れた嵐に救われて日本軍はこれを退けることが出來ました。

歴史を勉強していると、「もしあの時違う結末になっていたら???」という空想をつい思ってしまいますが、元寇も、もし日本が敗れていたら今頃「日本」という國は存在していなかったかも、と考えられるぐらい、日本のその後に大きな影響を殘した出來事と言えるでしょう。

この元寇で日本を勝利に導くために「神風」を吹かせたのが、丹生都比売神社の第三殿に祀られている大食都都比売大神だった、というお話はご存じでしょうか。

古來から日本人は戦において、もちろん生身の人間同士の戦いではあるものの、それぞれの陣営を守護する神様同士も共に戦いを繰り広げている、と信じてきました。

元寇においては日本軍を守護してくださる日本の神々も味方になって、モンゴル帝國の軍勢と戦ってくださっているという信念を持っていたでしょうから、その時に吹き荒れた嵐はまさに神様の仕業による風、「神風」と疑うことは無かったでしょう。

実際に丹生都比売神社の大食都都比売大神による託宣によって神風が起きた、ということは當時の朝廷の正式文書である「太政官牒」(だいじょうかんちょう)という文書に明記されています。

このこともあり、鎌倉時代から丹生都比売神社は一気に日本においてその名を知られる有名な神社となり、全國で「丹生」の名前を冠する180余りの神社の総本社と位置付けられています。

神社の見どころ

本殿

先ほどご紹介した通り、丹生都比売神社は四柱の神様が祀られているため本殿も四つあるわけですが、その造りとしては切妻造りの妻入り、正面1間(つまり、正面に2本の柱が建てられ、間は1つ)であることから「一間社春日造」(いっけんしゃかすがづくり)と呼ばれています。

この一間社春日造としては本家である奈良の世界遺産?春日大社よりも大きい造りとなっており、日本一の規模を誇っています。

現在の本殿は室町時代に再建されたもので、國の重要文化財に指定されています。

こちらの本殿は遠くからでしか拝観することはできませんが、是非柱などの建築上の造りにも注目してみてください。寫真では分かりにくいですが、極彩色でとても細かな紋様が入っていることが分かるかと思います。

木鼻(きばな)と呼ばれる、柱から出っ張った部分は象が描かれるなど、どこか海外の雰囲気さえしてきます。

輪橋(太鼓橋)

丹生都比売神社:輪橋

丹生都比売神社の正面にで特に目を引くのが、その急な勾配が特徴の太鼓橋です。

こちらはお參りする方も普通に歩くことができますが、元々は神様が歩かれる道ということで神橋と呼ばれるもの。この橋は淀姫によって寄進されたと伝わっています。

二ツ鳥居の謎

丹生都比売神社:二ツ鳥居

丹生都比売神社から山に戻り、町石道へ戻る途中にあるのがこちらの二ツ鳥居です。

この鳥居は丹生都比売大神とその御子である高野御子大神を祀るために建てられたものですが、実は1つの謎が殘されています。

それは、この鳥居が丹生都比売神社を遙拝(ようはい:遠い場所から神社に向かってお祈りを捧げること)するためのものなのか、はたまた高野山に向かって遙拝するために建てられたものなのかはっきりしないということ。

後述しますが、高野山の大門があった場所には大鳥居があったと考えられており、その鳥居を一の鳥居とすると、こちらが「二の鳥居」になるわけです。

高野山と丹生都比売神社は鳥居を挾んで反対方向にあるのですが、鳥居の前後?表裏がはっきりしないため、このような謎が殘されています。

さらに、この二ツ鳥居も元は町石道をまたぐ大きな1つの鳥居だったとも言われています。

謎が多いこの二ツ鳥居ですが、この二ツ鳥居は空海が高野山開創の際に、両神を勧請するために建立したものと言われています。

【世界遺産】丹生官省符神社ってどんな神社?

神社の創建

続いて、同じく世界遺産に登録されている丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)をご紹介します。

こちらも「丹生」という名前があることから、祀られている神様はまず丹生都比売大神とその御子である高野御子大神です。

丹生都比売神社はその歴史があまりにも古いため、正確な創建に関してははっきりしませんが、こちらの丹生官省符神社は816年に弘法大師?空海によって創建された神社になります。

816年と聞いてピンと來た方もいらっしゃるでしょう。そうです。高野山開創の年ですね。もちろん、これは偶然ではありません。

丹生官省符神社は現在の和歌山県九度山町という町にあるのですが、この神社のすぐ下にはこちらも同じく世界遺産に登録されている慈尊院(じそんいん)があります。

慈尊院は空海が高野山を開創するに當たって、その造営の庶務政所、つまり管理事務所として建てられたのが始まりです。そして、この高野山開創という事業を始めるに當たって、まず弘法大師?空海は高野山に鎮座されている丹生都比売大神と高野御子大神を丹生官省符神社に勧請し、高野山の守護神として丁重にお祀りになったのです。

祀られているのはどのような神様?

実は丹生官省符神社にも丹生都比売神社と同じ四柱の神様に加えて、天照大神、譽田別大神(ほんだわけのおおかみ)(別名:八幡大神)と天児屋根大神(あめのこやねのおおかみ)(別名:春日大神)が祀られています。

譽田別大神というのは武勇の神とされており、児屋根大神は神事祭祀の神とされている神様です。

當初はこの七柱の神様をお祀りするため、神殿も七つあったと記録に殘されていますが、現存する本殿は室町時代の1541年に再建されたものであり神殿は三つしか殘されていません。

第一殿には丹生都比売大神とその御子である高野御子大神、そして天照大神
第二殿には大食都都比売大神、譽田別大神と天児屋根大神
第三殿には市杵島比売大神

がそれぞれ祀られています。

神社の見どころ

丹生官省符神社:空海と高野御子大神の出會い

名前の意味とご利益

名前になっている「官省符神社」とは、太政官と民部省から認可された荘園のこと。國の干渉を受けず、納稅の義務もないなどの特権があります。

官省符神社は平安時代以降に認可されたものですが、この丹生官省符神社は高野山の山麓一帯の官省符荘36村を取りまとめる総社としての存在だったそうで、経済的には恵まれていたものと思われます。

官省符神社として認可されるきっかけになったのが、あの藤原道長が高野詣(こうやもうで)を行ったことでした。

藤原道長と言えば、平安時代に天皇家含めてその権力を一手に納めた貴族としてとても有名な人物ですが、平安時代後期に日本中に広がったのがいわゆる「末法思想」と呼ばれる思想です。

末法思想とは、お釈迦様の入滅後一定の時間が経ってしまうと世界に仏教の教えが広まらなくなり終焉を迎え、その後遙か56億年とも言われる先まで救いの無い世界が続く、というもの。

この思想が広まってからは特に貴族や皇族の間で、必死に仏様の救いにすがろうとして有名寺院への參詣が活発に行われるようになったのですが、その中の一つが高野詣でした。

末法思想で民衆に広がったのは浄土信仰であり真言密教とはずれるのですが、すでに世に広まっていた「大師信仰」の存在で高野山は一気に參詣者が増加しました。

そして藤原道長は高野詣の後、この地を免稅が認められる「官省符省(かんしょうふのしょう)」とし、自らも荘園などを寄進したのです。

また、後ほどご紹介しますが、お祀りしている高野御子大神は2匹の白黒の犬を連れていたことから、この神社では犬が神様の使いとされ、安産や縁結びといった「御導き」に御利益があると言われています。

本殿

神様をお祀りする神殿はともに檜皮葺きで木造の一間社春日造りとなっており、丹生都比売神社と基本的には同じです。

こちらも丹生都比売神社と同じように本殿は遠くからの拝観でしか見ることができませんが、是非じっくりと柱などまで見てみてください。

丹生都比売神社ほどではありませんが、こちらの本殿も丹色の柱にカラフルな紋様がとても良く映えていて、蟇股(かえるまた)と呼ばれる上部の重さを支える部分には虎でしょうか、こちらも動物の彫刻が描かれています。

【世界遺産】丹生都比売神社?丹生官省符神社と弘法大師?空海の高野山開創伝説

壇上伽藍:三鈷の松

弘法大師?空海の高野山創建にまつわる伝説

弘法大師?空海が嵯峨天皇より高野山を下賜され、ここを真言密教の道場として日本における布教の拠點としたのは816年のことでした。

なぜ弘法大師?空海は高野山を真言密教の道場の場として選んだのでしょうか。1つの有名な伝説をご紹介します。

弘法大師?空海は留學僧として唐に渡ったわけですが、その目的は唐で最先端の密教を學び、その教えを日本に持ち帰る事でした。密教を學ぶどころか、青龍寺の密教第七代開祖であった恵果和尚から正式な灌頂を受けて(つまり、後継者として公認された)第八代目の開祖となったことはぜひ知っておいてください。

日本に帰る際、「真言密教の道場にふさわしい場所を教えてくれ」と願いをかけて三鈷杵(さんこしょ:密教の祈禱に使う道具)を空に投げると、三鈷杵はどこへともなく消えていったのです。

日本に帰り、投げた三鈷杵の行方を捜して山の中を歩いていると、2匹の犬を連れた猟師に出會います。すると、猟師がその場所に心當たりがあると言って、空海を案內すると松の木に引っかかっている三鈷杵を見つけることが出來ました。

このことから、この地(高野山)を真言密教の道場として開創することになったと言われているのですが、空海を三鈷杵の松まで案內した猟師こそが、丹生都比売大神の御子の高野御子大神だったのです。

そして、この地に住む山民、つまり丹生都比売大神からこの地を譲り受けて、空海により高野山は仏教の聖地として開かれていくことになります。

弘法大師?空海は高野山が神の領域であることを知っていた!

先ほどの有名な伝説は、私たちにとても重要な示唆を與えてくれています。

高野山と聞くと今ではすっかり真言密教の聖地、というイメージが定著してしまっていますが、実は仏教の聖地になる以前からこの場所は神々が住む神聖な場所として信仰の対象だったということです。

弘法大師?空海がなぜ高野山の開山と同じ年に丹生官省符神社を建てたのか。それは、元々神々の領域であった高野山に仏教の道場を造るわけですから、まず神々から場所を譲り受ける必要があります。

そのため、以後仏教としての高野山への表參道の入口となる慈尊院の上に丹生官省符神社を建て、そこに丹生都比売大神と御子の高野御子大神を勧請し、丁重にお祀りしたのです。

高野山は弘法大師?空海によって真言密教の聖地になったわけですが、順番としては古くからこの土地は神々の鎮座される神聖な場所であり、それを弘法大師?空海が神と仏教が共存する聖域へと造り変えた、というのが正しいということ。

そして、これこそが世界でも稀な日本の神仏習合、という価値観の醸成に繋がっていくことになるのです。

弘法大師?空海は「丹砂」目當てで高野山を選んだ!?

先ほどご紹介したのはどちらかというと宗教?信仰上のエピソードですが、もう1つ、弘法大師?空海が高野山を真言密教の拠點として選んだもう少し現実的な説をご紹介します。

丹生都比売神社の概要で、「丹」とは「丹砂」のことであり、水銀の原料になったことを説明しました。

実は平安時代以前から水銀というのはとても貴重な原料として、高価な値で取引されていたと言われており、事実丹生都比売神社があるこの高野山一帯は「丹砂」が採掘できる場所だったことも分かっています。

そうすると、弘法大師?空海は「丹砂」の産出が期待できるこの場所に拠點を構えることで、「丹砂」から得られる経済的な利益も期待したのでは?と考えられるのです。

実際に空海が「丹砂」の価値や、この地がその産出地であることを知っていたのかは定かではありません。ですが、空海の生まれ故郷である四國にも同じように「丹砂」の産出地があり、空海がその存在や「丹砂」の取引が盛んに行われていた事を知る機會は豊富にあったと推測できます。

さらに、四國から京の大學に入學し、中退をしてから留學僧として唐に渡るまでの約10年間、空海の足取りははっきりしていません。ですが、この間に空海は修験者のように山中を放浪したり密教の存在を知ったことを考えると、その間に「丹砂」の取引で生計を立てる山民と接する機會があっても不思議ではありません。

いずれにしてもこれは一つの説という領域を出ませんが、非常に面白く興味深い內容だと思います。

【世界遺産】丹生都比売神社?丹生官省符神社と高野山のつながり

壇上伽藍:御社

壇上伽藍の御社

弘法大師?空海は高野山の開創に當たって、この地に鎮座されていた神である丹生都比売大神と御子の高野御子大神を丁重にお祀りされたことは先ほどお話ししましたが、これは高野山の壇上伽藍にも見ることができます。

それが、壇上伽藍の御社(みやしろ)です。実は御社は壇上伽藍でも金堂(講堂)に次いで最も早く創建されたものであることはご存じでしょうか。

弘法大師?空海にとっては高野山の壇上伽藍にこの世の密教世界を築き上げる大きな目標があったのですが、空海がまず取り掛かったのは根本大塔ではなく御社を創建して、ここに丹生都比売大神と御子の高野御子大神をご勧請することでした。

壇上伽藍の御社には、右から丹生都比売大神と御子の高野御子大神をそれぞれ祀る祭殿と、十二王子百二十番神を祀る総社と呼ばれる祭殿が並んでいます。

十二王子というのは神々が子どもの姿になって現れる様子を意味し、百二十番神というのはあらゆる神、つまり八百萬(やおよろず)の神の意味です。

丹生都比売大神と御子の高野御子大神の祭殿は丹生都比売神社の祭殿と同じ造りで一間社春日造になっています。さらに、大きさも丹生都比売神社と同じと言われており、一間社春日造では日本最大の規模になります。

大門は昔、大鳥居だった!?

高野山の入口にそびえ立つ大門。この場所には大門が立つ前、もともと大鳥居が立っていたことはご存じでしょうか。

これまでお話ししてきた通り、高野山は空海が真言密教の道場として開創するよりも前から信仰されてきた神々の山。ですので、そこに鳥居が立っていたとしても何ら不思議ではありません。

弘法大師?空海により仏教の一大聖地になってからは、仏教の興隆もあり多くの參拝者が高野山を訪れるようになります。このため、高野山は神々の山から徐々に仏教の聖地として人々に認知されていったわけですが、そこからやがて弘法大師?空海の入定信仰が生まれ、日本全國に広まるようになりました。

大鳥居が大門に姿を変えたのは1141年。そのような弘法大師信仰と真言密教が広まった世相を表したものと言えます。

【世界遺産】丹生都比売神社?丹生官省符神社と神仏混淆(しんぶつこんこう)

神仏混淆(しんぶつこんこう)と神仏習合(しんぶつしゅうごう)

ここまでお話を進めてくると、世界遺産の丹生都比売神社?丹生官省符神社は真言密教の聖地は高野山と合わさって神仏習合の現れである、と気づかれた方も多いと思います。

神仏習合とは日本古來からみられる獨特の風習で、仏教と神道を一體のものとみなして信仰することです。簡単に言ってしまえば、神様は仏さまが姿を変えたものである、という信仰ですね。

日本では高野山のように壇上伽藍の中に神社(御社)があったり、同じ世界遺産の日光東照宮の中には本地堂や五重塔があったり、神社とお寺が一體となっているのが普通で、私たちはそれに慣れてしまっているのですが、そもそも仏教と神道という異なる信仰が共存しているわけですから、これは世界的に見るとかなり珍しい信仰の形なのです。

高野山はまさにこの神仏習合の先駆けとも言える存在ですが、厳密には弘法大師?空海は丹生都比売大神や高野御子大神と真言密教の大日如來は別物の存在としてそれぞれを大切にお祀りしました。

このように、神様と仏様を一體としてではなく、別々のものとしながらも両者を信仰することを「神仏混淆(しんぶつこんこう)」と言います。

今回ご紹介してきた丹生都比売神社?丹生官省符神社や高野山には、その神仏混淆の象徴をいくつか見ることができます。それをご紹介しましょう。

両部鳥居と大門

丹生都比売神社:両部鳥居

世界遺産?丹生都比売神社及び丹生官省符神社には共通する特徴があります。それは両社とも鳥居が両部鳥居であること。

両部鳥居というのは、寫真の通り鳥居本體を支える2本の柱に、それを支えるように稚児柱(ちごばしら)と呼ばれる控えの小さい柱が組み合わさっている鳥居のことです。

この形で有名なのは同じく世界遺産の広島県、厳島神社の鳥居でしょう。

ここで丹生都比売神社で祀られている神様を思い出してください。丹生都比売大神と高野御子大神の他に、厳島神社と気比神社からそれぞれ神様をご勧請したとお話ししましたが、この2つの神社も両部鳥居です。

この両部鳥居というのは、金剛界と胎蔵界の象徴であるとされていることから、神仏混淆のシンボルとも言われているのです。

一方、高野山の大門。現在の大門は1705年に再建されたものであり、その造りは五間三戸(さんこ)の二階二層門となっています。

この二層門がまさに神仏混淆を表しており、先ほど鳥居から大門に姿を変えたとお話ししましたが、姿が変わっても引き続きこの大門は高野山における結界としての役割を持っているのです。

今も引き継がれている弘法大師?空海の精神

壇上伽藍:御社に向かって読経を稱える僧

続いて、今も続く神仏混淆の行事をいくつかご紹介します。いずれも、高野山を開創した弘法大師?空海が真言密教だけでなく、この地に古くから鎮座する神々に敬意を払っていた精神を今に引き継ぐものです。

まず、高野山で僧侶になる人は100日間の修行「加行」(けぎょう)をするのですが、それを終えると丹生都比売神社に守護を願うお札を納めることになっています。

さらに高野山には「勧學會」(かんがくえ)という行事が毎年行われています。

この勧學會は、密教の経典や理論、空海の著書などを學ぶ完全非公開の學問研鑽の行事で、舊暦の八月二十一日に総仕上げとなる「本會(ほんね)」が行われるのですが、この始まりと終わりに丹生都比売神社の神前にて読経が行われています。

いずれも目の當たりにすることは難しいですが、皆さんが神仏混淆を間近で確認できる機會は実は毎日あります。それは、壇上伽藍の御社の拝殿にあたる山王院では毎日、明神様を稱える読経「南無大明神」が必ず唱えられていることです。

高野山の表參道「町石道」

高野山內でも見ることができる町石

高野山が弘法大師?空海によって開創されてから、多くの人が參詣に訪れましたが、そのメインの參詣道となっていたのが「町石道(ちょういしみち)」と呼ばれる道です。

この道は別記事でもご紹介していますが、今も歩くことができます。

注目すべきはそのルートですが、慈尊院と丹生官省符神社が起點となっており、そこから山上の壇上伽藍まで続いているのですが、丹生都比売神社もこの町石道のルートの中に位置しています。

厳密には町石道のルートから外れるのですが、丹生都比売神社は六本杉でいったん山の麓まで下りた場所にあり、多くの人が參詣の途中で立ち寄ったものと思われます。

町石道は、道に「町石」と呼ばれる石塔が110メートルごとに建てられているのですが、この町石は大日如來の象徴であると言われています。

つまり、人々は高野山の參詣の際に町石を拝みながら、丹生官省符神社や丹生都比売神社を通ることで大日如來と神々の両方を信仰していたわけです。そう考えると、町石道そのものが神仏混淆から生まれた信仰の道であると言えますよね。

丹生都比売神社?丹生官省符神社が世界遺産に登録された理由

ここまでお読みいただければ、丹生都比売神社?丹生官省符神社が世界遺産に登録された理由もご理解頂けるものと思います。

私たちは高野山と言えば弘法大師?空海によって開かれた真言密教の聖地というイメージを強く持っていますが、実は空海がこの場所を選んだ理由の1つとして、この地が古くから神々が鎮座される聖域として厚い信仰の対象となっていたことがあるのです。

空海がなぜ密教の大日如來だけでなく、この地に古くからいらっしゃった神々も合わせてお祀りされたのか。筆者はそこには空海の生涯や生い立ちに深くつながってくる要素があるものと考えています。

そのような空海の信仰の精神が高野山や丹生都比売神社?丹生官省符神社を現在に至るまで大切に信仰し、日本における神仏習合の先駆けとなったこと。これが丹生都比売神社?丹生官省符神社を含む高野山の世界遺産としての本當の価値です。

高野山は正式には「紀伊山地の霊場と參詣道」という名稱で、熊野古道や吉野と合わせて世界遺産に登録されていますが、なぜこれらの地域が合わせて登録されたのか。

その中心にあるのは、世界でも稀な日本の神仏習合という価値観であり、その価値観を表現するためには高野山だけでなはく、丹生都比売神社?丹生官省符神社も含めなければ意味がないのです。

 

いかがでしたでしょうか。世界遺産?丹生都比売神社及び丹生官省符神社の魅力が伝わっていましたら幸いです!

 

(參考:「高野山」金森 早苗 JTBパブリッシング、「高野山を知る一〇八のキーワード」高野山インサイトガイド制作委員會 講談社BC,講談社、「高野山」 尾上恵治 新評論、「週刊 日本の神社 78」DeAGOSTINI、「古社名剎 巡拝の旅 7 高野山」集英社、「謎の空海」三田誠広 河出書房新社)

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【世界遺産】高野山?奧之院を100倍味わう徹底ガイド(朝のお勤め、七不思議から見どころまで) http://www.huge-dicks.com/wh-wakayama-kouyasan-okunoin-11192.html http://www.huge-dicks.com/wh-wakayama-kouyasan-okunoin-11192.html#respond Tue, 21 Sep 2021 08:17:41 +0000 http://www.huge-dicks.com/?p=11192 Copyright © 2021 みんなの一人旅 All Rights Reserved.

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「紀伊山地の霊場と參詣道」の構成遺産として世界遺産に登録されている高野山。高野山で二大聖地のひとつと言われるのが奧之院です。
最奧の弘法大師?空海の御廟へと続く約2キロの道沿いには20萬を超えるとも言われる慰霊碑や供養塔が建てられ、その神聖な雰囲気はここでしか味わえません。
今回は奧之院をより深く味わうため、朝のお勤め、見どころや七不思議など徹底解説します!

【世界遺産】高野山?奧之院の概要

高野山てどんなところ?

世界遺産に登録されている高野山は、言わずと知れた弘法大師?空海によって開かれた真言密教の道場として有名です。

弘法大師?空海がなぜこの場所を真言密教の道場としたのか、そこには伝説とも言うべきエピソードが殘されていますが、ここではその詳細は割愛します。

私たちが「高野山」と呼んでいる場所は、周りを1,000メートル級の山々に囲まれた中にぽっかりと出來た平地のくぼ地のようなところです。
その姿が蓮の花を広げたような姿であることや、弘法大師?空海が生まれる前の古い時代からこの場所は地元の人からも神聖で畏れ多い場所として崇められていたことからも、弘法大師?空海がこの地に特別な何かを感じたことは想像できます。

真言密教の道場、というと仏教の僧侶たちが大勢いる壯大なお寺というイメージを持たれるかもしれませんが、確かに100を超えるお寺がある一方で、今では「高野町」という町になっていて、そこでは僧侶ではなく普通に生活を送っている人も大勢います。

町ですので、小學校や中學校はもちろん、消防署や警察署まであります。

奧之院と入定信仰

高野山?大門に掲げられた聯(れん)

今回ご紹介する奧之院はその名の通り、高野山の奧にある弘法大師?空海の御廟を中心としたエリアを言います。

日本で広まった數ある仏教宗派の中でも、この真言密教にしかない信仰があります。それが弘法大師?空海が今も御廟にて、私たちの救済のために瞑想され、祈りを捧げておられるという入定信仰です。

「入定」というのは『禪「定」に「入」る』という意味であり、「禪定」というのは迷いが無くなり一定の境地に達した狀態を言います。

聖域でもある高野山の入口に堂々と立つ大門には、以下の言葉が記された札(聯:れん)が掲げられています。

不闕日日之影向 検知處々之遺跡 (日々の影向を闕(かか)さずして、所々の遺跡を検知す)

この文を易しい日本語に訳してみると、
「弘法大師様は毎日欠かさずお姿を現して、自らが修行して回った地や、各地で行った社會事業の様子を見て回っておられる。」
ということになります。

これはつまり、今でも弘法大師?空海は生きている人々を見守り、祈りを捧げられているという入定信仰を表したものと言えます。

入定信仰はなぜ生まれた?

この弘法大師?空海の入定信仰は古くから日本に広まったと考えられていますが、このような信仰が定著した理由はいくつか考えられます。

1つ目が、弘法大師?空海自身が殘した遺言によることです。

それによると、空海は弟子たちと別れて入定される際、「これより先は彌勒菩薩のもとで、衆生救済のために祈り続けよう」という言葉を遺したと言われています。

この空海の言葉がそのまま入定信仰につながるのです。

2つ目は、実際に生きておられる弘法大師?空海を目撃した、というエピソードです。

これは、都から奧の院に參られた使い(勅使)が、その時に生きている空海の姿を目にした、というもの。
すでにこの頃に入定信仰が少なからず広がっていたということでしょうか。

最後は、高野聖(こうやひじり)の存在です。

弘法大師?空海の入定後も、真言密教の教えを広げるために全國各地に真言宗の僧たちが教えを説いて回りました。彼らを「高野聖」と呼んでいるのですが、高野聖が日本全國で教えを説いて回る中で自然と弘法大師?空海にまつわる伝説や入定信仰が広がり、定著していったと考えられます。

なぜ弘法大師?空海にだけ入定信仰があるのか?

それでは、なぜ數ある仏教宗派のなかでも真言密教にだけ入定信仰があるのでしょうか。

先ほどご紹介した、弘法大師?空海が遺した言葉によるところが大きいと思いますが、筆者はそれ以外にも真言密教ならではの理由があると思っています。

それは、真言密教が現世利益を説く教えであり、「即身仏」という考えがあること。

皆さんがよくご存じの浄土宗や浄土真宗というのは、シンプルに言えば「南無阿彌陀仏」と仏様に一心に救いを求めることで、極楽浄土に行くことができるという教えですが、これはあくまでも「死後」の話であり、今生きている現世の話ではありません。

これは、仏様に救いを求めるということは、裏を返せば人間は自力で悟りの境地に達することはできない、ということでもあります。

一方の真言宗では、「即身仏」という考えがあるように、人間は生きている現世においても厳しい修行を積むことで悟りを開くことが可能である、つまり生きたまま仏様になることができる、という考えを持っています。

弘法大師?空海が言い遺した「彌勒菩薩のもとで祈り続ける」というのはまさに生きたまま仏様(「菩薩」のもとで、なので厳密には悟りを開いたわけではないですが、仏様になる事を約束された存在)と共に祈りを捧げる、という意味で「即身仏」に近い考えと言えるのではないでしょうか。

彌勒菩薩は、遠い將來において現世に降り立ち、人々を救いに導く衆生救済の存在。

弘法大師?空海が「彌勒菩薩のもとで」と言ったのは、つまり仏陀の教えが無くなる末法の世の後、56億7千萬年後にこの世に下生して人々を救うことの前提であり、その時が來るまで人間を超えた仏様に近い存在として奧之院の御廟にて瞑想を続けられている、ということです。

高野山?奧之院でぜひ見學したい朝のお勤め:生身供 (しょうじんぐ)

御廟橋

先ほどご紹介した弘法大師?空海の入定信仰に関連して毎日奧之院で行われているのが、「生身供 (しょうじんぐ)」と呼ばれている行いです。

これは、弘法大師?空海が今も御廟にて人々のために祈りを捧げておられるため、毎日のお食事をお運びすること。
毎日朝の6時と10時30分の2回行われています。

生身供は、御廟へと続く御廟橋の手前に建てられた御供所からスタートします。この御供所が、まさに弘法大師?空海のお世話を日々行うために建てられた建物です。

まず御供所に併設されている嘗試地蔵(あじみじぞう)に、お供えする食事の毒見の祈願をした後、お食事を籠の中に入れて前後2人で籠を擔ぎ、先導役として1名がその先を歩きます。

ちなみに、毎日お供えされるお料理は基本的には一汁三菜の精進料理になります。

御廟橋前で一例をした後、橋を渡ってその先にある御廟の中に入り、お食事をお供えするとともに読経が行われます。読経が終わると再び御供所に戻り、これで一連の生身供は終了です。

筆者が6時に見學した際は、一連の儀式が終わり御供所に僧侶たちが戻られたのが7時15分ほどだったかと思います。

御廟から先は寫真撮影等禁止ですが、Youtubeなどで御廟橋の手前までの様子を撮影した動畫がアップされていますので、そちらも探していてください。

朝早いですが、人も少なく清々しい神聖な雰囲気を味わうことができる6時のお勤めを見學されることをおススメします!

高野山?奧之院の見どころ

 

奧之院を歩く前に知っておきたい基本情報

高野山?奧之院の見どころを詳しくご紹介する前に、奧の院を訪れる時に知っておきたい基本情報を先にご紹介します。

①供養塔を詳しく知りたい場合はガイド冊子を購入しよう

後ほどご紹介しますが、奧之院は「日本の総菩提所」と呼ばれているほど、宗派や敵味方、身分や國を超えてあらゆる人たちの供養塔が建てられています。
例えば織田信長や豊臣秀吉、上杉謙信や石田三成などそうそうたる戦國武將の供養塔から、現在のパナソニックと創設者である松下幸之助といった有名企業、第二次世界大戦の戦死者や阪神淡路大震災の被災者など。

上記のような有名な供養塔には案內板が設置されているのでまだ分かりやすいですが、參道から少し奧に入ったところにひっそりと案內板が立っていたりと、注意深く歩いていても見落としてしまうことも多いです。

供養塔をじっくりとお參りしたい方は、事前に一の橋の手前にある観光案內所で奧之院のパンフレットを購入しましょう。
見開き數ページの折りたたまれたガイド冊子で、1部100円で購入できます。

ガイド冊子の中にはこの後紹介する石塔の由來や、供養塔の地図案內が記載されていますので、これを見ながらお參りすれば通り過ぎてしまうこともないでしょう。

②奧之院の參道は2つある

奧之院へと至る參道は、一の橋から入る表參道と中の橋駐車場から入る裏參道の2つがあります。いずれの參道から入っても御廟橋で折り返すことができるので、お參りの際は一の橋から、お帰りは裏參道を歩いてみるのが良いのではないでしょうか。

一の橋と中の橋駐車場は1キロ弱と、それなりに距離はあるのですが、いずれも高野山內を走っているバスの「奧之院行き」の停車場があるので、バスでのアクセスが可能です。

中の橋駐車場には大きな駐車場の他、お土産屋やお食事処もいくつかあるので時間がある方はお店も一緒に回ってみると良いかもしれません。

③石塔が意味するものは?

奧之院には大きさも形もそれぞれに違う石塔がたくさん立ち並んでおり、中にはユニークな石碑もちらほら見ることができます。

今回はその中でも、高野山で一般的に見られる五輪塔をご紹介しましょう。

上の寫真の石塔を五輪塔と呼んでいるのですが、その由來としてはこの石塔の上の部分が五つの形から成り立っていることによるものです。

仏教の教えでは、宇宙は空?風?火?水?地の五つの要素から構成されていると言われており、五輪塔の五つの形はこの要素を表したものです。
さらに石にはそれぞれの要素を表す梵字が刻まれているのですが、このように宇宙を構成するあらゆるものを示すことから、大日如來を象徴したものと言われています。

別の記事でもご紹介していますが、昔の人々が高野山へとお參りするために歩いた表參道である町石道には、今も五輪塔の形をした「町石」が約110メートルごとに建てられています。

この町石道は慈尊院から高野山の根本大塔に至る道ですが、そこから奧之院へと続く道にも町石が立てられており、根本大塔を起點(一町石)として2つの道に町石が立てられています。

奧之院へと続く道には、根本大塔から全部で36の町石が立てられており、御廟橋前が34町石になります。

この町石は、弘法大師?空海の御廟を1つにカウントして根本大塔から計37つ、逆側の慈尊院側には180の町石が立てられているのですが、慈尊院から根本大塔までが胎蔵界、根本大塔から奧之院までが金剛界を表していると言われています。

37という數字は後ほどもう1回出てきますので、覚えておいてください。

供養塔だけではなく、この町石にもぜひ注目してみてください。

有名な供養塔一覧

それでは奧之院に建てられている數ある供養塔の中で有名な供養塔をいくつかご紹介します。

戦國武將、姫の供養塔

こちらは織田信長の墓所です。覇王とまで呼ばれた戦國一のカリスマ武將ですが、その墓所はひっそりとしていますね。

ちなみに、織田信長と高野山には因縁の関係がありました。

それは、荒木村重という武將が織田信長を裏切って高野山に逃れてきたのですが、この武將の引き渡しを迫った織田軍に対して高野山がこれを拒否したことに始まります。

高野山としては、引き渡すと必ず殺されることが分かっていた武將をおいおい差し出すわけにはいかず、これに織田信長が激怒。織田信長は全國の高野聖を捕らえて大掛かりな処刑を実行しました。

高野山側も僧侶たちが武裝し、織田軍の包囲網に対して抵抗を見せていましたが、そんな中で1582年、本能寺の変で織田信長が討たれるとともに、この戦いも終わりを迎えたのです。

こちらは豊臣家の墓所であり、豊臣秀吉の墓所も含まれています。一族の墓所ということで、少し高臺の広いスペースに設けられています。

この豊臣秀吉も、信長亡き後は一度は高野山への討ち入りを開始します。

信長の延暦寺焼き討ちは有名ですが、天下統一を目指す武將にとって、仏教宗派というのは団結力、その信徒數ともに油斷ならない存在だったのでしょう。

ここに高野山はピンチに陥るわけですが、それを救ったのが応其(おうご)上人という高野山の僧侶です。彼は、上手く立ち回って秀吉と交渉し、秀吉が高野山に刃を向けるのを止めさせたのですから、凄腕の交渉人だったと言えます。

さらに秀吉は応其上人に全幅の信頼を寄せ、高野山に母君である大政所の菩提所(青巌寺:せいがんじ)を建てたのですが、これが今の金剛峯寺です。

こちらの供養塔、正面に深い切り込みがあるのが特徴なのですが、どの武將のものかご存じでしょうか。

明智光秀なんですね。正面にまるで傷のように深く入り込んだヒビが何とも言えず印象的です。先ほど織田信長の墓所をご紹介しましたが、信長と、信長を討ったとされる明智光秀が同じ場所で弔われているのです。

こちらの立派な供養塔、どの武將のものかと思いきや、実は武將ではなく姫、江姫の供養塔なんです。

大河ドラマにもなり一躍有名になった、戦國を駆け抜けた江姫ですが、奧之院で最も大きな供養塔でもあります。

こちらも參道から外れてややひっそりと建てられた上杉謙信の御廟です。他の供養塔とはまた雰囲気が違い、どこか孤高の崇高さが感じられる御廟ですよね。

他宗派の供養塔

奧之院には浄土真宗の開祖である親鸞上人の供養塔もあるんです。そして、親鸞上人の師匠でもある法然上人の供養塔もあり、まさに宗派を超えた菩提所と言えますね。

有名企業の供養塔

こちらは現?Panasonic社の供養塔なのですが、その隣には創始者である松下幸之助の供養塔も並び立っています。

この正面の獨特な石碑はどこかで見覚えがあるのではないでしょうか。

そうです、ヤクルト社ですね。

災害?紛爭に関する供養塔

こちらの石碑は第二次世界大戦で命を落とした、沖縄戦の戦死者を供養するために建てられたものです。

このほかにも第二次世界大戦での戦死者を弔う供養塔は、ここ奧之院で數多く目にします。それは、同時にいかに戦爭が殘虐で虛しいものなのかを語り掛けているようでもあります。

こちらは阪神淡路大震災の被災者を供養するために建てられた慰霊碑です。

奧之院ではこのほか、東日本大震災や関東大震災の慰霊碑が建てられており、災害で亡くなられた多くの方へ祈りが捧げられています。

動物の供養塔

こちらは動物供養塔。

どのような動物を供養しているのかというと、まだ醫療が今ほど発達していない時代に、治験や薬の開発などで実験臺にされた動物たちです。

人間としてこの供養塔を見るととても哀しく、いたたまれない気持ちになります。今ではもう動物実験というのは禁止されているようですが、人の命を救うためとはいえ、それにより動物の命を犠牲にするのは人間のエゴでしかありません。

この場所に立つと、私たちは「人間」ではなく他の動物や植物と同じ「生き物」であることを心に留めておく、戒めの気持ちを感じずにはいられません。

 

さて、ご覧いただいたように奧之院には身分や敵味方を問わず、あらゆる人や動物たちの供養塔が建てられています。

今風に言えば、奧之院の供養塔はダイバーシティそのものと言えるわけですが、ここがそのような場所になった理由として、筆者はやはり真言宗の教えがあると思っています。

先ほどご紹介したように、真言宗のご本尊は大日如來ですが、これは法身であり、この宇宙の真理であり、存在するありとあらゆるものとも言えるのです。
つまり、今目の前に存在しているすべてのものは大日如來の教えの現れでしかない。

筆者は煩悩や欲にまみれて目が曇ってしまっているのかもしれませんが、真言密教の教えの前では人間であれ動物であれ、草木であれ、そこに違いは無く、そこには皆を平等に捉える心というのが存在しているのでしょう。

このような心を持つ真言密教だからこそ、奧之院にはかつての敵や味方、身分など関係なく分け隔てなく供養塔が建てられているのだと思います。

三つの橋のヒミツ

奧之院は、弘法大師?空海の御廟に至るまで一の橋、中の橋、御廟橋の三つの橋を通ることになりますが、この橋にもそれぞれ意味があります。

一の橋

まず表參道の入口に當たる一の橋ですが、こちら正式には「大渡橋」もしくは「大橋」と言います。參詣された人をここまで大師が送り迎えをされる、という伝承があるため、お參りする方はここで禮拝をしてから渡ります。

まさに浄域への入口であり、その先に続く參道と樹齢の古い老杉がその神聖な雰囲気を醸し出しています。

中の橋

二つ目の橋が中の橋。正式には手水橋(ちょうずばし)と言います。

平安時代、ここはみそぎの場であり、ここに流れる川は「金の河」と呼ばれていたそうです。「金」というのは「死」を表す隠語であることから、この橋がまさに三途の川であの世とこの世をつないでいるというわけです。

この中の橋から先は「あの世」。さらに異世界へと続いていきます。

御廟橋

そして、弘法大師?空海の御廟の前に架けられたのが御廟橋です。別名、無明の橋とも呼ばれ、この橋を渡ると仏の浄土に踏み入れることができ、罪や煩悩が洗い流されるためこの名前が付いたと言われています。

また、御廟橋は36枚の板から成り立っていますが、これは橋そのものを1つとカウントして合計37、つまり金剛界の三十七尊を表したものです。

先ほど町石についてご紹介した時に、根本大塔から奧之院までは合計三十七の町石が立てられているとお話ししましたが、これもまさに金剛界を意味しているのです。

この36枚の板石の裏側には梵字が刻まれており、清らかな玉川の水面の反射を利用して見ることができるようなので、ぜひ神聖な気持ちで確かめてみてください。

御廟橋より奧の見どころ

御廟橋を渡ってから正面に見えるのが燈籠堂、さらにその奧に弘法大師の御廟が建てられています。

御廟から燈籠堂に向かう參道の両側にも供養塔が建てられていますが、有名どころではあの春日局の供養塔や、日本最古の歌碑などが立っています。

燈籠堂に向かって左手には、歴代の天皇?皇族方の歯爪を祀る供養塔が建てられており、仙陵と呼ばれています。

燈籠堂では弘法大師?空海のために1,000年以上も消えることなく燈されている「消えずの火」が2つあります。1つは「白河燈」(しらかわとう)、もう1つを「祈親燈」(きしんとう)と呼んでいます。

「白河燈」はその名の通り、白河上皇によって獻上された火であり、「祈親燈」も祈親上人が獻じた火で、両人とも弘法大師の生まれ変わりと言われ、大師が今も御廟にて絶えず瞑想されていることの象徴でもあります。

「祈親燈」は一説によると、お照(てる)という貧しい女性が切った髪を売って火を獻じたものとも言われており、「貧女の一燈」(ひんにょのいっとう)とも呼ばれています。

二つの「消えずの火」が燈された燈籠堂の內部の天井には燈籠がぎっしりと吊るされ、何とも言えない幽玄な雰囲気を醸し出しています。

ですが、せっかくここまで來たのですから、ぜひ燈籠堂の裏側も忘れずに回ってください。というのも、燈籠堂の裏手、つまり奧から直接御廟に向かってお參りるす場が設けられているためです。

高野山?奧之院の七不思議

最後に、ここ高野山?奧之院に伝わる不思議な伝説をご紹介します。

①高野にハブなし

その昔、高野山には參詣人を襲う大蛇がおり、弘法大師?空海はこれを大変悲しく思われたそうで、竹のホウキに大蛇を封じ込めたそうです。そして、再び竹のホウキを使う時代が來た時に、この封印を解くとお約束されたのだとか。

②杖ケ藪(つえがやぶ)

その昔、弘法大師?空海が高野山を歩く際に使っていた竹の杖が不要になり、道端に差したところ、逆さまに差したはずの竹から根や莖が伸び、葉が出てやがて竹藪になったそうです。

③覚鑁坂(かくばんざか)

覚鑁坂

奧之院の參道にある坂道に設けられた石段は覚鑁坂(かくばんざか)と呼ばれており、途中で転んでしまうと3年も壽命が持たないと言われている何とも恐ろしい言い伝えです。
ですが、その「死に(42)」を超えるためにこの石段は全部で43段あるそう。

④玉川の魚

玉川というのは御廟橋が架けられている川のこと。

その昔、玉川のほとりで小魚を捕って串に刺して焼いて食べようとしていた山男を大師様がお見つけになり、小魚を買い取って清流に流してやったそうです。

この山男も殺生の罪を知り、魚を捕ることをやめたそうです。それ以來、玉川の魚には斑點が見られるのですが、この斑點は串の跡と言われており、今でも山の人はこの魚を食べないそうです。

⑤汗かき地蔵

汗かき地蔵

中の橋を渡ってすぐの地蔵堂に、汗かき地蔵が祀られています。

世の中の人々に代わって、その苦しみをお地蔵様が一心に引き受けてくださっているため、たえず汗を流されているのだとか。

⑥姿見の井戸(すがたみのいど)

姿見の井戸

汗かき地蔵のそばには「姿見の井戸」(すがたみのいど)と呼ばれる小さな井戸があります。

この井戸をのぞき込んで自分の顔が映らない場合、3年以內に壽命が盡きると言われているのだとか。覗き込むのが少し怖いですね。。

ちなみに井戸はそれほど深くなく、ちゃんと底に溜まった水に顔が映るのでご安心ください。

⑦彌勒石(みろくいし)

御廟橋を渡った先には「彌勒石」(みろくいし)と呼ばれる石が、向かって左側の祠に納められています。

この石に觸れると彌勒菩薩の御利益があると言われ、また罪の軽い者は簡単に石が持ち上がり、罪の思い者が石を持つと重くて持ち上がらないと言われています。

 

いかがでしたでしょうか。

世界遺産、高野山を旅された時はぜひ奧之院のじっくりとお參りし、弘法大師?空海をお近くに感じながらその雰囲気を味わってみてください!

 

(參考:「高野山」総本山 金剛峯寺, ㈱高野山出版社、「高野山ガイドブック」ウイング出版部、株式會社ウイング)

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【世界遺産】歴史ある參詣道、高野山?町石道を歩きたくなるマメ知識6選 http://www.huge-dicks.com/wh-wakayama-chouishimichi-11163.html http://www.huge-dicks.com/wh-wakayama-chouishimichi-11163.html#respond Mon, 13 Sep 2021 04:14:59 +0000 http://www.huge-dicks.com/?p=11163 Copyright © 2021 みんなの一人旅 All Rights Reserved.

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世界遺産に登録されている高野山。今では電車や車で気軽に登ることができますが、神聖な場所として古くから信仰を集めた高野山には町石道、と呼ばれる參詣道があることはご存じでしょうか。まさに高野山詣の表參道とも言うべき町石道は、古來より多くの人が高野山に上るために通った信仰の道。今回は世界遺産にも登録されている高野山、町石道を詳しくご紹介します!

【世界遺産】町石道(ちょういしみち)ってどんな道?

世界遺産?高野山へ登る登山口は7つ(高野七口)あり、その中で高野山へ行く正面の表參道とされたのが、高野山町石道(ちょういしみち)です。

ルートは、高野山山麓の九度山町にある慈尊院(世界遺産)を起點として、かつらぎ町天野を経て高野山に入り、大門を経て根本大塔まで続いています。
その長さは約20キロ、九度山駅からスタートするとさらにその距離は伸び、徒歩で6時間ほどの道のりになります。

表參道と言っても山の中を歩いて高野山に上るため、町石道はある程度道は整備されているものの、雨の後にはところどころぬかるみが出來たり、暴風雨の後には木の枝が道をふさいだりと、整備された道路を歩き慣れている私たちにとってはトレッキングルートと呼ぶ方がしっくり來るでしょう。

江戸時代には団體で高野山に上り、お參りのために行き交う人々で賑わっていた町石道。今でこそケーブルカーで気軽に高野山に上ることができますが、電車や自動車も無かった時代は町石道が高野山へ歩いて登る正面玄関だったというわけです。

【世界遺産】町石道の特徴

 

高野山內の道沿いにある町石

町石って何?

世界遺産?町石道の特徴は、その名前にもある「町石」が道に沿って建てられていることです。「町」というのは昔利用されていた距離を表す単位で、1町は約110メートルになります。

つまり「町石」とは、1町ごとに建てられた石の塔(卒塔婆:そとば)のことで、高野山山麓の慈尊院から高野山に至る20キロの1町ごとに、町石が立てられており、今もこれを見ることができます。

町石が建てられたのは、後述しますが鎌倉時代のことです。日本で最も古い町石というわけではありません(最も古いとされているのが、熊野本宮への熊野街道の町石で、現在3基殘されています)が、今でも200を超える町石を見ることができるのは、ここ高野山だけです。

日本で最も多く現存する町石

町石道は先ほどご紹介した通り、慈尊院から高野山の根本大塔まで続く參詣道ですが、実はその根本大塔からさらに奧の院までも町石が立てられています。

その數は慈尊院から根本大塔までが180基、根本大塔から奧の院までが36基。つまりそれぞれを結ぶルートが180町、36町という距離も意味しています。

高野山內を訪れると、大門から根本大塔がある壇上伽藍への道や、根本大塔から奧の院までの道にも町石を見ることができますので、ぜひチェックしてみてください。

よく知ると面白い、町石の意味

町石の大きさ

町石の大きさは高さが230センチ、幅と奧行きはそれぞれ30センチほど。230センチの高さも、上部の五輪塔(80センチ)と、それを支える下の直方體部分(150センチ)からなっています。

これはあくまでも地面から見えている部分の大きさで、安定して立たせるにはそれを支える「根」の部分が地中にもあることになります。その地中部分だけでも、実に1メートルの長さがあると言われており、これを合わせると町石は高さが3メートル30センチ。

しかも町石は1つの石から作られているため、巨石を削って作られたのです。

銘文の配置

町石には文字が刻まれているのですが、五輪塔の部分は下から「ア」「バ」「ラ」「カ」「キャ」という文字が彫られています。「五輪」というだけあり、五輪塔に刻まれたこの「梵字」は、仏教の教えにある宇宙を構成する要素である空?風?火?水?地の五つの要素を意味しています。

ちなみに、五輪塔というのはインドや中國には見られない日本で生まれた日本獨自のものです。五輪塔そのものは奧の院でも數多く見ることができますが、平安時代後期以後、死者の供養塔として建立されるようになりました。

直方體部分の上部には、仏様をあらわす梵字があり、その下には町名(番號)を示す町數が、さらにその下には町石を造立した施主の名前が刻まれているのが一般的な形式です。

町石に彫られた字も良く見ると、とても美しい形をしています。それもそのはず、文字(銘文)を書いたのはあの三蹟の一人、藤原行成を始祖とする書道の流派、世尊時流9代目の藤原経朝ではないかと推定されています。

一方、梵字はお坊さんしか書くことができないため、これは別の人物が書いたとされており、「高野山春秋編年輯録(こうやしゅんじゅうへんねんしゅうろく)」(高野山の歴史を記した書物)によると、小川僧正真範と記されています。

町石はどのようにして生まれた?

それでは町石そのものはどのようにして誕生したのでしょうか。

町石の前身は木で出來た卒塔婆(ストゥーパ)、つまり仏舎利だったと考えられます。

仏舎利?ストゥーパとは、入滅されたお釈迦様を荼毘に付した時に埋めた遺骨を意味し、仏教上、ストゥーパは分けられたお釈迦様の遺骨が納めるためのお堂としての役割を持っていました。

インドから中國を経て日本に仏教が伝えられる中、日本においては法隆寺や薬師寺などが有名な五重塔が、このストゥーパが変化したものと言われています。

そこから、木製の卒塔婆はお釈迦さまではなく、一般の民衆の間で亡くなった方を供養するために誕生(後述しますが、町石が立てられる前は木の卒塔婆が立てられていた)し、それが高野山において町石になったと考えられています。

ですが、これまでの記録によると、例えば37町石の下から300個ほどの経石が出土されています。大きさは3センチから10センチの丸みを帯びた河原の石で、その表面に墨で経文が記されています。

経文が出土されていること、そして真言密教の仏さまを表す梵字が刻まれていることからも、町石は単なる道しるべでも、死者を弔う供養塔でも無いことが分かります。

真言密教において本尊とされる大日如來は、あらゆる仏様に姿を変えて人々に教えを與え、救済の手を差し伸べられていると考えられていますが、この町石自體も言わば大日如來の象徴として建てられたものなのです。

【世界遺産】高野山と町石道の歴史

平安時代以前

平安時代以前の町石道の様子を記した歴史的な記録は見つかっていませんが、一つ言えることは、弘法大師?空海が816年に高野山を真言密教の道場として開く前から、高野山は神聖な山として人々の信仰を集め、崇められていたということです。

それは空海が高野山を開くに當たって、まず丹生官省符神社を創建し、この地の神とされる高野御子大神(たかのみこのおおかみ)とその母の丹生都比売(にうつひめ)を手厚く祀ったことからも明らかです。

高野山が「紀伊山地の霊場と參詣道」として熊野三山や吉野と合わせて世界遺産として登録されているように、高野山だけでなく吉野や熊野など、この辺りは古代日本において修験道が起こり、栄えた一帯であることも頭に入れておきましょう。

修験道というのは山奧に入って修行を行うことで、そのような修行を行い超越的?霊的な能力を得た人は修験者と呼ばれました。

修験道が高野山?吉野?熊野三山で生まれたのは、この深い山々がある意味で「この世ではない異世界」として人々から畏れられていた場所だったからに他なりません。
そのような神聖な場所に敬意を払いつつ、真言密教という仏教信仰の地として築いたのが弘法大師?空海だったのです。

平安後期から完成を見る鎌倉時代

高野山の町石道が完成、つまり今あるように道に沿って町石が一通り立てられたのは、弘安8年の1285年のことと言われています。鎌倉時代ですね。

ですが、弘法大師?空海が高野山を開いたのはそれよりも400年以上前の816年と言われていますから、町石が建てられる前から多くの人が高野山にお參りしていたと考えられます。

それでは鎌倉時代に入るまで、町石道には何も立っていなかったのかというと、石ではなく木の札で作られた卒塔婆が立っていたと考えられています。
その根拠が「寛治2年白河上皇高野御幸記(しらかわじょうこうこうやごこうき)」という、1088年(寛治2年)に白河上皇が高野山に上られた時の記録です。

白河上皇は皆様も歴史で學ばれたかと思いますが、「上皇」という立場で國政を行う「院政」を始めた人物としても有名ですよね。

「寛治2年白河上皇高野御幸記」では、「路頭に卒塔婆札など立つ。町數を注す。」と記されています。まさに今の町石と同じように、鎌倉時代より前にすでに木の卒塔婆が立てられており、番號が付されていたということです。

石の卒塔婆(町石)はなぜ、どのようにして造られたのか?

総距離20キロを超える町石道に200を超える町石を建てることは一大事業と言えます。

先ほどご紹介した通り、町石道の町石は見えている部分だけでもその高さ230センチ、奧行き?幅ともに30センチというとても立派なものですから、これを200以上造るだけでも多くの人手と財源が必要になってきます。

ではどのようにして町石が建てられたかというと、覚斅(かくきょう)という僧侶が勧進(つまり、人々からの寄付)によって町石の整備を進めたと言われています。
覚斅は、今でも高野山で宿坊として宿泊することが可能な遍照光院の第9代目の住職を務めていた人物です。

なぜ覚斅はこのような壯大な計畫を思いつき、実行に移したのでしょうか。理由として考えられるのは2つ。

1つ目は、弘法大師?空海によるお告げがあったとする説です。

この覚斅が町石を建てる勧進に出たのは1265年3月のこと、空海が高野山を開いてからちょうど450年という節目の年でした。
そもそも、町石を建てること自體が夢で空海によるお告げを受けた、とされているので、まさに記念事業の一環としての性格で始まったのかもしれません。

2つ目は、より実務的な理由による説です。

先ほど、古くから町石道には木の卒塔婆が立てられていた、とお話ししましたが、木材というのは腐りやすい材料です。山の中に立てられて風雨にさらされていたとすると、その傷みもより早く進み、何度も建て替えが行われたのではないでしょうか。

つまり、繰り返し修復や建て替えが必要な木で作るよりも、丈夫で不変の石で作ってしまおうというわけです。

お金を拠出したのは誰?

勧進と言っても、1基の町石だけでも相當なお金がかかったでしょうから、それを造るための財源を拠出し、町石の施主になることは一般の人ではなかなか難しかったと思われます。

実際に多くの町石は、當時の貴族や武士によってその費用が賄われました。貴族で言うと、後嵯峨天皇、武士で言うと當時鎌倉幕府の執権を握っていた北條時宗などです。

面白いのは、町石は根本大塔を中心に慈尊院に続く道(根本大塔を1番目とし、180番目まで)奧の院に続く道(根本大塔を1番目とし、36番目まで)に分かれているのですが、後嵯峨天皇は根本大塔から奧の院側の2番目の町石、北條時宗は慈尊院側の1番目と2番目の町石を建てたとされていること。

中心となる根本大塔に近い町石は最も強大な権力を有していた者によって建てられ、慈尊院と奧の院側で朝廷と幕府に分かれていたというわけです。

ちなみに、根本大塔から奧の院側の1番目の町石は誰によって建てられたのかはっきりしていません。2番目の町石が後嵯峨天皇なので、同じく後嵯峨天皇か、同等、つまり同じ天皇によって建てられたのではないでしょうか。

全ての町石が完成するまでの年月は?

町石が一斉に建てられたかというとそうではなく、おそらく勧進の進捗に合わせて徐々に整備されていきました。

現在殘されている町石の中で、最も古い年月が刻まれているのが奧の院側にある23町石で、1266年2月15日となっています。勧進が1265年に始まったので、1年後に記念すべき第1基が建てられたのですね。

そしてすべての町石が完成し、建てられた1285年10月21日、開眼法要(かいげんほうよう)が行われました。の法要は、あの東大寺の大仏様が完成時した際にも行われたものですが、町石に仏の魂を迎え入れる法要のことです。

実に20年もの月日をかけて町石は建てられていったわけです。

【世界遺産】町石道に見る、高野山に巡らされた壯大な空海の仕掛けとは?

町石道からの眺め

216の町石が意味するもの

先ほど町石道は慈尊院と根本大塔を繋ぎ、そこからさらに奧の院まで続いており、全部で216の町石が立てられているとお話ししましたが、この216という數字にも意味があることはご存じでしょうか。

真言密教に特有なアイテムとして、両界曼荼羅という名前を聞いたことはありませんか?

両界曼荼羅は真言密教の教えを図で表したものと言え、「両界」という名前が表している通り2つの世界を表現したものです。それが胎蔵界と金剛界と呼ばれるもの。

ここではその詳細な説明は省略しますが、「高野山秘記」と呼ばれる記録書には町石道と思われる高野山へ登る道の説明をされている箇所かあり、それによると「福居辻堂」から「根本大塔」に至る180町は胎蔵界の仏を表し、「根本大塔」から「奧の院の御廟」までが金剛界の37尊の世界を表している、と記載されています。

今では町石道の起點は慈尊院になっていますが、鎌倉時代以前は「福居辻堂」という別の場所が起點だったよう。それはさておき、町石道自體が真言密教の胎蔵?金剛界の曼荼羅の世界を表したものなのです。

ちなみに、町石は180+36=216ですが、「高野山秘記」には180+37=217という説明になっており、根本大塔から奧の院までの町石の數が一致していません。

この理由は定かではありませんが、一説によると根本大塔から奧の院まで36の町石が立てられていますが、最後の37町目は御廟そのものではないか、と言われています。

また、先ほど1町=約110メートルと書きましたが、根本大塔から奧の院までの町石はそれよりも短い約80メートルの間隔で立てられています。

このことからも、金剛界の諸仏の數である「37」が當初から意識されていたことは間違いありません。

高野山に仕掛けられた壯大な曼荼羅の世界

慈尊院內にある案內板

世界遺産?町石道が真言密教の胎蔵界と金剛界を表していることが分かりましたが、これは何を意味するのでしょうか。それは、この町石道が結ぶルートに隠されています。

高野山というのは、周りを8つの山々に囲まれていながらその中にぽっかりとできた平らなくぼみの部分を指します。このことから、別名「八葉の峰」とも呼ばれており、それはまるで「蓮の花が開いたような」地形になっています。

その高野山を挾んで慈尊院と奧の院を結ぶのが町石道。

それを踏まえて上の寫真をご覧ください。

すると、高野山が大きな蓮の花として、町石道はそこから慈尊院に向かって伸びる「莖」の部分(胎蔵界)と、奧の院に向かって伸びる「花」の部分(金剛界)に相當することが分かります。

つまり、町石道と高野山で一つの真言密教の曼荼羅世界を表しているのです。もちろん、高野山の中心にあるのがあの根本大塔です。

【世界遺産】町石道を歩いてみよう!

いかがでしょうか。弘法大師?空海が高野山全體を聖域にすべく、壯大な設計の元に生まれた町石道、ぜひ一度歩きたくなってきませんか。

今回は町石道のルートと、途中の主な見どころを簡単にご紹介します。

九度山駅(くどやま?えき)

九度山駅

町石道の起點である慈尊院は、現在の南海高野線の九度山駅が最寄り駅となっています。

ちなみに「九度山」という名前も、その昔慈尊院にお住まいになっていた空海の母に會いに、空海が月に九度も高野山を下りていたことが由來と言われています。

片道20キロ以上もある道を月に9回も往復する、というのは想像するだけでも足が疲れそうです。

九度山駅は町石道の起點となる慈尊院があるほか、真田家ゆかりの地として真田ミュージアムもある歴史の街です。お時間がある方はせっかくですので、真田ミュージアムや真田庵もぜひ訪れてみてください。

慈尊院(じそんいん)(世界遺産)

慈尊院:多寶塔

九度山駅から15分ほど歩いた場所にある慈尊院に180番目の町石が立てられており、ここから町石道がスタートします。

先ほどもご紹介しましたが、聖域である高野山は女人禁制の地でもありました。このため、たとえ空海の母親であっても高野山に上ることは許されず、慈尊院に滯在する日々を送られていたのですが、それを考えても慈尊院から先が聖域に足を踏み入れることになるのです。

慈尊院の見どころの一つが、こちらの乳房型の絵馬。「女人高野」と呼ばれ、弘法大師?空海の母親が滯在していた事から、子授け、安産、育児、授乳、良縁などを願って參拝される女性が多いとのことです。

また、こちらには國寶にも指定されている彌勒菩薩がご本尊として祀られています。

丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)(世界遺産)

丹生官省符神社

慈尊院のすぐ裏手、179番目の町石があるのがこちらの丹生官省符神社。世界遺産です。

弘法大師?空海がを高野山を開山するきっかけとなった伝説にもなっている狩人、つまり高野御子とその母である丹生都比売(にうつひめ)を祀るために空海により816年に創建されたのが丹生官省符神社の始まりだと伝えられています。

名前にも入っている「官省符荘」というのは、太政官と民部省から免稅が認可された荘園という意味です。

丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)(世界遺産)

丹生都比売神社

創建は約1700年前と伝えられており、つまりは空海が誕生する前からこの地にいらっしゃった神様をお祀りするために建てられていた歴史ある神社です。

高野山の壇上伽藍が仏教における高野山の始まりの地とすると、丹生都比売神社は神道における高野山の始まりの地と言えるでしょう。

丹生都比売神社は、町石道の分岐點である「六本杉」を一度町石道から外れて山を下った麓に建てられた神社です。神社の先の道を行くとまた町石道に戻ることができますが、一度山を下ってまた登るので體力を消耗します。

ただ、丹生都比売神社には自販機も置かれているので、水分補給や休憩に立ち寄ると良いでしょう。

二ツ鳥居

丹生都比売神社の遙拝所として建てられたと考えられているのが、こちらの二ツ鳥居です。

鳥居が二つ並んで立っているのは珍しいですよね。これはもちろん高野御子と丹生都比売を祀るためのものですが、今殘されているこの石造の鳥居は1649年の事であり、それまでは木製の鳥居だったことが分かっています。

さらに興味深いのは、最近の調査研究では當初は町石道を挾む形で1つの鳥居で、高野山を向いていたことが判明したそうです。これはどういうことか。

現在の高野山の大門の前身として、あの場所には第1鳥居が立てられていたと言われています。つまり、大門=第1鳥居とすると、この二ツ鳥居はその名の通り、元々は高野山の第二鳥居だったというわけです。

つまり、弘法大師?空海が高野山を仏教の道場として開く前から、この地には高野山に向けて鳥居が立てられていたということです。

弘法大師?空海の伝承を伝える「三石」

袈裟掛石

世界遺産?町石道には、弘法大師?空海の伝承を伝える石が3つ殘されています。それぞれ、「鏡石(かがみいし)」「袈裟掛石(けさかけいし)」「押上石(おしあげいし)」と呼ばれているものです。

「鏡石」はその名の通り、表面が鏡のようにつるつると滑らかになっている不思議な石で、この石に向かって真言を唱えると心願成就すると言われています。

「袈裟掛石」は弘法大師?空海がこの石に袈裟を掛けて休んだと言われており、石の下に出來た隙間をくぐると長生きする、という言い伝えがあります。

「押上石」は、弘法大師?空海の母が女人禁制の高野山に近づこうとした際に雷雨が突然火の雨に変化し、空海が石を持ち上げてこれから母を守ったと言われています。この石にはその時に付いた空海の手の跡も殘されているとか。

 

いかがでしたでしょうか。

世界遺産?町石道は、高野山の創建と合わせて空海と人々が創り上げた壯大な信仰の道であることがお分かりいただけたと思います。

古くから日本人の信仰によって守られてきたその神秘的な道、ぜひ皆様も一度訪れてみてください!

 

(參考:「はじめての「高野山町石道」入門」木下浩良 セルバ出版)

 

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和歌山県にある世界遺産の高野山は、1200年も前にかの弘法大師、空海によって真言宗の僧侶たちの道場として開かれた、世界に類を見ない宗教都市です。
今回は、そんな高野山の旅を心行くまで楽しむために知っておきたい、観光?一人旅の基本情報、気候や見どころ、グルメ情報等をご紹介します!

高野山への旅の計畫に役立つ參考情報

大門

高野山への電車でのアクセス

世界遺産の高野山は真言密教の道場として山の上に開かれた空中の宗教都市であり、今では日本に限らず世界中から旅人が訪れる人気の観光スポットになっていますが、今でも仏門に入った多くの僧侶たちが日々生活し、修行を行う神聖な場所です。

山の上にあるものの、電車?ケーブルカー?バスを乗り継いで気軽にたどり著くことができるので、そこまで不便さは感じません。ですが、アクセスするのには近場の大阪からでもそれなりの時間(2~3時間)がかかるので、旅の初日と最終日のプランはじっくり考えましょう。

今回は関西空港又は大阪方面から電車でアクセスする一般的な方法で、高野山駅前に12時前後に到著するケースをご紹介します。

① 関西空港からのアクセス

関西空港(南海電車:南海空港線?難波行) 9時14分発↓
天下茶屋(南海電車:高野線?橋本行)9時58分著(乗り換え)、10時7分発↓
橋本(南海電車:高野線?極楽橋行)10時53分著(乗り換え)、11時00分発↓
極楽橋(南海高野山ケーブル)11時47分著(乗り換え)、11時52分発↓
高野山 11時57分著

② 大阪方面からのアクセス

大阪(JR大阪環狀線內回り)9時42分発↓
新今宮(南海電車:高野線?橋本行)9時58分著(乗り換え)、10時04分発↓
橋本(南海電車:高野線?極楽橋行)10時53分著(乗り換え)、11時00分発↓
極楽橋(南海高野山ケーブル)11時47分著(乗り換え)、11時52分発↓
高野山 11時57分著

高野山へ電車で行くには、南海電車で極楽橋駅まで行き、その駅から直結しているケーブルカーに乗って山の上に向かいます。
橋本までは特急などが出ているものの、大阪からは1時間、関西空港からは天下茶屋を経由するので1時間40分ほどかかります。
さらに、橋本駅から極楽橋までは各駅停車になり、場合によっては途中の駅で連絡見合わせを行うので、長い場合だと1時間ほどかかります。

極楽橋から高野山に上るケーブルカー、そして高野山から高野山內に入るバスの乗り継ぎは電車の時間に合わせて比較的スムーズに移動できるので、乗り換えの待ち時間によるロスはあまり気にしなくて良いと思います。
ちなみに高野山內へ入る道はバス専用道路となっており、高野山駅からはバスでしか移動できないのでご注意ください。

高野山から関西空港、大阪市內へは3時間程度かかるので、初日もしくは最終日は頑張れば半日は高野山の観光に使うことができると考えておけば良いでしょう。

滯在日數に合わせた高野山の旅のモデルプラン

旅の日程による高野山の旅プランですが、下記を目安に計畫を立ててみてください。

旅日數の目安

?高野山內のみの観光の場合:1泊2日もしくは2泊3日
?高野山內+周辺のトレッキング:3泊4日~5泊6日
?高野山+熊野古道も含めた旅:2週間以上

後ほど詳しくご紹介しますが、高野山內のみの観光であれば1泊2日でも十分に観て回ることが可能です。高野山內を運行しているバスを上手く利用すれば短時間で効率よく散策することもできるでしょう。

高野山は真言密教の聖地であり、長い歴史の中で民衆だけでなく貴族や武士からも多くの信仰を集めた場所です。このため、その信仰の道とも言える參詣道が整備されており、今でもその道を辿ることができます。
せっかく高野山を訪れて時間も取れるのであれば、トレッキング感覚で昔の人たちが歩いた參詣道を辿ってみるのもおススメです。
參詣道はいくつかの道があり世界遺産に登録されている道もあるので、ご自分の體力と滯在日數に合わせて選んでみてください。

ご參考までに主な參詣道をご紹介します。下記のいずれも世界遺産に登録されています。

トレッキングとしても人気の參詣道ルート

(初心者向け)不動坂ルート:極楽橋~女人堂 約2.5キロ 所要時間 50分
(中級者向け)高野山女人道ルート:女人堂~大門~奧の院 約6.9キロ 所要時間2時間20分
(上級者向け)町石道ルート:九度山駅~慈尊院~大門~根本大塔 約21キロ 所要時間7時間

十分に時間を取って旅を心行くまで楽しめる方は、ぜひ「紀伊山地の霊場と參詣道」として高野山と同じく世界遺産に登録されている熊野古道も合わせて旅をしてみてはいかがでしょう。
高野山や熊野古道は「道の遺産」であるため、それを歩いて踏破するにはそれなりの足腰の強さが必要ですが、大自然で神聖な場所を歩く體験はこの場所ならではと言えると思います。

気溫と服裝

最後に、高野山を訪れる際の服裝について記載しておきます。

高野山の標高は867メートル。山の上だけあって、地上に比べると夏場は涼しく、冬場は寒く感じます。今回は夏場の気溫と服裝についてご紹介します。

近年は異常気象で日本中の溫度がどんどん上がっている印象がありますが、高野山の僧侶の方と話した時にも、高野山は夏場でも30度を超えることが無かったのに、近年は30度を超える日もあり、熱さが厳しくなってきていると話されていました。

ですが、地上に比べるとやはり5度~8度ぐらいの気溫差はあるのではないでしょうか。夕暮れ時は高くても25度~26度ぐらい、夜はエアコン無しでも窓を開ければ快適に過ごすことができます。

特にNGな服裝というのはありませんが、神聖な場所であることを考えて身だしなみを整えるようにしましょう。

高野山での観光に役立つ參考情報

高野山內マップ

高野山內の散策マップ

高野山內にはこのような散策マップの掲示が主要な場所に設置されているので、高野山內で道に迷うことはないでしょう。
また、散策マップの通り、高野山の両端、大門から奧の院?一の端までの距離は約2キロ、奧の院までは3キロとそれほど離れていないので、徒歩での移動でも1時間半で歩けてしまいます。

高野山の散策は、訪れたい観光スポットの優先度を決めて、次にご紹介するバスの利用と合わせて効率よく回るルートを考えておきましょう。

散策にはバスを上手に利用しよう!

高野山內は主に、高野山駅?奧の院、高野山駅?大門を結ぶ2つのルートをバスが運行しています。それぞれのルートは高野山駅から入り、金剛峯寺のやや西側の千手院橋というバス停付近にある交差點で大門方面に行くか、奧の院方面に行くかでルートが分かれます。

高野山內はそれほど交通量が多くないので、奧の院から高野山駅まで混雑無しの場合は15~20分ほどしかかかりません。

高野山バスは、終日乗り放題のお得なチケットも販売しているのですが、こちらは高野山駅の営業所でしか購入することができません。また、購入した當日のみ有効なので、翌日以降に使うために前もって購入しておく、ということができません。
ですので、旅の日程が短期間で効率よく見て回りたい方は、高野山を訪れる當日の晝までには高野山に入り、午後半日を使って終日乗り放題きっぷで回れる観光スポットを回る、というプランが良いと思います。

高野山內を運行するバスの時刻表はこちらをご參照ください。

観光センターとコインロッカー

高野山の観光案內センターは金剛峯寺の正面の他、奧の院(一の橋)にも観光案內所が併設されており、宿坊案內協會も金剛峯寺の東側の交差點と奧の院(一の橋案內所)に設置されているので、必要に応じて、もしくは少し休憩するために立ち寄ってみましょう。

旅の初日や最終日は荷物を持っての移動が大変ですが、高野山內には下記の4か所にコインロッカーが設置されているので、必要に応じて利用しましょう。
?高野山駅
?宿坊協會の隣
?奧の院の観光センター付近
?霊寶館

高野山で外せない見どころ?観光スポット

壇上伽藍

西塔

高野山の中でも奧の院と並んで二大聖地とされるのが壇上伽藍です。壇上伽藍は空海が高野山を開創する最初の場所となった、まさに高野山の中心と言える場所です。

壇上伽藍の見どころは、何といっても真言密教の世界が體現された場所であることです。

壇上伽藍で最も重要な建物が、空海が最初に建てたとされる根本大塔。現在の根本大塔は昭和12年(1937年)に再建された比較的新しいもののため、鮮やかな外見をしています。

壇上伽藍については別の記事でその魅力と見どころをたっぷりご紹介しますが、根本大塔に祀られているのは胎蔵界の大日如來と金剛界の四仏です。大日如來は真言宗が説く最も重要な仏様であり、根本大塔はまさに大日如來のおられる浄土の世界を表現したものと言えます。

根本大塔は8時30分から17時までの間であれば、500円の拝観料を払って中に入ることが可能です。

根本大塔とセットで見ておきたいのが、その西に建てられた西塔です。こちらは根本大塔より後に創建されましたが、現在の西塔は1834年に再建されたものです。

根本大塔よりも再建が古いため、見た目も西塔の方が時の流れを感じます。ただし、西塔は內部に入ることはできません。

西塔に祀られているのは金剛界の大日如來と胎蔵界四仏。

真言宗の教義を絵で表現したものとされる両界曼荼羅は胎蔵界と金剛界の2つで1つとなりますが、それと同様に壇上伽藍も根本大塔と西塔で胎蔵界と金剛界を表し、2つで1つになっているのです。

その他、壇上伽藍には、空海が真言密教の道場にふさわしい場所に巡り合うことを祈願して投げた三鈷が引っ掛かっていたとされる「三鈷の松」や、この松まで空海を案內した、白と黒の2匹の犬を連れた猟師(狩場明神)ともともとこの地の神として祀られていた丹生都比売を祀る御社など、高野山創建の伝説の舞臺となった見逃せないスポットもあります。

是非高野山と真言宗のお話を頭に入れて訪れると、より壇上伽藍をお楽しみ頂けるはずです。

金剛峯寺

金剛峯寺、というのは特定のお寺の名前ではなく、高野山全體の総稱を示すものですが、高野山內には「金剛峯寺」というスポットもあります。スポットとしての金剛峯寺は、高野山全體の管理を行う宗務一切を取り仕切る事務所のような場所ですが、その誕生は豊臣秀吉がご母堂の菩提として寄進したことに始まります。

歴史的にも古く、秀吉が自害に追い込んだ豊臣秀次が自刃したとされる「柳の間」など見どころも多いので是非壇上伽藍と合わせて金剛峯寺も訪れてみてください。

奧の院

壇上伽藍と並んで高野山の二大聖地となっている奧の院は、弘法大師?空海の御廟があり、ここで空海が入定された大師信仰の中心となっている場所です。

入定というのは、空海が生死の範疇を超えて永遠の瞑想に入り、衆生救済、つまりあらゆる人々が救われるために祈りを捧げていることを言います。
このような入定信仰があるのは、日本仏教の中では弘法大師のみとされており、空海が入定されたことに関連するお勤めが毎日、奧の院では行われています。

空海の御廟に至るまでには20萬を超える供養塔が建てられており、これらの中には真言宗以外の宗派、例えば親鸞聖人の供養塔もあります。

このように、弘法大師?空海の入定信仰により日本の総菩提所となった奧の院。その神聖な雰囲気を是非感じてください。

霊寶館

高野山、真言宗や弘法大師?空海に関連する文化財を數多く保存?管理しているのが霊寶館ですが、その中には國寶も數多く含まれており、特別展などが開催されている期間に合わせて高野山を訪れるとより楽しむことができます。

數々の重要な文化財はもちろん必見なのですが、特に是非とも見て頂きたいのが、空海の直筆とされる、あの有名な「三教指帰」です。もちろん國寶です。
この「三教指帰」は、空海が儒教?道教?仏教のうち、仏教が最も優れた教えであることを、物語風に説いた書物です。

もう1つ、空海が中國の唐から持ち帰ったとされる國寶の「諸尊仏龕」(しょそんぶつがん)という文化財があるのですが、こちらは観音開きの三面からなる木製の彫刻になります。
三面には釈迦三尊を中心として多くの仏さまが細かく彫られているのですが、両面を閉じて持ち運びができる作りになっているのがとても珍しいです。

より高野山を楽しみたい人向けのとっておき情報

ライトアップされた壇上伽藍

根本大塔

壇上伽藍は出入口に門などの施錠が無いため、24時間いつでも出入りが可能です。(ただし、金堂や根本大塔は社務所が開いている17時以降は閉じられ、中に入ることはできません。)
ですが、社務所の営業時間後も壇上伽藍は見どころがあります。

1つ目は18時にならされる鐘樓の鐘です。そして2つ目が壇上伽藍のライトアップ。

中門や根本大塔にはライトが當てられ、夜もくっきりとその美しい姿を楽しむことができます。夏場ですと、日が落ちてから辺りが十分に暗くなるのは19時以降になってから。
日帰りでは楽しむことができない壇上伽藍のライトアップ、こちらもぜひチェックしてください!

奧の院の朝のお勤め

御廟橋とその奧にある弘法大師?空海の御廟

先ほどご紹介した通り、奧の院は弘法大使?空海の入定信仰が今も息づく高野山の聖地です。

弘法大師?空海は今も奧の院の奧で人々のために祈りを捧げておられると信じられており、毎日御廟橋の手前にある御供所から、朝6時と10時30分の2回、お生身供(しょうじんぐ)が調理され、丁重にお供えされます。

御供所にて調理された食事は嘗試(あじみ)地蔵で味見をされ、3人の僧によって御廟へと運ばれていきます。運び方は、2人の僧が白木の箱に納めて籠のようにして前後で擔ぎ、案內人として維那(ゆいな/僧侶の職名)が先頭を歩きます。

御廟に入った後は読経して再び御供所へと戻り、一連のお勤めは終了。
筆者が午前6時からの生身供を見學した時は、御廟での読経は7時10分ぐらいまで行われました。

1日に2回行われますが、やはり清い朝の空気感の中、見學者も少ない6時の生身供がおススメです。
この生身供は誰でも見學することが可能ですので、早起きは少しツラいですが是非見學してみてください!

日本の夕陽100選にも選ばれている絶景

大門から眺める夕陽

最後にご紹介するのが、高野山から見る夕陽。実は高野山は日本の夕陽100選にも選ばれている、とても美しい夕陽が見られる場所として有名な場所なのです。

美しい夕陽日を楽しむことができる場所が大門

大門の前には國道が走っていますが、その國道を挾んだ先には高野山を取り囲むように多くの山々が連なっています。
その山々の向こうに落ちていく夕陽の姿は、その先に極楽浄土があるかのようにとても美しく、まさに絶景。
山々の向こうに陽が沈んでいくその間際の數十分間の間は、絶えず夕陽に照らされる空の色がグラデーションをまとって変化していきます。

高野山は山の上にあるだけあって、雲が多い印象があります。
完全に雲に隠れてしまっては元も子も無いのですが、うっすらとかかった雲の合間をゆっくりと落ちていく夕陽は、雲の色さえも美しく変えてくれるので、雲一つない晴天より、適度に雲がある日の方がかえって美しく思えます。

日沒の時間は季節や日によってズレますし、夕陽が見られるのは日沒までのわずかな時間で、天候は完全に運によるところが大きいので、こればっかりは旅をされる日の天候を祈るしかありません。

ちなみに、夏場(8月)ですと日沒は18時~18時半ぐらいが目安です。

?知っておきたい高野山のグルメ?ショッピング事情

高野山內のお店

高野山は真言密教の道場のため、お寺がたくさんあるのは當然ですが、実はそれだけではありません。

高野山內は1つの街になっていて、小學校から大學までありますし、公共サービスとして郵便局や消防署、警察署まで一通りそろっています。
町內には1日の決まった時間に時報が流れますが、朝8時過ぎには小學校の児童の登校時間であり、學校へ通う子どもたちからの挨拶放送も町內に流れます。

町內にはお土産屋さんはもちろん、コンビニもファミリーマートとデイリーヤマザキの2店舗、レストランの他にカフェや本屋もあり、一通りのお店は揃っています。

基本的にはバスのルートに沿って道沿いにお店が並んでいますが、デイリーヤマザキは通りから少し奧に入った通り沿いにありますし、レストランも通りから1,2本奧に入った場所にあるお店もあるので、ぜひ時間のある方は散策を楽しみながらお店を巡ってみてください。

おススメのグルメ情報

高野山內には、精進料理、和食(うどんなど)、中華、バー、居酒屋などレストランがいくつかありますが、數が多いわけではありません。
ですので、自ずと選択肢は絞られてくるのですが、今回はその中で3つお店をご紹介します。どれも一人旅の方にももちろんおススメのお店です!

角濱ごまとうふ総本舗

高野山と言えば精進料理が有名ですが、その中でもこちらのお店はごま豆腐が名物。

11時からランチも頂くことができ、店內は開放的で気軽に入ることができるので、高野山名物のグルメを堪能したい方にはおススメです。

ランチ価格としては少し高いかもしれませんが、観光プライス設定の店が多い中、まだこちらのお店の料金は手が屆きやすいと思います。

角濱ごまとうふ総本舗
〒648-0211 和歌山県伊都郡高野町高野山230
0736-26-8700
9時30分~16時30分
http://www.gomatohu.com/

居酒屋「みやさん」

高野山內でも人気の居酒屋がこちらの「みやさん」。

店內はテーブル席が3つほど、カウンター席も5,6席しかなくこぢんまりしたお店ですが、料理は焼き鳥から天ぷら、刺身までどれもリーズナブルな値段の上にこれが美味しい!
店內には所狹しと一品ものの品書きがしおりのように貼られており、どれも食欲をそそるものばかりで注文するのにも迷ってしまいます。

一人で飲みに來られている方も多いので、一人旅でもカウンターに座っていると自然と隣の人との會話も弾むのでおススメです。
(※新型コロナウイルス禍では感染予防対策に十分気を付けましょう)

みやさん
〒648-0211 和歌山県伊都郡高野町高野山401
0736-56-2827
17時~22時

中華料理店「ミッチー」

デイリーヤマザキの隣にある中華屋さんが、こちらの「ミッチー」さん。

高野山內はやはり観光名所ということもありお高めのお店が多い中、こちらは町の中華屋さんといった感じでホッとするお値段です。

ご夫婦、ご家族?経営か分かりませんが、接客してくださるママさんもとてもフレンドリーで気さくな方で、高野山の見どころをいろいろ教えてくれますよ。

中華料理 ミッチー
〒648-0211 和歌山県伊都郡高野町高野山448
0736-56-2858
11時~22時

高野山と言えば!宿坊での宿泊體験

基本的なスケジュール

高野山內には現在、117のお寺があるそうですが、その中で宿坊、つまり宿泊できるお寺はなんと52もあります。どのお寺に泊まるかは、そのお寺の歴史や見どころ、また観光スポットへのアクセスも踏まえて決めると良いでしょう。

ここでは基本的なスケジュール例をご紹介します。

チェックイン:午後2時~閉門

宿坊はお寺が提供してくれる宿泊施設であり、ホテルやゲストハウスのように観光客に合わせておもてなしをしてくれる場所とは少し勝手が違う部分がいくつかあるので注意が必要です。

その1つがチェックインの時間帯。基本的にはお寺が開いている時間で午後から夕方の間にチェックインをする必要があります。

もしどうしてもチェックインの時間に間に合わない場合は、おそらく事前にお寺からの案內を受けているかと思いますので、そちらに記載のある連絡先に必ず連絡しましょう。

連絡もせずチェックインの時間內にチェックインを行わなかった場合、キャンセル扱いとみなされてキャンセル料を取られるので注意してください。

夕食(精進料理):17時30分~

夕食の時間帯はお寺によって異なると思いますが、17時半から19時の間が一般的ではないでしょうか。

こちらもお寺で働かれている住職や僧侶さんたちのお勤めの合間におもてなしをしてくださっているので、時間の融通は利かないことが多いかと思います。気になる方は予約の際に夕食の時間をチェックするようにしましょう。

ちなみに、精進料理とは言えボリュームは多く、お腹もいっぱいになりますので、「少し物足らないんじゃ??」というご心配は不要ですよ。

入浴時間:16時頃~22時頃

入浴時間もお寺によって様々。共同浴場はホテルのように夜遅く、又は朝早くまで開いているとは限りませんので、こちらも時間には気を付けるようにしましょう。

閉門後

お寺が閉まった後の外出についても、お寺ごとにルールが異なりますが、基本的には自由に外出することが可能です。

宿坊の中にも自販機が設置されているかと思いますが、コンビニや夜の散策に出かける場合は説明を受けたルールに従ってお寺に出入りするようにしましょう。

朝のお勤め:6時~

朝のお勤め時間もお寺によりますが、概ね6時から6時30分の間に始まるようです。

早朝に起きるのはつらいかもしれませんが、せっかくの宿坊體験、是非朝早く起きて朝のお勤めに參加してみましょう。

朝食(精進料理):7時30分~

朝のお勤めが終わってしばらくすると、朝食の時間です。朝食は夕食に続いてこちらも精進料理。

高野山の清々しい空気と朝のお勤め後に頂く精進料理は、また格別です。

チェックアウト:8時~9時頃

朝食を食べ終わった後は荷物をまとめてチェックアウトの流れとなります。

チェックアウトの時間帯も、ホテルと違って比較的早く行う必要があるので気を付けましょう。

宿坊ピックアップ

最後に、いくつか宿坊をピックアップしてご紹介しましょう。

下記にご紹介する宿坊以外にも魅力的な宿坊はたくさんありますし、また宿泊體験として精進料理と朝のお勤めの他、希望者には寫経や阿字観の體験を提供している宿坊も多くありますので、そのような體験をしたい方は宿坊選びの際にそちらもチェックしてみてください。

①金剛三昧院

高野山內の宿坊の中では唯一世界遺産に登録されているお寺です。その寺內にはこちらも高野山の中では唯一の、國寶に登録されている多寶塔を見ることができます。

この多寶塔は、「尼將軍」として有名なあの北條政子の創建と伝わる、鎌倉時代のもので、創建當時の姿をそのまま今に伝えるとても貴重なものです。

金剛三昧院
〒648-0211 和歌山県伊都郡高野町高野山425番地
0736-56-3838
http://www.kongosanmaiin.or.jp/index.html

②福智院

高野山內で唯一の天然溫泉を楽しむことができます。しかも內湯の他に露天風呂付き。

先ほど、入浴時間は限られる、とご紹介しましたが、こちらの福智院の內湯については24時間いつでも楽しむことが可能ですので、お風呂でゆったりくつろぎたい、という方にはおススメ。

福智院
〒648-0211 和歌山県伊都郡高野町高野山657
0736-56-2021
https://www.fukuchiin.com/

③天徳院

こちらの宿坊の魅力は、高野山內で唯一、重要文化財に登録されている庭園です。お寺の宿泊と合わせて、美しい庭園も堪能したい方にはぴったりの宿坊でしょう。

場所も金剛峯寺の正面にあり、アクセスにも便利です。

天徳院
和歌山県伊都郡高野町高野山370
0736-56-2714

 

いかがでしたでしょうか。

世界遺産の高野山、ぜひ旅をして訪れるからには心行くまでしっかりと楽しみたいですよね。
この記事でご紹介した情報が、皆様の高野山の楽しい観光、一人旅のお役に立つことができれば幸いです。

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【北海道】夏の函館をゆったり満喫!1泊2日の女一人旅旅行記 http://www.huge-dicks.com/minna-hokkaido-hakodate-11091.html http://www.huge-dicks.com/minna-hokkaido-hakodate-11091.html#respond Mon, 30 Aug 2021 02:09:11 +0000 http://www.huge-dicks.com/?p=11091 Copyright © 2021 みんなの一人旅 All Rights Reserved.

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國內旅行では常に人気の高い北海道。今回は北海道の函館を一人旅したMaruさんの旅行記をご紹介します!歴史や異國情緒あふれる街並み、オシャレなカフェなども多く、またコンパクトにまとまった街は女性がのんびり一人旅をするのにも最適!

女性にもおススメ!函館の一人旅の魅力とは?

北海道の南部に位置する函館市は人口約25萬人。北海道では札幌市、旭川市に次ぐ規模の街です。

江戸末期に開港都市として繁栄し、先進國の外國人や本州の商人が大勢訪れ、さまざまな文化の種が蒔かれました。當時の名殘は函館の街のあちらこちらで現在も目にすることができます。

そんな異國情緒漂う函館は地域ブランド調査で魅力的な街ランキングで1位に何度もランクインするほど魅力あふれる街。年間約500萬人の観光客が訪れています。

函館は何度も訪れていますが全く飽きが來ず、「また來たい」と思わせてくれる街です。また、女性一人でも旅をしやすいポイントがいくつかあります。それをご紹介しましょう。

カフェが多い!

旅でグルメは欠かせない楽しみの1つですよね。

女性の一人旅では、男性客が多い大衆食堂やラーメン店は入りづらさを感じてしまい、食事場所に困ることがしばしばあります。その點函館はゆっくりお茶を飲んで休んだり、おしゃれなカフェご飯を食べたり、女心をくすぐるおしゃれで落ち著いたカフェが多くあります。

新しいホテルが続々とオープン!

函館駅周辺には新しいホテルが続々とオープンしています。セキュリティ面や、アメニティ、朝食が充実しているホテルも多いのは女性にはとても嬉しいポイント。

一泊の旅行でもホテルや宿泊先は疲れを癒したり、旅を盛り上げる上で大事な要素なので選択肢が多いに越したことはありません。

観光スポットがコンパクトにまとまっている

函館は1泊2日あれば市內の主要観光地を周ることが可能です。移動も楽なのでゆったりとした旅を求めている方にはぴったりの街と言えるでしょう。

せっかく誰にも気兼ねなく自由を満喫できる一人旅ですから、ゆったりと楽しみながら観光できる函館は一人旅には最適の街です。

今回の函館一人旅スケジュール

仕事詰めの日々を過ごしているとやはり一人旅に出たくなります。

「夏らしく海を眺めて過ごしたい!」と思い、今回は函館へ女一人旅!

今回の大まかなスケジュールこちら;

一人旅の時期:2021年8月初旬
1日目午前:札幌からバスで函館に移動。
1日目午後:函館公園周辺?ベイエリアを散策
2日目午前:西部エリア?元町エリア
2日目午後:五稜郭エリアを散策、17時半頃に函館から札幌へ帰路

散策するエリア以外はあまり細かく決めず、気になった場所は立ち寄るスタイルで旅をしました。

今回は札幌市內から高速バスで函館へ向かいました。所要時間は約5時間30分。
車窓からは北海道らしい雄大な草原や海が見えました。12時30分頃函館駅前へ到著し、さっそく散策スタートです。

夏の函館女一人旅:1日目午後①和の風情を感じる函館公園エリア

函館駅前から市電に乗って青柳町へ

函館駅前から早速市電に乗ります。

一般的な電車よりも重たさを感じる路面電車の「ガタンゴトン」という音を聞くと函館に來た実感が湧いてきます。そして板床のレトロな車內にいるだけで非日常な函館の世界に包み込まれます。

青柳町電停で下車し、函館公園へ向かいました。

函館公園

13時、函館公園へ到著。

函館公園は明治12年(1879年)に開園した北海道初の洋式公園です。園內には日本最古の現存する観覧車や博物館があり、長い歴史を感じます。

広い園內をゆっくりと散策しましたが、訪れた日はなんと最高気溫33度の猛暑日!太陽が照りつけていたので日陰のベンチで涼みながら喉を潤します。
公園の先にある海がとても青く輝いて清々しい気持ちに切り替わりました。

函館八幡宮

続いて函館公園から徒歩約10分の場所にある函館八幡宮へ。

函館八幡宮は開拓や漁業、航海の守り神を祀っています。

酷暑の中、長い階段を上がるのはなかなかしんどいものです。しかし、階段を上がった先では花手水がお出迎え。
花手水は靜かな敷地內でお花を楽しめる夏の風物詩のようになりつつありますよね。涼しげな雰囲気と華やかさにとても癒されました。

帰りに鳥居から海を望めるのが函館八幡宮のおすすめポイントです。

茶房ひし伊

茶房ひし伊は、質店だった蔵を改裝したお店。なんと石川啄木の妻?節子も利用していた質店だったとか。

歴史を感じるシックな雰囲気の店內でクリームあんみつと抹茶のセットをいただきました。酷暑の中を歩いた後の冷たいアイスクリームが身體によく染みわたります。

ひし伊ではゆったりと本を読んで過ごしました。蔵の中に一足踏み入れると非日常な雰囲気に包まれ、贅沢なひと時を味わえます。

夏の函館女一人旅:1日目午後②レトロなベイエリアでショッピング&グルメ

ベイエリア

ゆっくりと休憩をした後は海風に吹かれながらベイエリアを散策します。

ベイエリアは赤レンガ倉庫が立ち並ぶレトロなエリアです。赤レンガ倉庫の中は雑貨店や飲食店が並んでいるのでお土産の購入や食事をとるときにぴったりです。

私のお気に入りのお店は、金森赤レンガ倉庫BAYはこだて內にある「烏賊墨染工房 シングラーズ」。函館近海のイカ墨で染めたオリジナルグッズを販売しています。
函館の街並みをイカ墨で描いたハンカチを旅の思い出に購入しました。

まるかつ水産

17時頃。夏の函館はまだまだ日は暮れませんが、お腹が空いてきたので函館ベイ美食倶楽部內にある、まるかつ水産で夕食とします。

まるかつ水産は函館の老舗鮮魚店が営む回転壽司。近海で獲れた魚や函館名物のコリコリのイカなど、おいしいお壽司を手軽にいただけます。タッチパネルでの注文方式が嬉しいポイント!

私はサッポロクラシックビールと共に真鯛やホタテなどいただきました。どれも新鮮でおいしく大満足でお店を後にしました。

夏の函館女一人旅:宿泊先情報

ラ?ジェント?ステイ函館駅前

今回の宿泊先は函館駅橫「ハコビバ」に併設されているラ?ジェント?ステイ函館駅前。
2019年にオープンした新しいホテルです。

シングルルームでの予約でしたが、空きが多い日だったのかツインルームにグレードを上げていただきました。一人で広いお部屋を使用できるときってなんだかワクワクしますよね。

お部屋にも広いバスルームがついていましたが、こちらのホテルには天然溫泉の大浴場があるため大浴場へ!

モダンな雰囲気の中に和の要素も取り入れ、ちょっぴり不思議な雰囲気の大浴場です。湯上りにはアイスキャンディのサービスもあります。

お部屋へ戻り、函館ビールを飲みながらゆっくりと過ごしました。旅先での湯上りビールって特別感があって本當においしい!
ビールが歩き疲れた身體に染み渡るこの一瞬のために旅をしていると言ってもいいくらい、湯上りビールが大好きです。

朝食ビュッフェ

ラ?ジェント?ステイ函館駅前さんでの滯在で楽しみにしていたのが朝食ビュッフェ!北海道の食材にこだわった料理が用意されています。

目玉は瓶に入った海鮮。ホカホカの白ごはんの上に瓶から具材をかけるだけで鮮やかな海鮮丼が出來上がります!

その他にも大沼公園近くにある山川牧場の牛乳も限定50本で提供されていました。どれもおいしく、お腹が苦しくなるくらい食べてしまいました。

夏の函館女一人旅:2日目午前①海辺近くの西部エリア

函館どつく前

9時30分頃、ホテルをチェックアウトして函館駅前から市電に乗り、函館どつく前まで。

電停前の公園は「新選組最後の地」とされています。意外な場所が歴史的に重要な場所であることが多い函館。數々の文化と觸れて來た痕跡です。

西部エリアの特徴は外國人墓地が立ち並ぶ、荘厳な雰囲気であること。住宅が多いので靜かなエリアですが、一人でしっとりと歴史に思いを馳せるにはぴったりのエリアです。

ティーショップ夕日

西部エリアの端にあるのが「ティーショップ夕日」。明治時代に建てられた検疫所の建物を改裝した日本茶カフェです。

窓側の席からは青い海を眺められ、まるで絵畫のような景色です。

美しい景色を観ながら冷たい煎茶をいただきました。青い海と煎茶の爽やかな緑が夏らしさを感じさせてくれます。じっくり考え事をしたいときにまた來たいなと思いました。

夏の函館女一人旅:2日目午前②異國情緒あふれる元町エリア

函館區公會堂

続いて、約15分ほど歩いて元町エリアへ。函館観光では外せない元町エリアは見どころが満載です。

函館區公會堂は2018年から保存修理工事をしていましたが、2021年4月にリニューアルオープンをしました。高貴な內裝はどこを切り取っても美しいです。

函館といえば八幡坂。多くの方がここで記念寫真を撮っていました。

元町エリアは建物や石畳の道、教會の鐘の音など、海外を旅しているかのような気分になります。ちょっとした裏道を覗いてみても面白いですよ。

茶房菊泉

散策の休憩に「茶房 菊泉」へ。
こちらは店內に囲爐裏や円卓などがある和テイストのお店です。提供しているメニューにはオムライスやパフェもあり、食事系からスイーツまで楽しめます!

こちらでは鯨汁を頂くことができ、夏期間は冷たい鯨汁も提供しているとのことで、冷たい鯨汁を注文!

嚙めば嚙むほど鯨の旨味がしてきます。冷たくても塩味が効いているため、たくさん入っていた具材もおいしく頂きました。

夏の函館女一人旅:2日目午後 歴史を感じる五稜郭エリア

五稜郭公園

まだ時間があるため五稜郭エリアへ路面電車で移動。路面電車の停車駅から五稜郭公園までは徒歩約15分ほどです。

道中にあるお店はコロナウイルスの影響か、閉店してしまったお店が目立っていました。早く終息してまた活気が戻ることを楽しみして五稜郭公園へ。

五稜郭は最後の國內戦、箱館戦爭の舞臺となった場所です。現在は観光客だけでなく、函館市民の方も散歩で訪れる憩いの場となっています。

広い五稜郭をのんびりと散策しました。帰る時間まであと2時間ほど。もう少しで非日常な世界から日常に帰ると思うと寂しくなってきます。

ラッキーピエロ

函館旅の最後は、函館名物ラッキーピエロで締めます!

ラッキーピエロは函館市內で展開しているご當地バーガーショップです。

1番人気は「チャイニーズチキンバーガー」。味が染みた大きなチキンが3つもバーガーに挾んであります。
バーガーもおいしいですが、「ラキポテ」もおすすめです。フライドポテトの上にかかった熱々のミートソースとチーズがクセになります。

とにかく全てのメニュー、ボリュームが多いラッキーピエロ。函館を訪れた際は1度ご賞味ください。

まとめ

この後17時30分函館駅間発のバスに乗って帰路に著きます。
車內ではぐっすりと眠ってしまい気が付けば札幌に到著。1泊2日、あっという間の旅でしたがとても濃い時間を過ごしました。

夏の函館、女一人旅いかがでしたでしょうか。
今回の旅の目的、「夏らしく海を眺めて過ごしたい」という私の思いにぴったりでした。女性でも一人でも楽しめる函館はホスピタリティにあふれた素敵な街です。

旅の行き先選びに迷ったときはぜひ函館を訪れてみてください。今までに出會ったことのない景色やグルメと出會い、癒しを旅人に與えてくれるでしょう。

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【世界遺産】長崎?原城跡と島原?天草一揆(島原の亂)を知るためのマメ知識5選 http://www.huge-dicks.com/wh-nagasaki-kumamoto-haranojo-11064.html http://www.huge-dicks.com/wh-nagasaki-kumamoto-haranojo-11064.html#respond Mon, 16 Aug 2021 22:57:03 +0000 http://www.huge-dicks.com/?p=11064 Copyright © 2021 みんなの一人旅 All Rights Reserved.

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長崎県と熊本県にまたがる世界遺産「長崎と天草地方の潛伏キリシタン関連遺産」の1つ、原城跡。日本史でも必ず掲載される島原?天草一揆(島原の亂)において、幕府軍とキリシタンの天草四郎時貞を総大將とする一揆軍が最後に壯絶な戦いを繰り広げた舞臺です。
今回は、この出來事がなぜ起こったのか、潛伏キリシタンによる信仰との関連も含めてご紹介します!

【世界遺産】「長崎と天草地方の潛伏キリシタン関連遺産」と原城跡

世界遺産の概要

「長崎と天草地方の潛伏キリシタン関連遺産」は2018年、日本で18番目の世界文化遺産として登録されました。

皆さんは「潛伏キリシタン」という言葉がどのような意味かご存じでしょうか。平たく言ってしまえば、「社會の中でこっそりとキリシタン信仰を続けていたキリスト信者」と言えるでしょう。

なぜ「こっそり」と信仰しなければならなかったのか。それは、當時の日本政権(世界遺産に登録されている構成資産は17世紀~19世紀中頃のものであるため、主には江戸幕府)によってキリスト教は「異教」として厳しい取り締まりの対象であり、布教が認められていなかったからです。
このような狀況下で、キリシタンであることがばれた人たちは厳しい弾圧のもと、容赦ない拷問などによって改宗(「転ぶ」)を迫られました。

「長崎と天草地方の潛伏キリシタン関連遺産」は、このように、厳しく他に類を見ない狀況下でも自身の信仰を捨てずに持ち続けた潛伏キリシタンたちが殘した獨特な遺産であり、それが世界遺産として認められたものになります。

「厳しく他に類を見ない狀況」というのは、禁教令による厳しい弾圧ということだけではなく、そのような狀況において日本國內から宣教師たちがほぼ一掃されて不在になってしまい、教えを授ける存在がいない中で信仰を続けたことで、次第にその信仰形態がキリスト教を軸としながらも獨特な形態に変化していったことも示しています。

今の日本では當たり前に守られている「宗教と信仰の自由」ですが、これはわずか200年前にはまだ當たり前ではなかったのです。今、「多様性」が聲高に叫ばれている中で、信仰の自由もまさにそのテーマの1つと言えます。
「長崎と天草地方の潛伏キリシタン関連遺産」は、悲しい歴史に裏付けられた世界遺産であり、今の私たちが知るべき世界遺産でもあるのです。

原城跡が世界遺産に登録された理由

先ほど、この世界遺産の構成遺産は17世紀から19世紀中ごろまでに及ぶ、とお話ししましたが、「長崎と天草地方の潛伏キリシタン関連遺産」の特徴として、この二百數十年に及ぶ時代を、潛伏キリシタンの「始まり」から最終的に信仰を宣言する「信徒発見」まで4つの時代區分に分けていることにあります。

具體的な時代區分は以下の通りです。

①「始まり」(17世紀初頭~中頃):キリシタンが「潛伏」することのきっかけを含む「潛伏キリシタン」のはじまりの時期
②「形成」(17世紀中頃~19世紀初頭):キリシタンが仏教や神道信仰を裝いながら密かにキリスト教信仰を続けることを模索した時期
③「維持?拡大」(18世紀末~19世紀中頃):潛伏キリシタンたちが、信仰を続けていくために主に長崎の外海の島々へ移住した時期
④「変容、終わり」(19世紀後半):潛伏キリシタンたちが潛伏を止め、自らキリシタンであることを宣言(信徒発見)した時期

今回ご紹介する「原城跡」は、上記の時代區分の內①に該當する唯一の構成遺産です。

詳細は順を追ってお話ししますが、原城跡が世界遺産として登録された理由は、この構成遺産が潛伏キリシタンの始まりを示すものであり、そのきっかけとして島原?天草一揆があったということを頭の片隅に留めておいてください。

ちなみに④「変容、終わり」の代表的な出來事として、潛伏キリシタンたちが潛伏を止めて大浦天主堂で自分たちがキリシタンであることを告白した「信徒発見」(1865年)があります。
「信徒発見」は長い苦難の時も変わらず信仰を持ち続けたキリシタンたちの存在が世界に示された出來事なので、キリスト教や世界史上も「美談」として語られることが少なくありません。

ですが、1865年と言えばまさに明治維新の前夜とも言える時で、引き続きキリシタン禁制の狀況にあったこと、そして明治維新後の明治政府も継続してキリシタン禁制を行っており、決してこれ以降キリシタンたちの信仰が認められたわけではありません。

むしろ明治政府によっても厳しい弾圧が行われ、これ以降もキリシタンたちは苦難の歴史が待ち受けていたことは知っておいてください。

【世界遺産】原城を舞臺とする島原?天草一揆はなぜ起こったのか?

経済説と宗教説

「一揆」は、日本史においてたびたび勃発した、抑圧される側(主に百姓たち)が支配する側(大名や藩主)に対して起こした「組織立った」反亂を意味します。

島原?天草一揆も同じように、島原、天草地方の村社會に住む百姓たちが當時支配していた島原藩主、松倉勝家(まつくらかついえ)と唐津藩主、寺沢堅高(てらざわかたたか)に対して一揆を起こし、これが幕府をも巻き込む數か月にわたる大事件へと発展していきました。

ですが、この一揆に関しては百姓たちが一揆を起こすに至った一番の理由がどこにあるのか、その原因に関して主に2つの説が唱えられています。

1つ目は、これまでの一揆と同じように藩主の苛政(かせい:年貢等を厳しく取り立てるなどの圧政を行い、民や百姓たちが苦しめられること)による百姓たちの困窮とする、経済説です。

事実として島原?天草一揆が起こった1637年頃は悪天候による米や作物の不作が続いていたことが分かっており、百姓たちは年貢を納めることが厳しくなっていたにも関わらず、藩主である松倉氏は徳政令などの減免を行うどころかより一層の取り立て強化を行い、時には水牢などの拷問を行ったとされています。

このような苛政に堪え切れなくなった百姓たちが立ち上がったというわけです。

2つ目は、この一揆がキリシタンによる信仰の自由を求めたものである、という説です。

この島原?天草一揆では一揆側の総大將として若干16歳のキリシタン、天草四郎時貞を立てたことはあまりにも有名ですよね。

一方で、実は一揆を起こした百姓たちの中には「立ち帰りキリシタン」と呼ばれる者が多く含まれていました。「立ち帰りキリシタン」とは、かつてはキリシタンで、キリシタン禁制による厳しい弾圧に堪え切れずに一度は改宗をしたものの、再びキリシタンに戻った人達のことです。

もちろん、熱心なキリシタンたちも多くいたことは間違いないと思いますが、立ち帰りキリシタンたちの存在は、この一揆が「純粋な信仰の自由を求めた宗教戦爭」であるとも言えないことを表しています。

筆者としては島原?天草一揆の性質としては信仰の自由を求めた宗教一揆、という側面がやや強い印象を持っていますが(その理由もいくつか後ほどご紹介します。)、経済か宗教か、と完全に二元論で語れるほどにこの一揆は単純なものではなかった、ということが一番大事なことだと思っています。

島原?天草一揆と日本におけるキリシタンの歴史的背景

先ほどご紹介した通り、島原?天草一揆が藩主の苛政に堪えかねた百姓たちの反亂であれば、この一揆は起こるべくして起こったものと言えますし、そこに歴史的な背景というものは特には見當たりません。

ですが、宗教戦爭とまでは行かないものの、総大將が若干16歳の少年でしかもキリシタンである、という點だけ見ても少しこの一揆が普通の一揆ではないニオイを感じませんか。

ここではキリシタンを切り口にして、島原?天草一揆へと繋がっていく歴史的な背景を見ていきたいと思います。

戦國時代(1549年~1603年)

1549年にキリスト教を初めて日本に伝えたのはイエズス會の宣教師、フランシスコ?ザビエルです。日本史の教科書で誰でも一度はその寫真を見たことがあるのではないでしょうか。

それ以來、織田信長がキリスト教を容認したため、日本にもキリシタン大名が多く誕生しました。有名なところでは高山右近や小西行長などです。

ところが豊臣秀吉が天下を手中に収めかけていた1587年、秀吉は「バテレン(伴天連)追放令」を出し、宣教師たちを日本から追放することでキリスト教を排除する政策を取ります。

秀吉がこのような政策を取った理由はいくつか考えられますが、

?キリスト教を通じたスペイン?ポルトガルによる実効支配を恐れた
?加賀の一向一揆など、信仰による一揆の恐ろしさを知っていたため、キリシタンによる一揆を恐れた
?キリスト信仰を通じて自分の支配力が落ちることを恐れた
?キリシタンによる寺社取り壊しが相次いだ

などが挙げられます。

ですが、この政策は中途半端なもので、當時イエズス會などを通じて行われていた南蠻貿易によって経済的利益を享受していた秀吉は、この南蠻貿易は引き続き継続することとしました。
このため、日本の京都や都市部などから宣教師たちはいなくなったものの、彼らは國を出ずにキリシタン大名の元に身を寄せ、大名たちも彼らを厚く保護したのです。

先ほどキリシタン大名として名前を挙げた小西行長は、豊臣秀吉の側近の大名でもあり、秀吉の九州平定時に手柄を立てたことから、肥後國南部の領地を賜りました。
その後、天草も含めて小西行長の支配領地となり、ここに日本でも有數の一大キリシタン拠點が誕生します。

島原?天草一揆がキリシタンによる一揆である、という背景としてこのように、支配者も含めてもともとこの地には多くのキリシタンたちが住んでいた場所だったという歴史的背景があるのです。

江戸時代初期(1603年~1612年)

江戸幕府が誕生し、徳川家の時代に入ってからも江戸幕府は秀吉の政策を引継ぎ、キリシタン禁制は続けられました。ですが、その內実も引き続き一部緩いものがあり、キリシタンの取り締まりも藩主によって濃淡があったと言えます。

特に後の島原藩の領主であった有馬晴信や、長崎港を開港した大村純忠はいずれもキリシタン大名であったことから、島原?天草?長崎の大多數はキリシタンであり、日本でもこの地域はまるで異國かのようにキリシタンの土地となっていました。

そんな狀況が一変したのが1610年前後に起こった「岡本大八事件」です。
この事件、事の起こりは有馬晴信とポルトガル船とのいざこざによる衝突に始まるのですが、それが當時ポルトガル船の目付け役をしていた岡本大八との確執に発展し、最終的には有馬晴信は流罪に、岡本大八は火あぶりの刑に処せられました。

この処分で終われば良かったものの、家康はこの二人がキリシタンであった事に目を付け、これをきっかけにキリシタン禁教令を出し、ここからキリシタンへの弾圧は厳しさを増していくことになったのです。

島原?天草一揆まで(1612年~1637年)

徳川幕府による禁教令が発令されてから、宣教師(バテレン)達は基本的にはマカオやマニラへの國外追放となり、日本の大名からもキリシタン大名はいなくなります。

この頃からキリシタン弾圧が激しさを増していくのですが、この頃の弾圧の特徴としては弾圧の対象となったのは信徒というより宣教師たちだったということです。

特に壯絶な出來事として有名なのが、1622年に行われた元和の大殉教です。この時、長崎の西坂で55名のキリシタン関係者が火あぶりもしくは斬首により処刑されています。
処刑された者の中には、宣教師や修道士だけでなくこれらをかくまった信徒も含まれ、その一家が容赦なく処刑されました。4歳の子どもも含まれていたそうです。

この徹底的な取り締まりによって日本からほぼ宣教師たちが一掃されてしまうわけですが、それでもまだ百姓や一般庶民の中のキリシタンたちは厳しい弾圧を免れていた面もありました。

その理由として考えられるのは、やはりまだ幕府を中心としたキリシタンの取り締まり體制が確立されておらず、キリシタンの取り締まりはある程度諸藩に委ねられていた事があると思います。

そんな中、元々キリシタンたちが多く住んでいた島原藩の狀況はというと、初代藩主の松倉 重政(まつくら しげまさ)は當初は南蠻貿易で利益を得ていたこともあり、ある程度キリシタンの活動を黙認する姿勢を取っていました。
が、徳川幕府による禁教令から徐々にその弾圧を強め、幕府にその対応の甘さを指摘されてからは一転、殘忍な拷問とともに徹底的にキリシタンを取り締まるようになります。これが1620年から30年にかけてのことです。

これと合わせて、領民から過酷な搾取を行うなどの苛政を行い、これらの政策は二代目を継いだ子の松倉勝家にも引き継がれました。そしてこのような狀況の中、島原?天草一揆が火山爆発のように突如として吹き上がったのです。

島原?天草一揆の全容①:戦いの幕開け

一揆が勃発!一揆勢は島原城?富岡城を包囲

1637年10月25日、有馬村の代官であった林兵左衛門が村人に殺されたことで一揆ののろしが上がりました。

代官であった林兵左衛門が殺された理由としては、有馬村の村民たちがキリスト教の絵を掲げて祈りを捧げていたところ、林兵左衛門が踏み込んできてこれを引き破ったことに対する報復であったり、必要な年貢を納めなかった村人の妊娠していた妻が水牢の拷問を受け、お腹の子どもと共に死んでしまったことに対する復讐だったと言われています。

いずれにしても、有馬村を起點として一揆の掛け聲が上がり、その流れは村を巻き込んで島原城へと押し寄せていきました。

ここに一揆の殘虐性と、この一揆がキリシタン一揆であると言われる所以があるのですが、一揆の大きな勢力は次々と村を襲い、そのたびに村民に対してキリシタンとなって一揆に加わることを強要し、それに従わない者たちはことごとく殺されたのです。
また、一揆に同調しない百姓や民衆だけでなく、道中にある寺社は容赦なく破壊され、そこにいた僧侶たちも無殘にも首を切られました。

こうして、村民や民衆たちは一揆に加勢する(つまり、キリシタンになる)か、そうでなければ藩主側に付くかの二択を迫られることになり、一揆側に付かない者たちは藩主の居城に逃げ込みました。

百姓一揆であれば、その攻撃の対象は大名や藩主であるのに対し、この島原?天草一揆では藩主だけでなく、キリシタンに立ち帰り、もしくは改宗しない人々までもが攻撃の対象となったのです。この點にこの一揆が宗教戦爭の一面を有していると言えるでしょう。

島原で一揆が巻き起こったのと合わせるようにして、天草でも村民たちが一揆を起こし、島原と同様に藩主の寺沢氏の居城、富岡城へと押し寄せました。

なぜ藩主勢は苦戦を強いられたのか?

一揆のイメージで言うと、戦いのプロである武將と素人の百姓の戦いなので短期間で制圧されそうな気がしますが、島原?天草一揆で藩主側がここまで押し込まれたのはなぜでしょうか。

考えられる理由は2つあります。

1つ目は、戦いの手段は刀から鉄砲に移っていたため、普段から狩猟などで銃を使い慣れている百姓たちにも一日の長があったこと。
2つ目は、藩主の松倉氏が參勤交代で江戸に上っていたため、藩主側の勢力が半減していたこと。

それ以外にも、島原の一揆に応じて天草側でも一揆が発生したことから、すでに天草四郎を総大將とする一揆の組織が構築され、機動的な動きができる統制がコントロールされていたことも考えられます。

藩主側は近隣諸國と江戸幕府に援軍を要請!

當初は勢いに乗り、藩主勢力を圧倒して島原城、富岡城まで押し寄せた一揆軍。ここから一気に城を攻め落としたいところですが、堅固な守りということもあり容易に城を攻め落とせずにいました。

その間、松倉?寺沢氏の両藩主勢力は近隣諸國と江戸幕府に向けて援軍の要請を出します。ここで近隣の藩主たちがすぐに援軍を出していればまだ短期戦で済んだかもしれませんが、実は援軍は江戸幕府からも近隣藩からもすぐには到著しなかったのです。

江戸幕府から九州までは、片道でも10日~20日ほどかかる距離。幕府軍の援軍がすぐに加勢できなかったことは容易に分かりますが、近隣の藩主たちはなぜ助けをよこさなかったのでしょうか。
実は、江戸幕府が定めた武家諸法度では藩主が藩を超えて獨斷で軍を派遣することは禁止されており、事前に江戸幕府にお伺いを立てる必要があったのです。

1637年と言えば江戸幕府が成立してまだ30年ほど。しかも九州は江戸から遠く離れており、その藩主はいわゆる「外様大名」と呼ばれた、江戸將軍とあまり信頼関係の無い大名たちでした。それでも九州の諸大名たちは、徳川將軍へのアピールのつもりなのか、武家諸法度を律儀に守っていたのです。これを知った當時の三代將軍家光は、一揆勢に押されている狀況でありながらも秘かに喜んだと言われています。

 

容易に島原城、富岡城を攻め落とすことができないと分かった一揆勢は合流して、原城に立てこもり、いずれ來る幕府の援軍を迎え撃つ準備を進める作戦に切り替えました。

舞臺は原城へ。そして、すべての決著がこの地で付されることになるのです。

島原?天草一揆の全容②:原城での島原?天草一揆の攻防

そもそも原城ってどんな城?

天草四郎時貞を総大將とする一揆軍は原城に集結し、ここに籠城して幕府軍もろとも迎え撃つことになるのですが、そもそもこの原城というのはどんな城だったのでしょうか。

実は原城は一言で言えば「築城の途中で放置された作りかけの城」でした。というのも、この城は江戸幕府が成立する前から有馬晴信によって1599年には建設が著手されており、かなり整備が進んでいたのです。
ですが、その後藩主が変わり松倉勝家の統治になってから、松倉氏はこの城ではなく別の場所に島原城を建設することにしたのです。

「せっかく造りかけたんだから2つとも建ててしまえばいいんじゃないの?」

そう思われるかもしれません。ですが、これも江戸幕府により敷かれた「一國一城令」によって諸大名は基本的に居城以外に城を持つことは禁止されていたのです。

江戸幕府は島原?天草一揆において、この「一國一城令」で救われた部分があるかもしれません。もし原城が完璧な城として建設されていれば、この一揆もさらに長期化していたかもしれないからです。
一揆軍は造りかけだったこの原城を大急ぎで整備して、幕府軍を迎え撃つ體制を短期間で構築したのです。

一揆軍、幕府援軍の第1軍を撃破

江戸幕府は島原?天草一揆の知らせを受け、すぐに板倉重昌を援軍として派遣しました。ですが、この板倉氏を総大將とする幕府?九州諸大名の軍勢も原城に立てこもる一揆軍の攻略に苦心し、幾度か総攻撃をかけても鉄壁の守りと統制の効いた反撃で大きな痛手を負うハメになりました。

すぐに決著が著くとタカをくくっていた江戸幕府は事態を重く見て、第二軍として松平信綱を派遣します。
松平家と言えば徳川家の親戚であり、松平信綱は當時の三代將軍家光の側近中の側近です。いかに幕府がこの一揆を重く受け止めたかが分かりますね。

松平氏の援軍の一報は當然、現地で指揮を執る板倉氏の耳にも入っていた事でしょう。これに焦ったのか、板倉氏は無謀にも再度の総攻撃を仕掛け、何とか松平氏が到著するまでに決著をつけようとしましたが、これが裏目に出てしまいます。

板倉氏は前線に立って城に攻め入る際に一揆軍の銃弾に當たり、戦死してしまったのです。

松平軍、築山作りと兵糧攻めでじりじり攻める

板倉氏に代わり、軍の総指揮を執った松平信綱。若い頃から切れ者として評判だったこの人物が取った作戦は、築山作りによる攻撃と兵糧攻めです。

「築山」というのは人工的に作った山のこと。松平氏は、人工的に大掛かりな山を作り、そこから原城內の様子を探りつつ、攻撃を仕掛ける起點にしたのです。
もちろん、このような築山を作るのには相當の人手と時間がかかった事でしょう。

これと合わせて、松平氏は兵糧攻めでジリジリと一揆軍を追い詰める作戦に打ってでました。
この2つの戦略の効果はてきめん、兵糧が次第に底をついてきた一揆軍の士気は下がり、また築山から城內の様子を探りながら攻撃を仕掛けることで、徐々に原城の守りにも隙が出始めたのです。

島原?天草一揆の全容③:原城での神経戦と壯絶な終焉

矢文による交渉

一揆軍が原城に籠城してから、幕府?諸藩軍との間で様々な神経戦が行われました。

そのうちの一つが、矢文による交渉です。以下にそのやり取りの一部をご紹介しますが、これを見てもこの一揆の目的がキリシタンによる信仰の自由を求めたものとみることができます。

【一揆軍の主張】
① 籠城の目的は國を持つことでも支配権を持つことでもなく、幕府や藩主の松倉氏に不満を持ったものではない
② キリシタンの信仰が迫害されたことに苦しめられ、後生の救いを失わないために信仰の容認を求めて蜂起したものである
③ 現世のことに関しては將軍や大名に忠義を盡くす覚悟であるが、來世のことに対しては「天使」すなわち天草四郎の下知に従う

この一揆軍の矢文からは、キリシタンとしての信仰を幕府に認めさせることが一番の目的であり、それ以外の他意は無いことも名言されています。

【幕府軍からの要求】
① 去年以來原城から投降してきた「落人」は助命されたうえ、金銀が與えられ、當年の年貢を免除されて皆喜んでいる
② キリシタンは処刑する一方、異教徒であったのに現在無理やりキリシタンになっている者は助命するのが家光の意向
③ 大將の天草四郎もまだ若いため、城から出るなら助命する
④ 巻き添えでキリシタンになった者も、後悔しているなら投降の上改宗すれば助命される
⑤ もともと異教徒であった者たちを解放すれば、代わりに熊本藩に捕らえられている天草四郎の母?姉?妹?小平を城內に派遣する

この幕府軍の要求から分かることは、以下の通りです。
?キリシタンに対しての容赦は一切なく、例外なく改宗を求めている
?総大將である天草四郎に対してもその年齢に対して情けがかけられている

【一揆軍の回答】
?「落人」に対して特段の対応は取っておらず、放置、つまりその者の自由に任せている
?無理やりキリシタンに改宗した者はいない
?我々はデウス様のお計らい次第、必ずパライソ(天國)で再開する約束で結ばれている

一揆軍の回答からは、強い信仰により軍は一致団結していることをアピールしている様子がうかがえます。

壯絶な最期

1638年2月28日、幕府?諸藩軍はついに総攻撃に打って出ます。

もちろん原城の堅固な守りは簡単には崩れず、幕府?諸藩軍側にも多くの戦死者、負傷者が出ましたが、それでも軍は攻撃の手を緩めませんでした。
そしてついに原城は陥落し、一揆軍の大將、天草四郎時貞はその首を討ちとられて戦死。ここに島原?天草一揆は終焉します。

この一揆の後味が悪いところは、この最後の総力戦で一揆軍は全員が討ち死にしたこと。たった一人、総大將である天草四郎の側近で最後には幕府軍に寢返った山田右衛門作を除いて、女性?子どもの區別なく全員です。

原城は「信仰の自由」を夢見て散っていった一揆軍の戦死者たちで埋め盡くされ、多くの血が流れた場所なのです。

【世界遺産】原城跡と島原?天草一揆が日本に與えた衝撃

一揆軍のせん滅によって終結した島原?天草一揆。この江戸時代始まっての大事件は、その後の日本、江戸幕府にどのような影響を與えたのでしょうか。
もちろんこの事件はその後の江戸幕府の方針を決定づけるほどに大きな影響を與えています。

その影響の1つ目が、キリシタンの更なる徹底した取り締まりです。この事件の後、江戸幕府は「宗門改役」というキリシタン禁制を指揮する新たな役職を設置します。
そして1659年から1671年にかけて、諸藩に対して五人組、檀那寺、宗門改役の設置を指示し、全國の諸藩が仕組みとしてキリシタンを表面上ゼロにする體制を作ったのです。

2つ目の影響は、「鎖國」の完成です。1639年に江戸幕府はポルトガル船の入港を完全に禁止し、ここに江戸幕府の鎖國體制がスタートすることになります。
ポルトガル船の排除はもちろん、南蠻貿易による宣教師の入國を排除する目的によるもの。

このようにして島原?天草一揆をきっかけとして、17世紀後半にかけて表面上、日本からキリシタンが排除されていくことになりました。「表面上」の排除、これによってキリシタンたちは信仰を続けるうえで「潛伏」せざるを得なくなったということです。

 

いかがでしたでしょうか。
島原?天草一揆から始まるキリシタン禁制の時代は間違いなく日本のキリシタンにとって苦難の時代であったと言えます。一方で、この事件ではキリシタン百姓による寺社の襲撃が行われたことも事実で、物事の表と裏を見なければ歴史上で何が起こったのか、そして目の前で起こっていることを正しく「知る」ことにはつながりません。

島原?天草一揆は、「信仰」という人間のあり方、魂の根源に繋がるものが一つのテーマとなった事件であり、「信仰の違い」によって多くの血が流れ、命が奪われた出來事でもありました。「多様性」が叫ばれている現在において、私たちがこの歴史上の出來事から感じること、學ぶこと、考えることは特に多いのではないでしょうか。

 

(參考:「潛伏キリシタン」大橋 幸泰 講談社學術文庫、「島原の亂」神田千里 講談社學術文庫、「天草四郎と島原の亂」 鶴田 倉造 熊本出版文化會館、「島原?天草の亂」煎本 増夫 新人物往來社)

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世界遺産検定マイスター:難易度、合格率は?最短合格のための勉強法とコツを大公開! http://www.huge-dicks.com/https-tryxtrip-com-sekaken_meister-11050.html http://www.huge-dicks.com/https-tryxtrip-com-sekaken_meister-11050.html#respond Mon, 09 Aug 2021 02:30:32 +0000 http://www.huge-dicks.com/?p=11050 Copyright © 2021 みんなの一人旅 All Rights Reserved.

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2020年9月に受験した世界遺産検定2級から同年12月の1級、そして2021年7月の世界遺産検定マイスターに最短合格した経験をもとに、マイスターに関する基本情報から、合格するための攻略ポイント、勉強法をご紹介します!

世界遺産検定マイスターの難易度は?合格率はどのくらい?

マイスターと1級、どちらが難しいか

世界遺産マイスターを受験するためには、世界遺産1級に合格している必要があります。ここでは、世界遺産マイスターを受験される方はすでに世界遺産検定の概要や試験の制度について十分な知識をお持ちであると思われるため、基本的な事項についての説明は省略します。

世界遺産マイスターの特徴は何といっても世界遺産検定の中では唯一の論文式の試験であることです。
マイスターの試験は、「世界遺産の理念や世界遺産條約」と「世界遺産に関する出來事、時事問題」に対する総合的な理解力を問うものであるため、純粋に1級と比較することはできません。

ですが、1級がどちらかというと「テキストに書かれた知識」を覚える試験であるのに対し、マイスターは「世界遺産に対する自分の考えが試される」試験なので、どちらが難しいと感じるかは人それぞれ違うと思います。

割り切って暗記が必要な部分もありますが、1級に比べると覚える量は格段に少ないマイスター。問われるのは世界遺産に対する自分なりの考え方であり、どんな事にも共通することですが、世界遺産に興味を持ち、日常で世界遺産のニュースをチェックされている方であれば、1級を合格されて基本的な知識は身についている以上、自ずと合格の可能性も高くなるでしょう。

ちなみに、筆者の場合はマイスター試験への対策と準備に費やした時間は、1級に比べて格段に少なかったです。

マイスターの試験內容と合格率

マイスターの試験內容はすべて論述式の問題で全3問、時間は120分になります。

問題內容も毎回出題傾向はほぼ同じで、下記の通りです。

問題①:世界遺産制度に関する定義を問う問題(3つ)
問題②:世界遺産條約に関して、指定された4つのキーワードを使って400字以內で説明する
問題③:世界遺産に関する出來事や課題などに関して1,200字以內で論じる

世界遺産検定の公式ページによると、合格基準點は20點満點中の12點、つまり6割となっていますが、注意すべきは問題①?②で6點、問題③で6點以上を獲得していなければ、足切りにより不合格になってしまう點です。

このため、比較的試験対策が容易な問題①と②で満點に近い點數が取れたとしても、問題③で全く見當違いな解答をして點數が伸びなければ不合格になってしまいます。

また、上記の點數配分から考えると、20點満點は問題①と問題②で10點、問題③に10點が配分されていると考えられ、やはり最も論述のボリュームが多い問題③をいかに攻略するかがマイスター試験に合格するための最大のポイントです。

準備を萬全に!マイスター試験當日の流れ

試験の進み方

世界遺産検定では唯一の論述式試験ということもあり、當日の試験の流れがどのように進むのか、気になる方も多いのではないでしょうか。

ここでは簡単に試験當日の流れをご紹介しておきます。

試験開始時間20分前ぐらいから試験會場の教室が開場になるため、受験番號の書かれた座席に著席して、試験が始まるまでにアンケート用紙への記入を済ませ、筆記用具等の準備をして待ちます。

試験開始10分前になると試験官から説明と、問題用紙?解答用紙が配布されますが、ここで気を付けて頂きたいのが解答用紙と合わせて下書き用紙も配布されること。

問題用紙はA4サイズ1枚、問題用紙と解答用紙はそれよりも大きいB4サイズほどの大きさの紙がそれぞれ2枚ずつ配られます。(すみません、解答用紙の大きさが曖昧です。。)
ですので、問題用紙を含めると配布される紙は全部で5枚。

このうち解答用紙には受験番號を記入する欄があり、配布されたら記入して紙を裏返しにして試験開始の合図を待ちます。

そこから試験官の時計をベースに2時間の試験に臨むことになりますが、マイスター試験に関しては途中退出が認められていません。ですので、たとえ早く解答が終わっても試験終了まで座席に著席していなければなりません。

試験10分前ぐらいになると試験官から殘り時間のアナウンスがされます。

試験での注意點

世界遺産検定では唯一の論述式試験であること、また最難関の試験でもあり、少なからず試験當日は皆さん緊張されることと思いますが、だからこそ気を付けて頂きたい事項を強調しておきます。

下書き用紙と解答用紙を確認すること!

下書き用紙と解答用紙は同じ大きさで2枚ずつ配られること、また試験が始まると時間との戦いであり、頭の中で組み立てた解答を解答用紙に書いていくことで頭がいっぱいになるかと思います。

そんな中で解答用紙だと思って書いていたら実は下書き用紙に書いてしまっていた、、ということが起こっても不思議ではありません。仮に途中でそのことに気付いたとしても、また1から解答用紙に答えを書いていかなければならず、その時間ロスは相當なものになってしまいます。

解答を書くときは必ず下書き用紙ではなく解答用紙に書いていることを確認してから、答えを書くようにしましょう。

正しい時間配分で進められるかが合否を分ける!腕時計は必ず持參しよう

筆者はこれまで試験で時間が足りなくなることはなかったため、マイスターの試験當日も時間を確認するための腕時計を持參しませんでした。
そして、試験會場の教室內にも壁掛け時計は無いものと思ってください。

そうすると、當たり前ですが腕時計が無ければ2時間の試験を時間配分を考えて進めることができません。

マイスター試験は論述試験であり、問題①と②はある程度萬全の準備対策ができる一方、問題③に関してはその場で問題を読み、すぐに論述する解答の段取りを考えなければなりません。

後ほど詳しくご紹介しますが、問題③の解答は1,200文字。初めて見る問題に対してまず何を書くか、そしてそれをどのような流れで書くか、さらにそれぞれの段落で何文字程度書くべきか、これらを瞬時に決めることはよほどの訓練を積んでいなければほぼ不可能です。

そのためにも、2時間の試験時間の內、どれだけの時間を問題③に費やし、さらにその中で解答の主旨と組み立てを練る時間、各段落の文字數に満たす內容のドラフト、最後に解答用紙への清書の時間配分をどのようにすべきかを予め考えておくことは非常に重要で、試験本番もその時間配分に沿って解答を進めていくようにしましょう。

筆者は腕時計を持參しなかったため、あとどのくらい時間が殘っているのか全く分からず、問題③では思ったように文字數を埋めることができずに最初から修正するべきか、でも修正している間に時間が來たらどうしよう、、とかなりピンチな狀況でした。

下書き用紙と解答用紙

マイスターの試験は問題②が400文字以內、問題③が1,200文字以內と指定があり、解答を準備する時には文字數に気を配る必要があります。

ちなみに、解答用紙は問題②と問題③に関しては文字數が把握しやすいようにマス目になっているので、その點はご安心ください。

2枚の下書き用紙もマス目が入っており、下書きも文字數を確認しながら利用することができるのですが、解答用紙と問題用紙のマス目は微妙に異なっている點に注意が必要です。

こちらもうろ覚えで恐縮ですが、下書き用紙のマス目は1行30文字なのに対し、解答用紙のマス目は問題②、③のマス目の1行の文字數はそれと違っていたはずです。

問題①を攻略する!勉強法と対策

それでは具體的に各問題の攻略法と勉強法、対策方法をご紹介していきます。
なお、マイスター試験の問題概要については世界遺産検定の公式ページにて過去の問題について「講評と學習方法」が公表されていますので、必ずこちらも合わせてご參照ください。

問題の概要と出題形式

第1問は、世界遺産に関する語句を「簡潔」に説明する問題です。

問題文は「簡潔に説明しなさい。」としか記載されていませんが、世界遺産検定のホームページにて公表されている講評によると、「50文字以內」と具體的な文字數制限が記載されていますので、必ず50文字以內に収まるよう解答することがポイントです。

先ほど、試験の流れで問題用紙について少しふれましたが、問題①に関しては解答用紙の解答欄にマス目は表示されていませんので、文字數については必ずご自身で確認する必要があります。

勉強方法と対策

基本的な勉強?対策方針

問題①の勉強方法としては、割り切って世界遺産に関する語句の定義を暗記するしかありません。

基本的に出題される語句は、そのほとんどが世界遺産検定1級の公式テキスト(上)の「世界遺産の基礎知識」に出てくるものですので、勉強と対策は1級の公式テキストを利用して進めるようにしましょう。
余裕のある方は同じく世界遺産検定1級の公式テキスト(上)(下)のコラム、特に危機遺産や絶滅危懼種、無形固定資産などもしっかりチェックして語句を50文字以內で説明できるようにしておくと良いです。

おそらく受験者のほとんどが行っている勉強方法と同じですが、基本的な勉強?対策方針は下記の通り。

ポイント

①「世界遺産の基礎知識」に出てくる語句をリストアップし、それぞれを50文字以內で説明する解答をワードやエクセルで準備
②準備した解答をひたすら繰り返して暗記する
③準備した解答についても、勉強や対策を進めていく中でその內容をブラッシュアップしていく

合格點を取るためのポイント

勉強方法と対策は非常にシンプルな問題①ですが、合格ラインに達する點數を確実に取るための準備というのは意外と苦労するかもしれません。
というのも、「50文字」という限られた文字數で「キーワード」を外さずに問われている語句を説明する、というのはなかなか一筋縄ではいかないためです。

具體例を挙げてみます。「世界遺産基金」について考えてみましょう。
世界遺産検定1級公式テキスト(上)「世界遺産の基礎知識」のセクションを読んでみると、世界遺産基金について概ね下記のような説明が記載されています。

?ユネスコの財政規則に基づき1976年に設立された信託基金
?世界遺産條約締結國のユネスコ分擔金の1%を超えない額の拠出金の他、政府間機関や個人からの拠出金などを財源としている
?世界遺産條約締結國は2年に1度、拠出金を支払わなければならない
?世界遺産基金への拠出金支払いが遅延している締結國は、世界遺産委員會の委員國に選出される資格がなく、緊急援助以外の國際的援助も受けることができない
?世界遺産基金は世界遺産委員會が決定する目的にのみ使用することができる
?世界遺産基金の拠出に際して、いかなる政治的條件をつけることもできない
?世界遺産基金の運用基準は緊急援助、準備援助、保全?管理援助に區分される

1つの語句の概要だけでもこれだけのボリュームがあるなか、端的に50文字で説明するためには含めるべき「キーワード」を取捨選択する必要があるのですが、これがなかなかに難しいです。

ちなみに、「世界遺産基金」を問う問題は過去に出題されており(出題される語句は限られているので、數年に一度出題される)、講評によると、上記の概要の中で必ず含めるべきキーワードとして下記の2點が挙げられています。

?ユネスコの財政規則に基づき設立された信託基金
?世界遺産基金は世界遺産委員會が決定する目的にのみ使用することができる

いかがでしょうか。正答に近い解答が出來ましたでしょうか。

このように、50文字以內に解答をまとめる時にどのキーワードを含めるべきか、それを決めるポイントとして筆者が考えるのは下記のポイントです。

ポイント

?そもそもその語句は何のため(目的)にあるものかを考える
?その語句を何の基礎知識もない人に説明することを想定した時に、用意した解答で概要を理解してもらえそうか。特に、「???それで?」という反応をされそうな解答になっている場合は、その語句の周辺や細かい點だけが説明されていて、「核心部分」の説明になっていない可能性が高い

先ほどの「基本的な勉強?対策方針」のポイント③にも記載していますが、問題①に関しては一通り解答を準備出來たとしても、必ず暗記やその他の勉強の中で絶えず見直しを行い、必要に応じてブラッシュアップしていくようにしてください。
キーワードを少し変更したとしても、それまで暗記した內容が無駄になる事はなく、1から暗記するよりもはるかに簡単に暗記できるはずなので、「暗記してしまったから今さら解答を変えたくない!」という考えは捨てましょう。

問題②を攻略する!勉強法と対策

問題の概要と出題形式

問題②は世界遺産條約の內容を、指定された4つのキーワードを使用して400文字以內で説明させる問題です。

筆者個人としては問題①よりも問題②の方が確実に合格點が獲得しやすい問題と考えており、こちらはぜひ確実に試験対策をしてほしい問題になります。

問題②については400文字以內、という文字數が指定されているため、解答用紙の解答欄もマス目が用意されています。最終問題の問題③では、解答の記載方法にも段落分けなど気を付ける必要がありますが、問題②については文字數も限られており、段落等気にする必要はありません。
通常の長文解答の要領で解答しましょう。

1點注意點として、指定された4つのキーワードを文中で用いる必要がありますが、キーワードを記載した部分については「下線を引きなさい」と問題文に指示がありますので、こちら必ず忘れないように下線も引いてください。

勉強方法と対策

基本的な勉強?対策方針

問題②に関しても基本的には問題①と同様、世界遺産検定1級の公式テキスト(上)の「世界遺産の基礎知識」のセクションを読んで勉強を進めていくことになります。

が、実はこの方法での勉強をずっと続けることはあまりお勧めしません。

というのも、問題②で問われているのはあくまでも「世界遺産條約」についてであって、指定されている4つのキーワードの內容が聞かれているわけではないからです。世界遺産検定の公式ページで公開されている講評でも「指定された語句を羅列しただけでは點にならない」と明確に記載されています。

この點、「世界遺産の基礎知識」は世界遺産條約の內容に沿って説明がされているわけではなく、逆に世界遺産條約の內容が各論點に區分され、その論點に関する詳細な説明が項目に分けてなされている構成になっています。
このため、テキストを読んでいても、世界遺産條約とどのように関連しているのか、が摑みにくいのです。

例えば、問題②の過去問で4つの指定キーワードに「報告」というキーワードが含まれていたことがあります。
「報告」という言葉があまりにありきたりすぎて、このキーワードをどのように使用すればよいのか戸惑う方も多いのではないでしょうか。

ですが、世界遺産條約の原文を読むと「Ⅶ 報告」というセクションがあり、このセクションに記載されている條文の內容をベースに解答すればよいことが分かります。

ですので筆者おすすめの勉強法としては、下記の通りです。

ポイント

①問題①の対策と合わせて公式テキストを読み込む
②「世界遺産條約」そのものの條文原文(日本語訳したもの)を読み、その構成と各條文の內容とテキストの內容を紐づけて考える
③キーワードごとに世界遺産條約を説明するための文章を個々に準備しておき、4つのキーワードで上手く文章を組み立てる

合格點を取るためのポイント

問題②は問われていることにきちんと答える勉強対策をしていれば、高い確率で合格ラインの得點を獲得できるはずです。合格點を取るためのポイントとしては、先ほどご紹介した基本的な勉強?対策方法の③が合否の分かれ目になるでしょう。

4つのキーワードをいかに上手く使用して世界遺産條約について説明するか、一見難しいと感じられるかもしれませんがコツを摑んでしまえば実はどのようなキーワードの組み合わせであってもある程度簡単に対応することが可能です。

そのコツ、というのは「世界遺産條約」が作られたそもそもの「目的」が何だったのか、を常に頭に入れておくこと。なぜこれが重要かというと、當然世界遺産條約の各條文は、この目的を達成するために必要だから組み入れられたものだからです。

言い換えると、「4つのキーワードは世界遺産條約の目的を達成するためにどのように機能しているか、なぜ必要なのか」を解答していけば良いのです。

もう少し具體的にご説明しましょう。

世界遺産條約が何のために作られたか、それは

「地球上の重要な文化遺産や自然遺産を新たな脅威から守り、これを次世代に伝えていくための國際的な協力の枠組み」

の構築です。

この目的に対して、5W1Hに即してキーワードを関連付けると下記の通りになるかと思います。

ポイント

條約の対象となる遺産(What):世界遺産、顕著な普遍的価値
條約の遂行者(Who):世界遺産委員會、世界遺産締結國會議など
條約の目的をどのように達成するか(How):世界遺産基金の設定、教育?広報活動など

このように、指定されたキーワードがいかに世界遺産條約の目的に関連しているかを分かるように解答文案を組み立てれば、間違いなく合格點に達するはずです。

ちなみに筆者は、どのようなキーワードの組み合わせであっても必ず冒頭に世界遺産條約の目的について説明する文案を入れていました。

どのような文案にするかは皆さんそれぞれ異なるかと思いますが、講評にも記載されている通り、指定された文字數の8割、つまり320文字以上は記載するようにしましょう。

問題③を攻略する!勉強法と対策

問題の概要と出題形式

世界遺産検定マイスターが最難関であるのは、問題③の論文式問題のためといっても過言ではなく、問題①?②はある程度対策と勉強方法があるのに対し、この問題③に関しては世界遺産に対する総合的な知識と考えが求められます。

問題內容としては世界遺産を取り巻く時事問題に関して、具體的な事例を挙げながらその是非を論じるものになります。
過去問をみても、新型コロナウイルスの影響やオーバーツーリズムなど近年特に取り上げられることの多いトピックに関する問題が出題されているため、常に世界遺産に関するニュースや時事問題をチェックし、知識をアップデートしておくことが必要です。

解答は1,200文字以內とされており、解答用紙まるまる1枚を使って解答を記載していくのですが、解答用紙にはマス目が記載されているため、文字數カウントはあまり気にしなくてよい點はご安心ください。

勉強方法と対策

基本的な勉強?対策方針

世界遺産に関する時事問題からの論述式の問題のため、効果てきめんな勉強法や対策というのはなかなか難しいですが、下記の準備はしておきましょう。

ポイント

①日本から新たに世界遺産登録に向けて推薦され、世界遺産委員會で決議予定の推薦遺産について調べる
②直近の世界遺産委員會での決議內容や議論內容を調べる
③日本の世界遺産が抱えている課題や問題點を調べ、自分なりの意見を用意しておく
④日本だけでなく世界の世界遺産に関して起こっている出來事やニュースに目を通しておく
⑤特に有名な世界の世界遺産が抱える課題や問題點を調べ、自分なりの意見を用意しておく

1級までの世界遺産検定同様、マイスターの試験においても日本の世界遺産に絡めた問題というのはこれまでも出題されています。ですので、まずは推薦遺産も含めて日本の世界遺産について改めてテキストを読み直し、またネット検索などを通じて日本の世界遺産が抱えている課題について把握しておきましょう。

①日本から新たに世界遺産登録に向けて推薦され、世界遺産委員會で決議予定の推薦遺産について調べる

2021年の世界遺産委員會にて登録が決定しましたが、日本から推薦されていた「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島(奄美?沖縄)」と「北海道?北東北の縄文遺跡群」について、単にその內容を調べるだけでなく、例えば下記事項にも留意していろいろな側面からこれらの世界遺産を考えてみてください。

?「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島(奄美?沖縄)」は日本の自然遺産では唯一(ⅸ)が認められず、(ⅹ)のみでの登録となっている。
?「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島(奄美?沖縄)」は1回目の世界遺産推薦ではICOMOSから「登録延期」勧告を受け、申請を取り下げた経緯がある。→ICOMOSから指摘された課題、問題點は?
?「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島(奄美?沖縄)」が抱える課題

?「北海道?北東北の縄文遺跡群」は先史時代の世界遺産であり、グローバル?ストラテジーに沿う世界遺産となっている。
?「北海道?北東北の縄文遺跡群」はその構成遺産の所在地、內容からシリアルノミネーションとなっている。
?「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島(奄美?沖縄)」が抱える課題

②直近の世界遺産委員會での決議內容や議論內容を調べる

年に1回開催される世界遺産委員會では、世界遺産の登録審議以外にも多くの議論が交わされることになります。特に注目を集める議題がある場合には事前にニュースになる事も多いため、こまめにニュースなどをチェックするようにしましょう。

例えば、2021年の世界遺産員會ではオーストラリアの自然遺産、「グレート?バリア?リーフ」の危機遺産リスト入りが決議される可能性があるということで、保有國のオーストラリアが強く反発を示すなどニュースにも多く取り上げられていました。

このニュースを通じて、

?「グレート?バリア?リーフ」が抱える課題と問題點(自然破壊とオーバーツーリズム)
?危機遺産への登録を巡る是非と対立

といった論點が浮かび上がってくると思うので、それぞれについて內容と自分なりの考えをしっかり持っておくようにしましょう。

③日本の世界遺産が抱えている課題や問題點を調べ、自分なりの意見を用意しておく

日本の世界遺産は2021年現在、まだ1件も危機遺産に登録されているものはありません。ですが、課題や問題が全く無いというわけではなく、それぞれの世界遺産が少なからず課題を抱えています。

日本の世界遺産が抱えている課題については、世界遺産検定1級の公式テキストでも簡潔に紹介されているので、そちらを參考にしながら、それぞれの世界遺産のホームページや取り組み事例などを調べてみましょう。

④日本だけでなく世界の世界遺産に関して起こっている出來事やニュースに目を通しておく

世界の世界遺産に関する出來事はなかなか大きくニュースで取り上げられることは少ないですが、「世界遺産アカデミー」のホームページでは毎日のように世界遺産に関するニュース記事のリンクを更新しているので、こちらは是非目を通してみてください。

⑤特に有名な世界の世界遺産が抱える課題や問題點を調べ、自分なりの意見を用意しておく

特に人気の世界遺産、例えば「ヴェネツィアとその潟」や先ほどもご紹介した「グレート?バリア?リーフ」、殘念ながら火事で損傷を受けたフランス?パリの「ノートルダム大聖堂」などもやはりオーバーツーリズムや自然環境破壊、災害からの修復といったそれぞれの課題を抱えています。

重要なことは、「具體的な事例」を自分の引き出しとして貯めておくことと、世界遺産が抱えている課題に対して自分ならどのような対策を考えるか、というのを常に自問自答しながら記事やニュースを読む、ということかと思います。

これ以外にも、世界遺産テキストで紹介されている課題を持った世界遺産は、最新の情報を常に仕入れておくようにしましょう。特にシリアなど紛爭により危機遺産リストに多く登録されている國や、最近ではイスラエルとパレスチナの武力抗爭が激しさを増していることもあり、パレスチナの世界遺産の內容や、緊急的登録推薦という制度の是非についても広げて考えるようにしてみてください。

合格點を取るためのポイント

基本的な勉強?対策方法を踏まえたうえで、問題③で合格點を取るために重要なことは、以下の2點です。

ポイント

①論述式特有の解答方法を身に付ける
②自分の「引き出し」を上手く利用する

下記は筆者がこれまでの過去問を基に作成した仮問です。

「近年、世界遺産の登録數が増加する一方で、経済的な理由からその保護?保全が困難な狀況にある世界遺産の増加が問題となっている。このような問題に対してどのような対策が考えられるか、具體的な遺産の例を取り上げながら、1,200字以內で論じなさい。」

皆さんはこの問題に対してどのように解答を組み立てますか?

留意すべきポイントは、単に「考えられる対策」と「その具體的な事例」だけを述べても合格點には到達しないということです。

確かに問われていることは「どのような対策が考えられるか」ということなのですが、「論ずる」というのは単に考えと事例を列挙することではありません。

上記の問題に対する解答ですと、例えば下記のような組み立てが考えられます。

問題の概要と背景を記載:
世界遺産基金の拠出金が限られており、世界遺産が増加すると1つ當たりの遺産に割り振られる基金は減少していく一方、世界遺産の登録に上限は無い(1回の世界遺産委員會での検討數は上限アリ)ため、その持続可能性が課題となっている。

問題に対する対策の概要を説明:
世界遺産はそのネームバリューもあり、近年では観光資源として有効活用されている。世界遺産を有効な観光資源として活用することで、その収入を保全?維持に充てることが可能になり、世界遺産基金に頼らず持続可能な保全が確立できる。

具體的な事例を説明:
ブウィンディ國立公園は世界的にも有數のマウンテンゴリラの生息地であり、近年ではそのトレッキングツアーが人気を博し、観光収入の増加により國立公園の維持だけでなく、管理スタッフの人件費も賄われている。

具體的な事例の課題も説明:
一方、観光業が盛んになることでブウィンディ國立公園の周辺の開発が進み、多くの住民が生活をするようになったが、それによりマウンテンゴリラの生息地の開発問題や、マウンテンゴリラへの伝染病リスクが高まるなどの懸念も出ている。

結論(総括):
以上のことから、今後個々の世界遺産の価値を上手く経済的価値に結び付けていくことが重要であり、観光資源としての世界遺産の可能性を考えることは有効である。そのためには、世界遺産の観光資源としての価値を十分に検討するとともに、周辺地域に住む地元住民の協力が必要不可欠である。一方、オーバーツーリズムの問題が引き起こされる可能性があるため、経済的なインセンティブだけでなく持続可能性の観點からも検討が必要と考える。

いかがでしょうか。
問題③の解答で重要なことは、問われていることの解釈を踏まえ、「なぜ自分の考えが妥當であるのか」が伝わるように順序立てて説明することです。

さらに、形式面でも問題③に対する講評で述べられているように、「改行」「段落の頭下げ」といった形式面とこちらも8割以上の文字數(つまり、960文字)は必ず守るようにしましょう。

 

また、上記のように上手く論述の組み立てが出來たとしても、論じる「ネタ」が無ければ解答のしようがありません。そのためにも、少しでも多くの「ネタ」を使えるように自分の引き出しに蓄えるようにしましょう。

世界遺産が抱えている問題やキーワードというのはそれほど多くありません。それぞれに対して、近年の取り組み事例を1つないし2つ知っておくと、まず解答の「ネタ」に困ることは無いはずです。

以下は一例ですが、世界遺産が抱えている問題について自分なりに具體例と考えをまとめてみてください。

?オーバーツーリズムの問題と解決策
?緊急的登録推薦制度の問題點
?アップストリームプロセスの長所と問題
?世界遺産をSDGsの取り組み
?自然遺産保護と経済対策の両立のあり方
?ICOMOSやIUCNの諮問機関による事前評価と世界遺産委員會での決議內容の乖離
?グローバルストラテジーの取り組み
?都市景観と開発問題

 

いかがでしたでしょうか。
おそらくマイスター試験を受験される方は世界遺産に興味を持ち、世界遺産好きな方ばかりだと思うので、是非試験対策と合わせてより世界遺産について知識を深め、マイスター試験の合格を勝ち取ってください!

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【世界遺産】舊グラバー邸を100倍楽しむために知っておきたいトーマス?グラバーと明治日本の物語 http://www.huge-dicks.com/wh-nagasaki-glover-history-11028.html http://www.huge-dicks.com/wh-nagasaki-glover-history-11028.html#respond Mon, 26 Jul 2021 01:00:01 +0000 http://www.huge-dicks.com/?p=11028 Copyright © 2021 みんなの一人旅 All Rights Reserved.

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世界遺産、明治日本の産業革命遺産の構成遺産の一つ、舊グラバー邸。この邸宅の主だったトーマス?グラバーは、日本が明治維新の開國から歐米列強に肩を並べるまでの急成長に大きな影響を與えた人物です。吉田松陰が精神的な影響を與えた人物とすれば、グラバーは経済的な影響を與えた人物と言えるでしょう。
今回はあまり良く知られていない、グラバーと明治時代の日本の物語をご紹介します!

グラバーはなぜ日本にやって來た?

グラバーの出身地

トーマス?グラバー(Thomas Blake Glover)は1838年、スコットランドの北方の町、アバディーンの近くのフレーザーバラという漁村で生まれました。

アバディーンはスコットランドでも比較的大きな都市であり港町でもあった事から、貿易も盛んな街で、グラバーは造船や航海による貿易を身近に感じることができる環境で育つことになります。
これはグラバーが日本に來た後のビジネスにも大きな影響を與えています。

ちなみにグラバーは七男一女の大人數の兄妹の中で5番目の男の子として生まれました。

上海での下積み時代

青年になったグラバーは、當時からすでに貿易を通じて頭角を現していたジャーディン?マセソン商會で働くことになりますが、ここで著実に結果と実績を殘す働きぶりを見せ、會社からも信頼を得ていました。
ビジネスマンとしての素質はすでに若いころから持っていたのでしょう。

當時、日本よりいち早く開國していた中國(當時は清)にイギリスやフランスといったヨーロッパ諸國が新たなビジネス取引を求め、欲望に満ち溢れ一攫千金を狙う血気盛んな実業家たちが多く上海に渡っていました。

その見込みを買われたグラバーは、1856年、18歳の時にジャーディン?マセソン商會の命を受けて上海に派遣され、そこで絹?茶?アヘンを主力商品とする自由貿易を推し進め、利益追求に明け暮れます。

グラバーと同じように英國から上海に自由貿易のビジネスチャンスを摑みにやってきた商人たちの一部は、自らもアヘンに身を染めていく者たちも多く、グラバーはお酒には溺れたもののアヘンには手を出しませんでした。
この辺り、グラバーの育ちの良さと自らを律する強さを持っていたことがうかがえます。

そんな中、上海の商人仲間の間で、上海のさらに東にまだ未開の國があるとのウワサが流れ、まだ見ぬ國に新たな商機を考えたグラバーはその話を徐々に真剣に考えるようになります。
この未開の國、というのはもちろん日本のこと。當時英國をはじめとするヨーロッパ諸國にとって、遙か極東の日本に関する情報はほとんど流れておらず、そこはまさに未知の國だったのです。

そして時は1858年、日本の江戸幕府は安政の五か國條約というアメリカ?オランダ?ロシア?イギリス?フランスとの不平等條約の締結を余儀なくされ、ついに鎖國が終わりその門戸が海外に向けて開かれることになりました。

これにより翌1859年、グラバーは長崎へと足を踏み入れ、ここから彼はその人生の大半を日本で過ごすことになります。

 

このように、グラバーが日本の長崎にやって來た理由、それはとてもシンプルで、日本が開國したことによりやがて盛んになる自由貿易による利益の追求ということになります。
グラバーがその生涯をかけて行ったことは結果的に日本の開國と近代化を推し進める要因になり、確かにグラバーが日本に殘した功績というものは測り知れないほど大きいのですが、彼が「日本のため」を常に考えて行動していたかというと、むしろビジネスによる実利を追い求めた結果という色合いが強い點は頭に入れておくとよいでしょう。

ですが、現在のビジネスでも將來に対する正しい大局観を持つことがその成否を分けるように、グラバーは明治維新の激動の時代の中で、その流れと趨勢を適切にくみ取り、上手くその波に乗ってビジネスを行う才を持っていたことは確かと言えます。それを順を追ってご紹介します。

グラバーの波亂萬丈人生①:長崎でビジネスに大成功

1859年の日本はどんな時代?

グラバーの日本での活動をご紹介する前に、彼が日本?長崎にやって來た頃の日本の情勢を簡単にご説明しておきます。

先ほどご紹介した通り、前年の1858年に江戸幕府は安政の五か國條約を締結し、それまでの鎖國體制が瓦解して自由貿易を余儀なくされます。この流れはもちろん、1853年のペリーによる黒船來航から始まる一連の外圧に江戸幕府が屈した結果であり、200年以上ほとんど海外との関係を斷ってきた日本は當時大混亂に陥っていたことでしょう。

この外國からの圧力によって露呈してしまったのは、日本の技術が西洋諸國に到底及ばないものであるという明らかな力の差だけでなく、當時日本の政府として機能していた徳川幕府の影響力の低下です。

徳川幕府の求心力の低下と突然現れた外國からの脅威で日本國內に急速に広がった考えの一つが、尊王攘夷思想です。これは簡単に言ってしまえば、対外強硬姿勢と言えます。
「我々の國、日本こそが最も優れた民族、國であり、外國からの支配や影響を排除しよう。」という考え方ですね。

複雑なのは、この尊王攘夷思想は決して一枚巖だったわけではなく、この考えを持つ人の中にも、反幕府體制、つまり倒幕を目指して政権交代を目指そうという思想を持った人と、あくまでも徳川幕府に味方する人との間でも激しい対立が生じていました。

ここから明治維新までの大まかな流れを簡単にまとめておくと、下記の通りです。

?尊王攘夷思想による対外徹底抗戦の広がり(ただし、反幕府派 vs 徳川幕府での対立あり)

?西洋諸國にコテンパンにやられ、その技術を積極的に取り入れようという開國への傾倒

?開國に向けて突き進みながらも、政権掌握を巡り徳川幕府と討幕派で衝突

?大政奉還、王政復古の大號令、戊辰戦爭を経て徳川幕府が滅び、明治天皇による新政府の樹立

これからご紹介するグラバーのお話は、この大きな流れを念頭にお読みいただくとよりご理解頂けるかと思います!

グラバー商會立ち上げ

グラバーは長崎に來てから、まずは一足先に長崎で事業を展開していたマッケンジーという同じジャーディン?マセソン商會の代理としてビジネスを行っていた人物の事務手伝いをしながら仕事を始めました。

このマッケンジーという人物は、安政の五か國條約によって長崎が正式にイギリスなどに門戸を開放する以前から長崎に入り込んでいた人物で、攘夷派の風潮も強まっていた當時に日本に乗り込むというのは相當勇気と覚悟がいるか、もしくは向こう見ずな性格でないとできることではありません。

グラバーも長崎に來てからしばらくは、侍を中心に交流を広げつつも、常に攘夷派からいつ襲撃されてもおかしくないという危険と隣り合わせだったため、適度な距離を保ちながらの活動を行っていました。

そんな中、マッケンジーが急遽上海に戻ることが決まり、グラバーは彼の後を引き継ぐ形で、日本におけるジャーディン?マセソン商會の代理人として獨立して事業を行うようになります。1861年のことです。
そしてその後、正式にグラバー商會という會社を立ち上げました。

外國と攘夷派の衝突

グラバーを始めとして、長崎の出島に出來た外國人居留地には自由貿易を求めて多くの外國人が住むようになります。土地としても明確に區切られたエリアであったものの、海外から長崎にやって來た商人たちと攘夷派の武士たちは日常の中でも衝突することは珍しいことではありません。

攘夷派が外國人たちを煙たく思うのはその思想から來るものですが、一方の外國人たちも、グラバーが長崎にやって來た1859年ごろはまだ自由貿易というのにはほど遠く、日本國內の様々な法やルールのしがらみに縛られる狀況の中で思うようにビジネスができず、不満がたまっていたのです。

ですが、突発的に起こった衝突が日本を揺るがす戦爭の火種になった事件もいくつかありました。それをご紹介しましょう。

外國人排斥運動(1859年)

先ほどお話ししたように、自由貿易が何かと妨げられたいたことに不満を感じた外國商人たちは、英國など自國政府に訴えて日本の周りに配置していた戦艦からの威嚇砲撃を行いました。

これで大人しくなるかと思っていたところ、全くの逆効果になり、攘夷派の武士たちが大激怒。各地で西洋館や教會等への襲撃事件がエスカレートし、長崎の居留地にいた外國人たちもいつ襲撃されるかという恐怖に悩まされる結果になりました。

生麥事件(1862年)と薩英戦爭(1863年)

こちらも些細なきっかけが大問題に発展した事件です。

薩摩藩の大名が江戸からの帰りに生麥村辺りに差し掛かったとき、馬に乗った英國の商人の一行と鉢合わせします。
當然大名行列に対する禮儀を知らない英國の商人たちは、馬に乗ったまま行列の中を逆行し、薩摩藩の家來たちから注意?威嚇を受けるも理解することができません。

ついに大名が乗っている籠に近づいた當たりで、さすがに英國人たちも何かまずい空気を察したのも時すでに遅し、薩摩藩の家來たちに切りかかられ、英國人の內一名は切り殺されてしまいました。
殘りの英國人たちはとっさにその場から逃げ出し、領事館に助けを求めて駆け込みました。

この事件の一報を聞いた英國は大激怒。日本(徳川幕府)と薩摩藩に犯人の処刑と罰金の支払いを求めたものの、幕府?薩摩藩ともに明確な返事をせず、特に薩摩藩は対抗姿勢を見せたため、翌年に薩英戦爭が勃発。
ちなみに、幕府と薩摩藩もこの時は腹の內を互いに探っているような狀況で、お互いに罰金を支払うことであわよくば弱體化を狙える、という思惑もあったようです。それほで徳川幕府の威信というのが諸藩に通用しなくなり、影響力が弱まっていたということでもあります。

「戦爭」と言っても、英國が軍艦から砲撃を浴びせ、薩摩藩もこれに対抗して砲撃を食らわせる応酬が続いた後、英國軍は沖に引いていきました。

この戦爭により英國軍側に死者が出たものの、薩摩藩も大打撃を受けることになります。そしてこれにより、薩摩藩は西洋諸國との埋めがたい力の差を身を持って體験し、開國して西洋技術を學ぶ姿勢へと転換していくことになるのです。

下関戦爭(1863年~1864年)

薩英戦爭に続き、日本と外國の衝突が長州藩?下関でも勃発します。これは薩英戦爭に危機感を抱いた長州藩が、尊王攘夷を決行に移すべく、下関を通過する外國船に対して砲撃を加えたことで勃発します。

こちらも最終的には長州藩の降伏によって終息し、長州藩には莫大な罰金が課せられることになりましたが、この戦爭をもって長州藩も西歐列強との力の差を認識し、その技術の吸収をするした日本が生き殘る道は無いと考え、開國へと舵を切ることになるのです。

グラバーのしたたかな立ち振る舞い

徳川幕府、尊王攘夷派の薩長と西歐列強。この三つ巴の思惑が交錯する中、グラバーはどのようにビジネスを展開していったのでしょうか。

先ほど少しお話ししたように、グラバーは長崎に到著した後、誰にも屬さない適度な距離感を持ってまずは日本の実情を見極めようとします。そして、その中で徐々に尊王攘夷派の討幕派の志士たちとの距離を縮めていきました。

自由貿易を阻害されている立場として、徳川幕府に不満を有しているという點で討幕派とグラバーは同じ利害関係にあったからです。

もちろん、日本を変えるという熱い意志を持った幕末の志士たちに人として突き動かされた部分もあったかと思いますが、グラバーは彼らと接している中で、近い將來に現在の幕府體制が崩れて開國に傾く可能性を認識するようになります。
そして、日本の開國はより一層の自由貿易の拡大をも見込めるというビジネス上の実利もあるため、グラバーは開國に向けて動く勢力へのサポート?面倒を見るようにもなりました。
今のうちに將來有望な人物に投資をして、將來の日本政府の中樞になった時に大きな影響力を行使できる、という思惑もあったことでしょう。

具體的には浪人たちをかくまったり、西洋の機構體制を教えたり、薩摩や長州藩相手に戦艦の売卻や武器の売卻も行います。

立ち上げ當初は主に茶葉の生産で利益を得ていたグラバー商會ですが、徐々に利益獲得の多くを戦艦や武器の取引から得るようになっていました。

一方で初代首相の伊藤博文や外務大臣を務めた井上馨を含む「長州五人衆」や、五代友厚を含む19名の薩摩藩の使節団を英國に密出國することに関與するなど、西洋思想や技術の取込みにも協力しています。

ちなみに、薩摩藩と長州藩は後に薩長同盟を組み、ともに倒幕を目指すもののそれまでは敵対関係にありました。グラバーはこの薩摩、長州藩だけでなく徳川幕府にも武器や戦艦の売卻を行っています。

一見すると敵対関係にある三者全員と取引を行っており、下手をするとその行為は「裏切り」ともとられかねず、とても危険の伴うものですが、絶妙な立ち位置を築けていたのはグラバーの処世術と人間性の賜物と言えるかもしれません。
だからこそ、グラバーは同じ外國商人の間でも一目置かれたリーダー的存在として見られていたのです。

さらに自國の英國との関係でも、幕府以外の諸藩との取引は禁じられていたものを、グラバーは構わずこれを強行します。

英國からペナルティを受けるかと思いきや、グラバー商會の足元を揺るがすほどの大きな罰則は英國からは無く、黙認されていたようです。おそらく、英國も徳川幕府と関係を築きながらも、その関係が安泰なものではないものを感じ取っていたのかもしれません。

いずれにしても、英國とグラバーの立ち振る舞いはとてもしたたかと言わざるを得ません。結果的にグラバー商會は、日本や諸藩が開國に向かう中で渇望していた西洋の軍事技術をビジネスにすることで大成功を収めたのです。

ですが、この成功から一転、グラバー商會の命運はその後暗転することになります。

グラバーの波亂萬丈人生②:明治維新で一転、破産

一気に膨らんだ債務

日本が開國と倒幕に向けて進む中で西洋の武器取引などで利益を得たグラバー。順調に見えた彼のビジネスも、明治維新により狀況が一変すると一気に窮地に追いやられてしまうことになります。
なぜでしょうか。

まず徳川幕府が倒れ、新しい明治政府が発足して體制が整ってくると、ようやく國內の混亂も収まりを見せ始めます。そうすると、一気に武器の需要が落ち込むことに。

大量の武器在庫を抱えたグラバー商會は一気に不良在庫を抱えることになり、武器の価格も下落してしまいました。

さらに、諸藩に売卻してした代金のツケの回収にも苦労します。それまで契約書のようなビジネス関係ではなく、信用という名のもとに行われていた取引ですから、代金の支払いを遅延したり踏み倒す藩が多かったのです。

また、新政府が発足するとそれまでの封建制度も終焉を迎え、諸藩の土地は明治政府が管理を行うことになりました。これによりあてにしていた不動産による回収も見込むことができず、また政治や経済の中心が東へ移ることにより、長崎の地価も下落、グラバーが保有していた不動産の価値も下がってしまいました。

まさにグラバー商會を取り巻くビジネス環境は一変。ですが、そんな中でもグラバーは弱気になるどころか武器取引に代わる新しい事業への投資に突き進みます。それが、高島炭鉱の開発でした。

高島炭鉱の成功を待たずに破産

グラバーが高島炭鉱の開発に乗り出したのには、當然そこにビジネスチャンスがあったからなのですが、主な理由としてはそれまで燃料となる石炭を海外に頼っており、その輸入コストが高くつくだけでなく、燃料効率も決して良くなかったことにあります。

グラバーは、高島炭鉱の開発により豊富な石炭を採掘することができれば、國內で燃料を調達することができるだけでなく、當時はまだ西洋に比べて安価だった日本人炭鉱夫の人件費を考えれば、石炭の輸出で大きな利益が得られると考えたのです。
実際、高島炭鉱から発掘された石炭は當時西歐で利用されていた石炭よりも質の良いもので、燃料効率もはるかに良いものでした。

ですが、資源開発というのはそう簡単に成功するものではありません。石炭を掘り當て、そこから採掘するとなると、多くの人手と時間を要します。當然それだけ資金も必要になってきます。

グラバーは、資金の調達に駆けずり回り、ジャーディン?マセソン商會やオランダ商會だけでなく、身內の兄弟からも融資を募って何とかこの事業を軌道に乗せようとしました。

ですが、思うように採掘が進まず、ついにグラバー商會はウソの事業報告を行い、月次當たりの採掘量があたかも順調に伸びているかのような報告を行うなど、徐々に窮地に追い込まれていきました。
期限が到來した債務返済の代わりに、とうとう炭鉱事業そのものも抵當に入れざるを得なくなるなど、後がなくなってくると債権者たちもついに事業が上手くいっていないことをかぎつけました。

そして、會計監査人をグラバー商會に送り込み、厳格な調査を行い、ついに債務超過に陥っている実態が明らかにされてしまいます。そしてグラバー商會は破産宣告をして破産手続きに入りました。

グラバーの波亂萬丈人生③:実業家から自由な要人へ

破産手続きによりグラバーは高島炭鉱の経営からは外されたものの、引き続き一社員としてその事業に関わり続けました。

グラバー商會の後も高島炭鉱を巡ってはずさんな労働環境に置かれた炭鉱夫たちが暴動を起こすなど引き続き経営には困難が続きましたが、最終的には巖崎彌太郎率いる三菱財閥に買収され、事業も安定するようになります。

このきっかけで、グラバーは巖崎彌太郎との交流が始まり、それまでのグラバーの事業手腕を高く評価した巖崎彌太郎は、グラバーに三菱財閥の相談役という安定した地位を約束しました。

破産後もグラバーは、1885年、後のキリンビールの前身であるジャパン?ブルワリ?カンパニーを設立し、ビール事業を手掛け、最終的に1907年にこの會社を巖崎久彌を含む日本人投資家グループに売卻することで大きな利益を得るなど、実業家としての活動を行うものの、徐々にビジネスの世界から離れ、自由なプライベート生活にシフトしていくようになります。

1890年代以降、日本は日清戦爭、日露戦爭、そして第一次世界大戦へと帝國主義の道をまい進していくことになりますが、その姿をグラバーはどのように見ていたのでしょうか。

若き日のグラバーであれば、そこに再びビジネスの商機を見出して事業を行っていたかもしれませんが、すでに高齢になっていたグラバーはビジネスの世界からはある程度足を洗っていました。
一方で、政治家や外交の社交場である鹿鳴館のセクレタリーやポルトガル領時を擔うなど、伊藤博文や井上馨といった要人とのパイプを有していたことから、引き続き外交や政治の面では一定程度の影響を持っていました。

その一つが、1902年に締結された日英同盟です。この頃、日本は西洋に負けず劣らずの技術力と軍事力を保有しており、西洋列強にその存在感を認めさせようと躍起になっていました。
そして日本は日露戦爭に突き進んでいくわけですが、これはロシアに勝利した日本が英國をはじめとする西歐諸國にとっての脅威になる可能性を見通していたグラバーが英國に働きかけを行い、その同盟成立の立役者としての役割を果たしていたとも言われています。

起業家としてのグラバーの先見性

グラバーの足取りをざっと追いかけてきましたが、いかがでしたでしょうか。ただでさえ激動の時代、その中を紆余曲折ありながらもビジネスで乗り越え、それが日本の近代化に大きな影響を與えることになったことを実感頂けたら嬉しく思います。

グラバーがこのように後世に名を遺す人物足りえたのは、今の日本の礎とも言うべき産業を育てたことにあるからだと言えるでしょう。グラバーには天才的な先見性があったのです。

ここでは簡単にグラバーが関與した事業をいくつかご紹介します。

日本に初めて蒸気機関車を紹介

上海の展示會で目にした蒸気機関車に將來性を見出したグラバーは、1865年、長崎に約500メートルのレールを敷き、客車をつけた蒸気機関車を日本で初めて走らせたというエピソードが殘されています。

小菅修船場(ソロバン?ドック)

當時のヨーロッパの船は西洋で建造され、中國海域で使用されていた中古船であったため、故障が絶えませんでした。また、當時西洋のような造船技術を持っていなかった日本には、當然船を修理する施設もありませんでした。

そこでグラバーは、日本國內で柔軟に船の修理等が行えるよう、小菅修船場を整備しました。

大阪造幣局開局にも盡力

明治維新により日本が新しい一歩を踏み出すと、政府が刷新されたことでそれまで國內で流通していた貨幣も新しく統一する必要性を感じたグラバーは、造幣事業に乗り出し、大阪造幣局開局にも盡力することになります。

ただこれは、日本のためというよりかは明治維新により武器取引に代わる新しい事業として、造幣機械の売卻や、新しい通貨の流通に伴う為替業による利益を見込んでのものでした。

日本最初の燈臺の建築を指揮

薩摩大隅半島の最南端にある佐多岬、にグラバーの指示で技師、T?ウォーターズによって日本で最初の燈臺が造られました。

 

いかがでしたでしょうか。
今グラバーの生涯は、ビジネスに対する教養という観點からも一人の起業家?実業家として現在のビジネスの成功に通じる學びを得られる示唆に富んだ教材になることはもちろんですが、世界遺産としてグラバー邸が認められた背景として、日本の近代化を促進する石炭?造船事業の礎を築いたことはもちろん、それ以外にもビジネスという観點から後の日本を背負って立つ偉人達を支え、時には西洋の事情を積極的に吸収させるべく密出國に手を貸すなど、グラバーが日本に與えた影響はとてつもなく大きいことがお分かりいただけたかと思います。

グラバー邸を訪れる際は、ぜひグラバーが過ごした當時の面影を偲びながらお楽しみください!

 

(參照:「グラバー家の人々」ブライアン?パークガフニ 長崎文獻社、「トマス?グラバーの生涯」マイケル?ガーデナ 巖波書店)

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【世界遺産】ミステリーの寶庫!?京都?清水寺に伝わる七不思議 http://www.huge-dicks.com/wh-kyoto-kiyomizu-mystery-11001.html http://www.huge-dicks.com/wh-kyoto-kiyomizu-mystery-11001.html#respond Wed, 21 Jul 2021 00:13:03 +0000 http://www.huge-dicks.com/?p=11001 Copyright © 2021 みんなの一人旅 All Rights Reserved.

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京都の世界遺産の1つ、清水寺。京都の中でも歴史が古く、また広く民衆の信仰を集めたこのお寺には、いつからか広く伝わる不思議な言い伝えがたくさん殘されています。
今回は知っておくとより清水寺のお參りが楽しくなる七不思議をご紹介します!

【世界遺産】京都?清水寺ってどんなお寺?

京都の世界遺産の1つ、清水寺。JR京都駅からも比較的近い場所にあり、清水寺は京都の有名な観光スポットの中でも特に人気のあるお寺です。
ですが、清水寺がいつ創建されたのか、その歴史について知っている人は意外に少ないように思います。ここでは清水寺にまつわる七不思議をご紹介する前に、簡単に清水寺をご紹介しようと思います。

清水寺の創建

清水寺の歴史は古く、その創建は778年と言われています。平安京への遷都が794年ですから、それよりも前からこの地にすでにこのお寺が存在していたことになります。

お寺が建てられた場所というだけあって、大昔からこの場所はとても神聖な場所だったのでしょう。ある時奈良の高僧、延鎮(えんちん)が夢で川の中を流れる一筋の金色の水を見ました。
これが何かの霊夢であると悟った延鎮は、この金色の水を探し求めてついに淀川の中を流れる一筋の金色の水を発見します。

この金色の水を辿っていくと、京都は東山、音羽の瀧へと至りました。そこには仙人がすでに延鎮を待っており、延鎮に観音力を封じた霊木を授け、これに観音像を刻んでこの場所にお寺を建てるよう言い渡すと、仙人はどこへともなく去って行ったということです。

その後この場所で延鎮が修行をしていると、山へ鹿狩りに來た坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)と出會います。坂上田村麻呂といえば、征夷大將軍にも任命された勇將で、ご存じの方も多いでしょう。
坂上田村麻呂は妊娠中の妻にいつまでたっても出産の兆しが見られないため、鹿を獲りにこの山に入り込んだのですが、延鎮に無駄な殺生は止めるよう進言され、ひたすら観音様に祈願することを勧められます。

延鎮の教えに従い、ひたすら観音様に祈ったところ、無事に子どもが生まれた坂上田村麻呂はそのお禮に、この場所に自身の屋敷を寄進して堂舎を創建します。
これが清水寺の始まりです。

清水寺のご本尊と脇侍

創建の由來の通り、清水寺のご本尊は十一面千手観世音菩薩(じゅういちめんせんじゅかんぜおんぼさつ)です。

また、ご本尊の両隣には毘沙門天像(びしゃもんてんぞう)と地蔵菩薩像(じぞうぼさつぞう)が安置されていますが、これも実は清水寺のユニークな見どころの1つです。なぜなら、観世音菩薩の脇侍として置かれるのは、通常は通常は婆藪(ばす)仙人と大弁功徳天(だいべんくどくてん)だからです。

清水寺に脇侍として毘沙門天像と地蔵菩薩像が置かれているのも、実は坂上田村麻呂にまつわる伝説から來ています。

先ほど、坂上田村麻呂は征夷大將軍になったとお話ししましたが、この將軍職は京の都から遙か遠い場所にある現在の東北を平定する任務を負った役職です。
當時、東北地方を支配していた蝦夷を平定する任務を負った坂上田村麻呂はその遠征の中で、苦戦を強いられていたのですが、そこに援軍をとして毘沙門天と地蔵菩薩が加勢に現れ、無事に蝦夷平定の任務をこなすことができたと言われています。

この時の伝説にちなんで、清水寺の脇侍には毘沙門天像と地蔵菩薩像が置かれているのです。

創建の名殘が殘る見どころ

清水寺と言えば大舞臺の少し先にある音羽の瀧が有名ですが、ここがまさに先ほどご紹介した清水寺創建の場所と言えます。遙か昔、金色の水がこの場所から流れ落ち、延鎮という高僧に見出されたわけですから、ぜひ神聖な気持ちでお參りなさってください。

そして、その奧にある奧の院がまさに、延鎮が修行を行っていた草庵があった場所です。

また、清水寺には子安塔を有する泰産寺というお寺がありますが、こちらはその名前の通り今では安産祈願のお寺として有名です。
先ほど坂上田村麻呂と妊娠中の妻のお話をしましたが、このお寺はその妻、三善高子が無事子の出産を終えたことにちなんだ場所となっており、清水寺は女人の観音信仰の場所としても有名です。

【世界遺産】京都?清水寺の七不思議

それではいよいよ、世界遺産?清水寺に伝わる七不思議をご紹介します。なお、七不思議と書いていますが、実はこのお寺には七つ以上のたくさんの言い伝えが殘されており、「七つの不思議な言い伝え」という意味ではありませんのでご留意ください。

ここではその中でも有名なミステリーを7つご紹介します。これら7つのミステリーは今も実際に確認することが出來ますので、ぜひ清水寺を訪れ際には合わせて確認してみてください!

景清爪彫の観音

景清、というのは平景清(たいらのかげきよ)という平家の武將です。別名「悪七兵衛」(あくしちびょうえ)という異名でも知られていた、とても勇猛な武將だったと言われています。

ですが、皆さんもご存じの通り平家は壇ノ浦の戦いで源氏に滅ぼされてしまうわけで、景清は落ち武者としてはるばるこの清水寺まで逃げ落ちてきたわけです。
勇猛な武將というだけあり、この地に潛んで景清はいつの日か平家再興の日を夢見て、打倒源氏を願い心魂を込めて自分の爪で石に観音像を刻んだという伝説が殘されています。

伝説と言われていますが、実は今も隨求堂の手前に「景清爪形観音」(実際はひらがなで刻まれています)と刻まれた石柱があり、その背後に燈籠が置かれています。
この燈籠の火袋の奧にある火穴の奧面に観音像が線刻されていると言われており、懐中電燈で照らすと今もその姿を観ることができるようです。

景清の足形、弁慶の足形

本堂の西手、朝倉堂との間に大きな石が置かれており、その大きさは臺座部分を除いてなんと長さ52センチ!という大型の足形二つが刻まれています。これは弁慶や、景清の足形石と言われていますが正確にはは仏足石であり、その足裏の魚絞や雲形を削り取ったものであることが判明しています。

この足形を撫で、頭を撫でると頭が良くなる、という言い伝えもあります。

馬繋の鐶が逆さについている

清水寺には馬駐(うまどめ)と言う、馬を縛って停めておくための場所が設けられています。馬に乗って參拝にやってきた貴族や武將が、ここで馬を下りて本堂に進まれるというわけです。

清水寺の馬駐はわが國最古の廄の遺構と言われているほどとても歴史のあるもの。

この馬駐、良く観てみるとその鐶が二か所、向かって右から三本目の柱右面上方と、四本目の柱右面下方の鐶ですが、垂直に垂れ下がるように取り付けられていますが、その他は橫向けに取り付けられています。
通常は橫向けに取り付けられるのが普通で、なぜ二か所だけ垂れ下がるように取り付けられているのかは謎に包まれています。

歯痛の人は渡れない轟橋

轟橋(とどろきばし)というのは轟門(とどろきもん)の手前にある短い橋のことです。現在はこの門の手前にある発券所で拝観券を購入し、轟門にいる係員にチケットを見せて本堂に向かいます。

この轟橋、川の上にかかっているわけではないのでおそらく多くの人が気付かずに通っていると思いますが、この橋にも言い伝えがあるのをご存じでしょうか。

橋の造りを良く観ると中央が板張り、両側は石造りになっていて、これを中央部分を舌、石造り部分を歯、つまりこの橋の中は口中として見立てられてきました。この見立てにちなんで、「歯痛の人がこの橋を通ると歯痛が治らないのでこの橋を渡ることができない」、という言い伝えが殘されています。

ちなみに、この轟門の脇には手洗鉢(ちょうずばち)が置かれていますが、この鉢は「梟(ふくろう)の手洗鉢」と言われています。

見たところフクロウの姿はどこにも見當たりませんが、手水鉢の足元の臺座部分、臺石を良くご覧になってください。なんと四方仏が掘ってあり、これは歯痛の人が仏様に祈ったものと言われています。
はっきりとは分かりませんが、さらに良く目を凝らしてみると仏様と一緒に梟のような姿が彫られている!?

また、先ほど水が通っていないのになぜか橋が架けられている、と言いましたが、これも一つの謎とされています。

一説ではもともと下に水の流れがあったものが、地形が変わったことで現在のように流れが無くなったと言われています。
なお、物理的な意味合いの他にも、現世穢土から神聖な本堂に入るため、二つの世界の架け橋という意味も込められているようです。

虎の石燈籠

仁王門をくぐった先にある広場(西門下の階段前であり、中興開山故大西良慶和上の巨大な石碑「念彼観音力」の立つところ)。石碑の右斜め前に石燈籠があり、その火袋の下に岸駒筆と伝わる虎の絵があります。
この虎の絵、真に迫っていると言われ、いわゆる「八方にらみ」の虎と言われているのですが、夜になるとこの虎が吠えると言われています。
石燈籠から抜け出して音羽の滝の水を飲みに出かけたり、寺內をパトロールしているのだとか。

仁王門外角柱の腰貫の頭がへこんでいる

仁王門を見られる時は注意深く門の周りを観てみてください。
仁王門正面の向かって右外側、西南の柱の腰貫の頭が、楕円形に深くえぐられたようにへんこんでいます。この腰貫の出っ張った頭をカンカンとたたくと、その音がはすかい裏の対角にある角柱の腰貫の貫頭に伝わると言われています。

仁王門前の狛犬はどちらも「阿」の口をしている

お寺の守り神である狛犬。通常は「阿」(あ)「吽」(うん)のセットで片方は口を開き、片方は口を閉じた姿であることが一般的です。ですが、ここ清水寺の狛犬はどちらも「阿」の形をしており、口が開いています。

今の二體の狛犬はもとも阿吽の狛犬でしたが、太平洋戦爭中に戦爭軍需用に持ち出されてしまい、その後に狛犬が無いのを悲しんだ信者団體が寄贈したものと言われています。
そして、この狛犬は東大寺南大門裏の脇の間に安置されている両方開口の狛犬をモデルにしているため、両方の口が開いているというわけです。

その他、門前の魔除けの意味だけでなく、お釈迦様の教えを大聲で獅子吼している姿である、という説や、「疲れなど笑いとばせ」という願いを込められているという説もあります。

まだまだある!京都?清水寺のミステリー

いかがでしょうか。ミステリー好きのあなたのために、もう少し清水寺に伝わる不思議な言い伝えをご紹介します!

六本柱の鐘樓

清水寺の鐘樓は1607年の再建で、桃山後期の彫刻が蟇股などに施されており、見どころの一つになっています。

この鐘樓、良く観ると柱六本で支えられているのですが、通常は四本柱で支えられているのが一般的。これは重さ約2.3トンとも言われている重い梵鐘を支えるためではないかと言われています。
ちなみに、この梵鐘は現在は寶蔵殿にて保管されています。

三重塔の鬼瓦

清水寺の三重塔は國內最大級の大きさで、1633年に本堂と共に再建され、法3間、瓦葺の造りであり、大日如來像を安置しています。

この三重塔の各層の四隅に鬼瓦があるのですが、良く観ると東南隅の鬼瓦だけが「龍」の姿になっています。

なぜ東南だけ「龍」なのか。それは龍が古くから火除けの神として祀られているためです。

また、四つの方角を司る四神で考えてみると、「龍」である青龍は東を守る神。清水寺は京都の東に位置し、音羽の滝には龍が住まうとも言い伝えられています。
さらに、京都の西北には火伏せの神が鎮座して都を火災から守っていますが、その対角線上にある東南を防災する意味も込められているのだとか。

本堂に殘された弁慶の爪跡の不思議

本堂をお參りされた際には、あの有名な「清水の舞臺」以外にもぜひチェックしていただきたい場所があります。

それが本堂の東西、大人の胸當たりの高さの裳階窓(もこしまど)の下の腰長押(こしなげし)に殘された深さ1~2センチほどの條痕です。
この條痕、ずっと長く付いており、「弁慶の指跡(爪跡)」と言われているのですが、実際はこのお寺でお百度參りなどぐるぐると寺の中を回って祈願する風習があった時に、回った回數を數えるために數取りに使った串などで長押に押し付けてできたものと言われています。

三年坂(産寧坂)の伝説

清水寺の近くには三年坂(産寧坂)と呼ばれる坂道があるのですが、この坂道で転ぶと三年以內に死ぬ、という穏やかではない伝説が殘されています。

ちなみになぜ「三年」なのかというと、清水寺が建立された807年が大同二年であり、その翌年、つまり大同三年にこの坂道ができたことからこの名前が付いたと言われています。
一方「産寧坂」という名前は、先ほどご紹介した子安塔へ安産祈願への參拝道であることから付いた名前です。

また、瓢簞(ひょうたん)を腰に付けておくと、転んでも魂が壊れずに瓢簞の中に入るので死なずに済むのだそうです。

 

いかがでしたでしょうか。
まだまだ多くの言い伝え(ミステリー)が殘る世界遺産、清水寺。

庶民に愛されたお寺であり、散策にも適した場所ですので、ぜひじっくり參拝して今回ご紹介したミステリーも合わせてお楽しみください!

 

(參照:「京都の七不思議」田中緑紅 京を語る會、「清水寺の謎 加藤眞吾 祥伝社黃金文庫」、「京都の古寺Ⅰ」小室 博一 JTBパブリッシング)

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「清水の舞臺から飛び降りる」は本當にあった!?【世界遺産】京都?清水寺を100倍楽しむためのマメ知識5選

京都の世界遺産の1つ、「清水の舞臺」でも有名な清水寺。京都において最も有名で人気のある観光スポットの1つでもある清水寺の歴史は古く、昔から広く庶民に愛されたお寺でもあります。 世界遺産の清水寺がいつ、どのように創建されたのか、なぜ「清水の舞臺」は造られたのか、など、意外と知られていないそのヒミツと魅力に迫ります!

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【世界遺産】京都?西本願寺、親鸞聖人と浄土真宗:その苦難と凄さが分かるマメ知識5選 http://www.huge-dicks.com/wh-kyoto-honganji-shinran-10970.html http://www.huge-dicks.com/wh-kyoto-honganji-shinran-10970.html#respond Sun, 11 Jul 2021 23:00:03 +0000 http://www.huge-dicks.com/?p=10970 Copyright © 2021 みんなの一人旅 All Rights Reserved.

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「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている西本願寺。浄土真宗本願寺派の本山であり親鸞を宗祖としています。
京都の世界遺産には真言宗の東寺、天臺宗の延暦寺がありますが、西本願寺はこれらのお寺とは明らかに違う道を歩んできました。
今回は世界遺産の西本願寺と浄土真宗について、その凄さと苦難の歴史をひも解いていきます!

日本で最も多くの仏教徒を抱える浄土真宗

皆さんは日本における宗教の宗派ごとの統計情報をご覧になったことがあるでしょうか。一言で仏教やキリスト教と言っても、それらがさらに多くの宗派や派閥に分かれており、日本には多くの宗教団體が存在しています。

上記は文化庁が公開している令和2年の「宗教年鑑」から、「文部科學大臣所轄包括宗教法人」の內、仏教派の一部を切り取ったものです。「宗教年鑑」によると信者數としては神道と仏教がそれぞれ48.6%、46.3%で二分している狀況にあるのですが、仏教の中では上記の通り「浄土真宗本願寺派」と「真宗大谷派」という、浄土真宗の上位2つの宗派を合計しただけでも他の仏教宗派よりもはるかに多い仏教徒を抱えていることが分かります。

ちなみに、「浄土真宗本願寺派」を取りまとめているのが西本願寺、「真宗大谷派」を取りまとめているのが、西本願寺と同じ通りを東に少し行った場所にある東本願寺です。
どちらも親鸞聖人を宗祖としている點で同じ宗派なのですが、なぜ2つに分かれてしまったのかについては後ほどご説明します。

同じ浄土派である浄土宗の信者と合わせると、仏教の中で浄土派というのがどれだけ広く日本人の心に浸透しているかがお分かりいただけるかと思います。
皆さんも歴史の授業で一度は學んだことがあるかと思いますが、いわゆる「鎌倉仏教」と呼ばれる新派の浄土宗?禪宗?日蓮宗や時宗は、その分かりやすい教えが広く民衆の信仰を集めたことで爆発的な広がりを見せました。

このことが、現在に至っても浄土真宗を始めとする上記の信者數にも表れているのではないでしょうか。このことを踏まえると、浄土真宗は言わば「民衆の仏教」と言えるでしょう。
以下この記事をお読み頂く時に、浄土真宗が民衆の立場に立った仏教であることを思い出しながらお読みいただくと、浄土真宗がたどった歴史がより理解できるかと思います。

浄土真宗ってどんな教え?

浄土宗と浄土真宗

同じ浄土派の教えとして浄土宗と浄土真宗がありますが、二つの宗派の違いはどこにあるのでしょうか。結論から言えば、二つの宗派の根本は同じです。
というのも、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は浄土宗の開祖である法然上人に弟子入りを乞うて浄土宗の教えを學び、法然上人の死後も自身は法然の弟子の一人である、という立場を取っていたからです。

浄土真宗というのは実は、親鸞聖人が自らそのように命名して教えを広めたのではなく、親鸞聖人の死後、その教えをまとめ、引き継いだ弟子たちによって生まれた宗派なのです。

したがって、浄土真宗は浄土宗と同じ信仰を持ちながらも、その教義は親鸞聖人の教えに基づくもの、という點で浄土宗とは異なっています。

浄土真宗と浄土思想

浄土真宗や浄土宗、時宗などは広い意味で「専修念仏」と呼ばれることがあります。「専修念仏」というのは、ひたすら「南無阿彌陀仏」を唱えて仏の救いによって極楽浄土への往生を信じること。

浄土宗などが広く民衆の心を摑んだ理由は、その分かりやすい教義にあると先ほどご紹介しましたが、もう一つの理由として、これらの新しい宗派が誕生した時代がいわゆる「末法思想」が蔓延していた時代だったということもあります。

「末法思想」というのは、お釈迦様の入滅後長い時(1,000年や1,500年)を過ぎるにつれて、やがて悟りを開き正しい教え(正法)を広める僧がいなくなり、正法が広がらなくなり世の中が荒廃する、という思想を言います。
平安末期というのはお釈迦様が入滅されて1,500年以上が過ぎていたこともあり、この末法思想が人々の心に不安の影を落としていたのです。

そんな中で現世に希望を持てない人々が死後の浄土に希望をつなぎ、そしてそれが念仏をひたすら唱えるだけで葉うという教えがあると知れば、その教えがたちまち人々の希望になり、心の拠り所になったことは想像できますよね。

なぜ念仏を唱えるだけで極楽浄土に往生できるの?

「念仏を唱えるだけで極楽浄土に往生できる」と言われて、皆さんはすぐにそれを信じることができますか?筆者はとてもじゃないですが、その言葉だけで心を入れ替えてひたすら「南無阿彌陀仏」を一心不亂に唱え続けることは難しいかもしれません。

もちろん、これは浄土真宗の教義をとてもシンプルに表現したものであって、そのような教義にもきちんとした根拠があります。

まず、浄土真宗で唱える「南無阿彌陀仏」という言葉に含まれているように、浄土真宗では阿彌陀如來をご本尊としていますが、この阿彌陀如來をご本尊とすることが浄土真宗にとってとても重要なことなのです。

阿彌陀如來というのは、悟りを開いた仏様である多くの「如來」の中でも西方浄土にいらっしゃる仏様のこと。ですが、この仏様も最初から西方浄土におられたわけではなく、その昔には寶蔵菩薩という修行の時代がありました。

寶蔵菩薩でいらっしゃった修行時代に、菩薩様は「48の誓い(発願)」を立てられます。
発願というのは、悟りを求め人々を救いに導く心を意味するのですが、その中に一切衆生、つまりありとあらゆる生きとし生けるものを救いたい、という発願が含まれていたのです。

その後、修行を経て寶蔵菩薩から西方浄土に移り阿彌陀如來になられた仏様。阿彌陀如來になられた、ということは発願をすべて達成して悟りの境地に達したことを意味しています。
それがつまり、阿彌陀如來には一切衆生を救うお力がある、ということ。

浄土真宗の教えというのは、要するに阿彌陀如來様が本來持っている一切衆生を救ってくださるお力をひたすらに信じ続けよ、ということを意味しているのです。

浄土真宗、つまり親鸞聖人のこの教えは、浄土真宗の経典とされている仏教の書物に基づくものです。
浄土真宗の経典は「無量壽経」(大経)、観無量壽経、阿彌陀経の三つから成るのですが、「無量壽経」はこれまでお話しした阿彌陀如來と寶蔵菩薩のお話が、観無量壽経は極楽浄土に往生する方法、つまり実踐本、そして阿彌陀経は極楽浄土の様子が紹介されています。

極楽浄土に往生する方法を記載した観無量壽経では、人々はそれぞれの行いによって9つの階層に分けられ、それぞれの階層ごとに往生する方法があるとされています。ですがさらに、善行ができない人のために、どんな人でも行うことができる「念仏往生」の方法が説かれています。

親鸞聖人は、この「念仏往生」こそが実は観無量壽経の最も本質の部分であり、重要な教えであるとして、念仏を唱えて往生する重要性を説いたというわけです。

「悪人正機」の意味

浄土真宗に関する書物に「歎異抄」(たんにしょう)というものがあります。これは、親鸞聖人が亡くなられた後もその教えを正しく世に伝えるため、まとめられたものなのですが、その中に下記のとても有名な一説があります。

善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。

「善人でさえ往生できるのだから、悪人ならなおさら往生できないわけがない」

という意味ですが、私たちの一般的なイメージからいうと、「悪人でも往生できるのだから、善人は間違いない」という方が違和感が無いですよね。

ではなぜ「歎異抄」(親鸞)は上記のような言葉が記されているのでしょうか。

実はここに、「ひたすら念仏を唱えて仏様を信じる」ことの難しさも表れているのです。どういうことか。

浄土真宗では「ただひたすらに仏様の力を信じ、身を委ねること」が求められています。ですが、何の迷いもなく一心に何かを信じ、身と心を寄せる、というのは実は難しいことではないでしょうか。自分で何かをしよう、と思う人ならなおさらのことです。

また、ここで言う「善人」と「悪人」の意味にも注意が必要です。
「善人」というのは、自力で善行を積んで往生しようとする人を言うのですが、上記の浄土真宗の教えからすると、阿彌陀仏の本願力を信じて頼ろうとしていない、という點で好ましくないとされてます。
一方の「悪人」はどんなに頑張っても善行を行うことができない人の事を指し、犯罪など何か悪い行いをした人の意味ではありません。

つまり、「善人」と「悪人」を浄土真宗の教えから考えると、実は自力で何もできない「悪人」の方こそ、阿彌陀如來の救いが期待できると考えられるのです。

したがって、もし「善人」でも漏れなく阿彌陀如來により往生できるのであれば、「悪人」ならなおさらのことだ、というわけですね。

浄土真宗と親鸞聖人

親鸞聖人の人物像

先ほど少しお話ししましたが、「浄土真宗」という宗派が誕生したのは親鸞聖人が亡くなられた後、その教えを引き継いだ弟子たちによってです。
「弟子たち」と記載しましたが、親鸞聖人は生涯、自分は法然上人の弟子であるという立場を崩さなかっただけでなく、一つのお寺、一人の弟子も取っていません。

これは天臺宗を伝えた最澄が興した延暦寺や、真言宗を伝えた空海が開いた金剛峯寺とは明らかに違う點です。それでも現在このように浄土真宗が一大宗派として広がったのは、親鸞聖人の実子からその後の世代が親鸞聖人の教えを引き継ぐ中で徐々に組織的な體制を取っていったからです。

また、親鸞聖人は正式に妻となる女性がいましたが、これも當時に厳しい戒律を守る仏僧のイメージからすると少し意外に思われるかもしれません。ですが、ここにも親鸞聖人の信念がありました。

親鸞聖人は自分の事を「愚禿」(ぐとく)と呼んでいました。「愚禿」というのは「愚かな僧」という感じで、自分のことを卑下するような表現ですが、そこには「自分は僧でも一般人の存在でもない」という思いを持っていたと考えられています。

當時の「僧」は今とは違い、鎮護國家の目的のもと、國のために仕えるという色合いがより濃い存在でした。親鸞聖人は、そのような「國」ありきの束縛に囚われることなく自由に仏心を求める立場を貫き(つまり「非僧」)、仏に仕える身として一般の人とも違う立場(つまり「非俗」)であることを「愚禿」という言葉で表現したのです。

親鸞聖人に妻となる女性がいたことも、この「愚禿」の思いから考えると自然なことかもしれません。

親鸞聖人は聖徳太子の導きで浄土宗に行き著いた!?

親鸞聖人の生涯には伝説とも言えるいくつかの有名なエピソードがありますが、その一つが聖徳太子からの「夢告」に関するエピソードです。

親鸞聖人は1173年にこの世に生まれましたが、當時はすでに聖徳太子信仰があったものと考えられており、親鸞聖人も聖徳太子に対する強い信仰心を有していたと言われています。
そのため、親鸞聖人は三度も夢で聖徳太子から霊告を受けたと伝えられており、一回目は9歳から修行のため籠っていた比叡山でちょうど10年目の節目に當たる年でした。

この時は「あと十年で転機が訪れるだろう」と告げられ、その十年後の29歳の時に再び夢で聖徳太子に會い、これをきっかけに親鸞聖人は比叡山を下りる決意をします。

その後、聖徳太子創建と言われている京都の六角堂で100日間參籠し、その95日目の明け方、親鸞は救世観音の姿で現れた聖徳太子から三度目の夢告を受けます。

「もし因縁によって女性と交わりたいと思うなら、私が妻になってあげよう。そして臨終を迎える時には浄土に導こう。」

この言葉を聞き、親鸞聖人はそれまで抱えていた迷いから解き放たれました。つまり、いくら修行をしても性欲などの煩悩から完全に逃れることはできず、仏の導きでしか浄土に往生することができない、という悟りに達したというわけです。

これはまさに、これまでお話ししてきた浄土真宗の教義の根本ですよね。

いかがでしょうか。親鸞聖人の人柄が伝わってくるエピソードをいくつかご紹介しましたが、皆さんはどのように感じましたか?

親鸞聖人が実踐した専修念仏の境地

親鸞聖人の有名なエピソードとして、山伏弁円の伝説をご紹介します。

山伏、というのは山中で修業を行って不思議な力を身に付けた人のことを言い、古くから加持祈禱によって病や厄災を払う役目を擔っていた人たちです。

ところが、親鸞聖人の教えが広まるにつれて、念仏を唱えることで極楽浄土へ往生する希望を見出した民衆が増えると、逆に山伏に加持祈禱を依頼する人たちが少なくなってしまいます。
山伏にとっては大事な商売のお客さんを取られた形になってしまい、ある時弁円という山伏が親鸞聖人の暗殺を計畫しました。

弁円は暗殺計畫を実行に移し、親鸞の滯在していた草庵を襲ったのですが、親鸞聖人は「阿彌陀仏に預けた命」として全く動じず、これに感服した弁円は逆に親鸞の弟子になったというのですから、いかに親鸞聖人の姿に心を打たれたかということでしょう。

「御仏に全てを委ねる」

親鸞聖人のこのエピソードは、まさに念仏仏教の境地にたどり著いた人の姿を表しているように思います。

浄土真宗はなぜ多くの信者を獲得できた?

浄土真宗がなぜ多くの人々の心を摑んだのか。それはこれまでお話ししてきた通り、「分かりやすい教え」と「末法思想」にあることが大きいのですが、それ以外にも民衆に広がる仕組みがありました。それをご紹介しましょう。

説法のコミュニケーション

親鸞聖人の後、浄土真宗本願寺八世となったのが蓮如(れんにょ)でした。彼は積極的に各地を説法をして回ったのですが、浄土真宗の門徒の多くは農民を始めとする一般民衆であり、難しい言葉を並べてもなかなか伝わるものではありません。

そこで、蓮如は「御文」(おふみ)と呼ばれる手紙のようなやり取りを通じて、各地にいる門徒に対して、彼らの日常に即した分かりやすくて簡潔な文章で浄土真宗の教えを説いたのです。

「御文」という手紙に殘すことで、門徒達はいつでもその教えを読み返すことができますし、それを他の仲間と共有することもできます。「文書」ならではの利點ですね。

門徒同士のコミュニティ

浄土真宗の門徒となった民衆たちにも、それまでの宗派にはない獨特に繋がりがありました。

それまでどちらかというと貴族や公家とのつながりが強かった延暦寺を始めとする仏教宗派は、荘園の寄進を受けることが経済的な基盤となっていました。
ですが、「民衆の仏教」である浄土真宗には當然このような経済的基盤はありません。しかし、「念仏を唱えるだけ」の浄土真宗はある意味エコな宗派と言えます。

浄土真宗の門徒達は、特にお寺を作らなくても、一緒に集まって念仏を唱える場所さえあればその活動に何の支障もありませんでした。このため、門徒が集う道場の維持費はそれぞれが少しずつ持ち寄った予算でやりくりし、運営の決定も話し合いで決めるなど、平等で柔軟、そして「緩い」繋がりだったと言えます。

このような門徒同士の平等で緩い橫の繋がりが、浄土真宗を通じたコミュニティを築きながら大きくする仕組みとして機能したのです。

「民衆の仏教」浄土真宗が歩んだ苦難の歴史

ここまでお読み頂き、浄土真宗が「民衆の仏教」とも言えることが伝わっていましたら嬉しいです。
ここからは、「民衆の仏教」だからこそ浄土真宗が歩んだ苦難の歴史もご紹介します。

「民衆」とくれば、その対立要素として挙がるのは「権力」ですよね。浄土真宗も例外なく、「民衆の仏教」だからこそ「権力」との戦いに巻き込まれていったのです。

比叡山と興福寺からの圧力

これは親鸞聖人がまだ法然上人の弟子として修行に勵んでいた頃の出來事ですが、すでに浄土宗は民衆に広く浸透しつつありました。

これに危機感を持ったのが既存の宗派であり、その一つが延暦寺です。ご存じの方も多いかと思いますが、法然や親鸞をはじめ、鎌倉仏教の多くの宗祖たちが比叡山での修行を経験しています。

その勢力拡大を恐れた比叡山は、念仏弾圧に動くのですが、法然上人は「7か條の制誡(せいかい)」を立てて弟子たちを戒めることで何とか穏便に事なきを得ます。

ですが、その後興福寺が再び念仏仏教が勝手に「浄土宗」を標ぼうしているなど、「9か條の過失」を朝廷に訴えました。これにより、専修念仏は停止させられ、そのうえ法然上人と親鸞聖人を含む數名が流罪に、さらに數名は死刑という非常に重い罰を受けることになったのです(承元の念仏弾圧)。

當時は仏教の宗派を名乗る上でも國による厳しい管理下に置かれていたため、法然上人が「浄土宗」を興したことはある意味で正式なルールに則ったものではなく、したがって正式な宗派としては認められない、ということなのでしょう。
権力に依存しない浄土宗だからこそ受けた圧力だったと言えます。

ちなみに、これにより法然上人と親鸞聖人は別々の場所に流されましたが、その後二人が再會することは葉いませんでした。

加賀の一向一揆

こちらも必ず日本史の教科書に出てくる有名な出來事「加賀の一向一揆」、実はこれも浄土真宗の本願寺派の門徒たちが念仏宗教弾圧に対して決起したことがきっかけだったことはご存じでしょうか。

先ほどご紹介した本願寺八世の蓮如が、この地でも布教を行い本願寺の門徒が広がっていく中で、その勢いに不安を覚えた加賀國の守護、富樫政親(とがし まさちか)が弾圧を加えたことで門徒達が反亂を起こしたというわけです。

この結果、加賀國は一揆に倒れ、以後なんと百年にも渡って百姓たちが國を治めた「百姓の持ちたる國」と呼ばれたことはあまりにも有名です。

ですが、蓮如は百姓たちに一揆をけしかけたわけではなく、むしろ諫めようとしていたと言われています。この辺りから、徐々に本願寺の門徒たちの勢力が強大になり、本願寺もそれをコントロールすることができず、むしろ守護大名や戦國大名から目を付けられて政治の表舞臺に巻き込まれていくことになるのです。

信長?秀吉?家康と本願寺

信長との衝突

戦國時代に入ると、多くの門徒を抱える本願寺は戦國大名からも一目置かれる存在となり、同時に危険分子としても見なされるようになりました。

本願寺は決して好んでこのような権力や政治に身を投じていったわけではなく、どちらかというと平和的な解決を望んでいたと思います。そして、それが避けられなくなったのが信長による本願寺の侵攻です。

當時大阪の石山にあった本願寺は、多くの門徒を抱えていたことからその周辺に寺內町が形成されており、一大経済圏が形成されていました。
ですが、天下統一を狙う信長にとって大阪は京の都に向かう交通の要でもあり、また本願寺の勢力を危険分子とみなしていたこともあり、これを叩くことは當時の狀況を考えると當然に行き著いた決斷だったと言えます。

何とか爭いを避けたい本願寺でしたが、寺內町の自治を奪われることだけは譲ることができません。ですが、信長は寺內町についても明け渡すことを要求し、ついに交渉は決裂、信長と本願寺の爭いの火ぶたが切って落とされました。

この爭い、さすがの信長でも本願寺の一大勢力には手を焼き、決著がつくまでなんと11年の月日がかかっています。最終的には兵糧攻めにした信長の粘り勝ち、と言えますがこれで戦國大名に屈した本願寺は、さらに秀吉、家康に翻弄されていくことになります。

秀吉の巧みな骨抜き

信長がその後、本能寺の変で倒れると、変わって秀吉があっという間に勢力を伸ばして天下統一を達成します。

信長と本願寺の戦いを見た秀吉も、當然本願寺の勢力をうまく自分のコントロール下に置くため、巧みな支配をつづけたのです。その1つ目が、天満への本願寺の移転を認めたこと。
天満と言えば大阪城のすぐ足元です。自分の足元に置くことで、本願寺に常に目を光らせておくだけでなく、當時天満は、淀川の支流が大きく曲流し、洪水の被害を受けやすい場所だったため、この地に寺內町として整備させることも図っていたのではないか、とも言われています。

その後、秀吉は秀頼の誕生とともに京都との行き來が増えたことから、突如本願寺の京都への移転を命じます。これには、寺內町と本願寺を分斷させることで、その経済力を削ぐ目的があったと考えられています。
そして、これが現在の西本願寺です。

また、秀吉の支配下に置かれた本願寺ではいつの間にか、その跡継ぎを決めるに當たって秀吉にお伺いを立てるようになっていました。

家康による本願寺の分斷

実は信長との11年の爭いにより、最終的に本願寺は降伏を選んだのですが、當時本願寺を継いでいた顕如上人が降伏を決斷した一方、息子の教如上人は最後まで信長と戦うことを譲らず、両者の関係は決裂します。
これが後々の本願寺の跡継ぎ爭いへと繋がっていきました。

教如上人はその後も本願寺の正當な跡継ぎに認められることはなく、裏方の存在であり続けたのですが、秀吉の亡き後家康が実権を握ると、教如上人は家康に近づいて、京都烏丸七條に寺地を建てる許可を得、ここに別の本願寺を建てたのです。

これが現在の東本願寺となるのですが、家康が教如にこのようなことを許可した理由として、本願寺の勢力を二分する目的があったのでは、と考えられています。

 

いかがでしたでしょうか。
西本願寺、浄土真宗と親鸞聖人のお話を駆け足でご紹介しましたが、権力の後ろ盾を持たず、一人の弟子、一つの寺も殘さなかった親鸞聖人の教えとして広まった浄土真宗がやがて「民衆の仏教」として広まり、その後はその勢力を恐れた権力に取り込まれながらも今では日本最大の仏教宗派となっている事を考えると、民衆のパワーを感じられずにはいられません。

皆さんも京都駅からほど近い場所にある世界遺産、西本願寺を訪れた際には親鸞聖人と本願寺、そして浄土真宗がこれまで歩んできた苦難とその凄さを感じながらお參りされると、より特別な場所として感じられると思います!

(參考:「東西本願寺」高崎円遵 教育新潮社、「あなたの知らない親鸞と浄土真宗」 山折哲雄 祥泉社、「本願寺はなぜ東西に分裂したのか」武田 鏡村 扶桑社新書)

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女性も気軽に楽しめる!初夏の軽井沢、日帰り一人旅プランと見どころ 6選 http://www.huge-dicks.com/daytrip-nagano-karuizawa-10945.html http://www.huge-dicks.com/daytrip-nagano-karuizawa-10945.html#respond Mon, 14 Jun 2021 00:43:16 +0000 http://www.huge-dicks.com/?p=10945 Copyright © 2021 みんなの一人旅 All Rights Reserved.

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日本屈指のリゾート地、長野県軽井沢町

軽井沢の魅力

皆さんも良くご存じの長野県軽井沢町は長野県と群馬県の県境、長野県北佐久郡にある日本屈指の高原リゾート地。

夏は避暑地、冬はスノーリゾートと一年中楽しめる街であり、大都市の東京からも適度な距離のためか國內有數の別荘地として長年人気です。
2021年6月の時點で軽井沢の別荘の數は、持ち家數の約1.5倍にも及んでいます。

ちなみに、軽井沢が別荘地となったきっかけは、1886年(明治19年)にイギリス人の宣教師、アレキサンダー?クロフト?ショーが軽井沢を訪れたことが始まりです。

軽井沢の気候や美しい自然を家族や友人に紹介し、1888年(明治21年)に別荘を舊軽井沢の大塚山に建てました。その後、友人の宣教師たちも軽井沢に別荘を建て始めたことにより軽井沢は夏の避暑地として別荘を建てる人が増えていきました。

現在では日本人も別荘を持っていますが、始まりが外國人宣教師というのは意外なエピソードです。

近年ではホテルや大型アウトレットモールなどが建ち、気軽に行ける観光地となりました。観光行事も多く開催され、年間の入込客數はなんと800萬人にもなります。

観光の他にも、修學旅行やスポーツ合宿、結婚式と利用シーンの幅の広さも軽井沢の魅力です。軽井沢というブランドの高さもありつつ、異國情緒漂う街並みはたくさんの人を惹きつけます。

東京から軽井沢へのアクセス

東京からのアクセスは、新幹線で1時間20分ほど。車や高速バスでは3時間ほどです。
今回ご紹介する日帰り一人旅では、私は新宿の「バスタ新宿」から高速バスで軽井沢へ向かいました。

バスで軽井沢に向かう途中、山間部に入ると深い霧に包まれました。軽井沢周辺の道中は濃霧になりやすいことで有名なので、運転される方はくれぐれもお気を付けて!

軽井沢への日帰り女性一人旅レポート!

軽井沢日帰り一人旅のスケジュール

私が軽井沢へ一人旅に出たのは2年前の2019年6月。6月と言えば既に東京は梅雨の時期で蒸し暑さもあり、すでに真夏のような気候です。

當時就活生で面接続きの日々を送っていた私は「ちょっと涼しい所に行ってリフレッシュしたい!きれいな景色をみて癒されたい!」と思い、日帰りで軽井沢へ行くことにしました。
もちろん宿泊をしてゆっくりと軽井沢を楽しんでもよかったのですが、あいにく連休がなかったため、日帰りで行くことに。

當日のスケジュールはこちらです。

スケジュール

6時45分:バスタ新宿を出発
10時20分頃:星野溫泉にてバス降車
10時30分~12時00分:ハルニレテラスを散策
13時~16時:舊軽井沢銀座通りを散策
18時:軽井沢駅前発のバスで帰路に著く

バスの出発が早朝なので早起きする必要がありますが、日中は丸々現地で時間を使って楽しむことができるので、日帰りでも十分に楽しめますよね。

星野溫泉:ハルニレテラス

軽井沢星野溫泉前でバスを降り、まず驚いたのが気溫です!バスに乗る前は朝でも暑いと感じていましたが、軽井沢は寒いくらいの気溫でした。
夏に行く場合でも気軽に羽織れるカーディガンを持っていくのがおすすめです。

今回の軽井沢女一人旅で最初に訪れたのが、星野溫泉にあるハルニレテラス!
星野溫泉とんぼの湯の目の前にあるハルニレテラスは、16のショップが並ぶ小さな街のような施設です。星野リゾートが運営をしており、星野らしいホスピタリティとエンターテイメント性を感じる場所になっています。

敷地內はウッドデッキが広がっており、溫かみのある優しい雰囲気です。6月は紫陽花が至る所に飾っているのでとても可愛らしく、歩いているだけでウキウキしますよ。

軽井沢アンブレラスカイ

6月上旬から7月中旬頃までハルニレテラスで開催される「軽井沢アンブレラスカイ」はカラフルな傘でテラスを彩るイベント。今回の目的地に軽井沢を選んだ理由のひとつです!
ポルトガルのアンブレラスカイプロジェクトを彷彿とさせ、まるで海外旅行をしているかのような気分になります。

2020年はコロナの影響で中止になってしまいましたが、2021年は開催されています。ぜひアンブレラスカイでポルトガル旅行気分を味わってみませんか?

ベーカリーレストラン「沢村」

テラス內にあるベーカリーレストランの「沢村」。自家製酵母のパンを提供しています。
ハード系のパンからふわふわの食パン、地元の食材を利用したお食事系のパンなど、種類が豊富です。

私はミルクフランスを購入し、テラスのベンチでいただきました。
ハードなパンを噛みしめるとジュワっと口に広がる濃厚なミルクがたまらない!

ハード系のパンはよく噛むので1個でも満腹感が得られますが、せっかくの日帰り一人旅。ハルニレテラスにはまだおいしいものがあるので次のお店へ!

HARVEST NAGAI FARM

「Harvest Nagai Farm」は、淺間山の山麓、東御市にある永井農場の直営店で、毎日手作りをしている、出來立て新鮮のジェラートが人気のお店です。

ジェラートの種類は王道のミルク以外に、コシヒカリやトマト&バジル、とうもろこしなど珍しい味もあります。

私はコシヒカリとアスパラをチョイスしました!
お米獨特の甘さ、ほんのりと香るアスパラの青い香り。初夏に食べたくなる爽やかなジェラートでした。

軽井沢高原教會

ハルニレテラスでお腹を満たしたので周辺を散策がてら、軽井沢高原教會へ向かうことに。

ハルニレテラスから軽井沢高原教會までは歩いて10分ほど、木々に囲まれた道路を歩いていきます。軽井沢らしい雰囲気と、木の香りで気分がとても高まりました。

私が訪れた日はちょうど教會で結婚式が行われており、近くで教會を見學することはできませんでしたが、素敵な瞬間に立ち會えてラッキー!

その後、星野溫泉前のバス停から舊軽井沢銀座通り方面へ向かう路線バスに乗りました。

舊軽井沢銀座通り

バスで約20分、舊軽井沢銀座通りに到著!
この500メートルほどの商店街には約400店舗のお店がずらりと並んでおり、食べ歩きやお土産の購入、寫真スポットなど見どころが満載です。

私が行った日は人が少なかったようですが、繁忙期は前に進めないほど人でいっぱいになる日もあるそう。せっかく人手が少ない日に観光できるので、ゆっくりと食べ歩きやショッピングを楽しむことにします。

腸詰屋

軽井沢に4店舗を構える腸詰屋は、國産の豚肉や牛肉を使用したハムやソーセージを販売しています。

お店の周りにはソーセージを焼く香ばしい、いい匂いが漂っていたため迷わず入店。
店頭で作っている焼きたてのソーセージをパンにはさんだブラートブルストとビールを一緒にいただきました!ジューシーなソーセージとビール、これは間違いない組み合わせですね!

あまりの美味しさに帰り際、ソーセージを購入。自宅でも軽井沢気分に浸りたいと思います!

天狗屋養蜂店

自然豊かな軽井沢にはハチミツやジャムのお店が多數あります。

こちらの天狗屋養蜂店には普通のハチミツだけでなく、ハチミツの中にオオスズメバチがまるまる1匹入ったハチミツが売っていました!

インパクトが強すぎる見た目!蕓能人の方も購入されて行ったようです。
生きたままの蜂をハチミツに入れることで蜂がもがいて毒素を出し、その毒素は人の體內に入るとアミノ酸に変化し、疲労回復の効果があるそう!ハチミツって奧が深い???!

(※こちらの寫真は2019年6月の軽井沢日帰り一人旅に基づく記事となっております。2020年に新型コロナウイルスで死去された志村けんさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。)

諏訪神社

商店街から1つ裏の通りを進むと諏訪神社の北佐久支部があります。ここはにぎやかな商店街とはガラッと雰囲気が変わり、とても靜かで荘厳な雰囲気。

境內には大きな御神木が立っていて諏訪神社の歴史の長さを感じます。
境內の奧には御朱印を求める方々で行列ができていました。

神社で心を落ち著かせた後は、再び商店街を散策します!

ちもと

和菓子や軽食をいただける「ちもと」。店頭で売っていた焼団子をいただきました。

醤油ベースの素樸な焼き団子は安心する味です。

商店街の奧側にあるので、歩き疲れてきた頃にお団子を食べて休憩というのも日本人らしくていいですよね。
しかし、海外の観光客にもお団子は人気のようでした!

軽井沢駅への道中

ゆっくりと歩きながら軽井沢駅へ向かいます。

舊軽井沢銀座通りから軽井沢駅までは徒歩約30分。1日食べてばかりだったので運動がてら歩こうと思っていたのですが、道中に気になるお店を発見してしまいました。

焼きたてクレープ「珈琲黒庚」手書きで書かれたメニューは木の額に入っていてなかなかの年季を感じます。
思わず入店!

お店は男性の方が1人で切り盛りしていますが、素早くクレープを焼き上げます。お店には続々とお客さんが來店していましたが、地元の方も多かった印象です。

シンプルなバターシュガークレープを注文。おまけにハッピーターンを付けてくれました!なんだか嬉しい!

軽井沢駅から帰路へ

クレープを抱えて帰りのバス乗り場まで歩き、少し時間があったのでクレープを食べながらバスを待ちました。優しいバターの風味と上品なシュガーの甘み。吹く風は段々冷たさが増して1日の終わりを感じます。

まだ帰りたくないな~なんて思いながらぺろりとクレープを食べ終えました。

帰りのバスではぐっすりと眠ってしまい、気付くとあっという間に新宿に到著。やはり都內は暑く、夜でもムシムシしていて軽井沢に別荘を持ちたくなる気持ちがよく分かりました!

もっと軽井沢女一人旅を楽しみたい!その他おすすめの見どころ?観光スポット

今回は日帰りで軽井沢のメイン通りを楽しみましたが、泊りがけやもう少し時間があったらぜひ立ち寄りたいスポットをご紹介します!

軽井沢レイクガーデン

軽井沢駅から車で約10分の場所にある軽井沢レイクガーデンは、8つのエリアに分かれたローズガーデンがある異國情緒たっぷりの施設で、バラ好きの女性にはたまらない雰囲気になっています。

バラの見頃は6月中旬~7月中旬なので、初夏に軽井沢を訪れるならぜひ合わせて訪れたいスポットです!

白糸の滝

軽井沢駅から車で約30分。避暑地の軽井沢でさらに涼しさを求めるなら白糸の滝がぴったりです。

山中にありますが、駐車場から滝までの道は整備されているため、サンダルなどカジュアルな服裝で訪れることができます。マイナスイオンをたっぷりと感じてリフレッシュしましょう!

日帰りの軽井沢一人旅を楽しむためのポイント

時間に余裕を持たせたプランを心がけよう!

公共交通機関を使った移動の場合は、詰め込んだスケジュールよりも余裕を持ったスケジュールにすることがポイントです。

軽井沢市內を走るバスは30分に1本の場合もあれば1時間に1本の場合もあります。バスを逃すと予定がかなり狂いますので、計畫を立てるときは時間をしっかりと確認した上で余裕をもったスケジュールにしましょう。

ゆったりと過ごせる軽井沢でバタバタしながら旅をするのはもったいないですよ???!

気軽に溫度調整できる服裝で!

軽井沢はとても涼しく本當に「避暑地」です!

快適ではありますが、場所や時間によっては寒いくらい気溫が下がりますし、皆さんのお住まいの場所との溫度差もそれなりにあるかと思います。

風邪をひいてしまっては元も子もないので調整できる服裝で楽しみましょう。また、當日の天気予報は必ずチェック!

女性も気軽に楽しめる!初夏の軽井沢へ日帰り一人旅に出よう!

近頃一人旅に出ていない、一人旅はまだ勇気がいる???なんて方でも日帰りなら気軽に一人旅を楽しむことができます。

そんな日帰りの一人旅の中でも、軽井沢は関東圏からのアクセスも良く、夏でも快適に旅ができるのでおすすめの旅先です。

食べ歩きをしていろいろなグルメを楽しむも良し、靜かなカフェに入ってゆっくりと過ごすのも良し、自分に合ったスタイルで過ごすことができるのも軽井沢の魅力。
リフレッシュをしに今夏は軽井沢を訪れてみてはいかがでしょうか。きっと素敵な景色やお店に出會えますよ!

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「清水の舞臺から飛び降りる」は本當にあった!?【世界遺産】京都?清水寺を100倍楽しむためのマメ知識5選 http://www.huge-dicks.com/wh-kyoto-kiyomizu-10925.html http://www.huge-dicks.com/wh-kyoto-kiyomizu-10925.html#respond Mon, 07 Jun 2021 00:44:25 +0000 http://www.huge-dicks.com/?p=10925 Copyright © 2021 みんなの一人旅 All Rights Reserved.

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京都の世界遺産の1つ、「清水の舞臺」でも有名な清水寺。京都において最も有名で人気のある観光スポットの1つでもある清水寺の歴史は古く、昔から広く庶民に愛されたお寺でもあります。
世界遺産の清水寺がいつ、どのように創建されたのか、なぜ「清水の舞臺」は造られたのか、など、意外と知られていないそのヒミツと魅力に迫ります!

【世界遺産】京都?清水寺の創建と坂上田村麻呂

清水寺の創建

世界遺産、清水寺の歴史は古く、その創建は778年とされています。
平安京への遷都が794年ですから、平安京よりも前にすでにその存在があったと思うと少しびっくりですよね。

清水寺を創建したとされるのが、延鎮(えんちん)という高僧です。
この僧は760年、孝謙天皇(こうけんてんのう)の勅願により報恩大師という高僧が奈良に子島寺(こじまでら)を創建するのですが、このお寺で報恩大師(ほうおんだいし)の高弟として修行に勵んでいた人物です。

ある日、この延鎮が不思議な夢(霊夢)を見ました。それは京都?大阪を流れる淀川に一筋の金色に光る水の道が続いているというもの。

この夢に導かれて延鎮が淀川を流れる一筋の金色の水をたどっていくと、ついには京都東山の音羽の瀧へと至ります。
するとそこに行叡(ぎょえい)なる仙人がいて、ずっと延鎮を待っていたとのこと。

「観音力を封じた霊木を授けるから、これに観音像を刻み、我が草庵を汝(なんじ)の住まいとし、この草庵に観音像を祀り、寺を開け」

行叡は延鎮にこの言葉だけ託し、この地を彼に引き渡すと言ってどこへともなく去って行ったのです。

行叡の言いつけ通り木で観音像を作り、草庵(現在の奧の院)に観音像をお祀りしたのが清水寺の始まりとされています。

清水寺と坂上田村麻呂

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)。

この名前をご存じの方は多いのではないでしょうか。日本史では征夷代將軍として任命されたことでもよく紹介されていますが、この坂上田村麻呂が清水寺と深い関係にあることはあまり知られていないようです。

なぜ坂上田村麻呂が清水寺と関係しているのか。ここにもある出來事が言い伝えられています。

延鎮が草庵に観音様をお祀りして修行に勵むこと2年、780年の時、坂上田村麻呂の妻、三善高子(みよしのたかこ)は子どもを身ごもっていたのですが、どういうわけか妊娠してから12、13か月が経っても一向に子どもが生まれてくる気配がありません。

妻の安産祈願のため、坂上田村麻呂は鹿狩りに出ていたところ、修行を積んでいた延鎮と出會います。
田村麻呂の話を聞いた延鎮は、子どもが生まれようとしているのに命の殺生は良くない、と鹿狩りを止めるように諫め、さらに観音様に一心に祈願することを勧めました。

延鎮に言われた通り、坂上田村麻呂は鹿狩りを止めて殺めてしまった鹿を丁重に葬り、観音様を一心に信じたところ、15か月目にして無事に子どもが生まれたのです。坂上田村麻呂はその後、798年に自らの屋敷を寄進し、延鎮が観音様をお祀りしている草庵に堂舎を創建しました。

ちなみに清水寺を訪れたことがある方はイメージされやすいと思いますが、「清水の舞臺」がある清水寺は実は崖の上に立っているお寺であり、その足場は平たんな場所ではありません。
坂上田村麻呂が堂舎を寄進した時、丁重に葬った鹿がその恩に報いるため、どこからともなく鹿の大群を引き連れて東山の山中を駆け回ってあっという間に山の斜面を平らにしていったという伝説が殘されています。

このエピソードから清水寺は女人の観音信仰のお寺として有名になり、境內には安産祈願のための泰産寺(子安塔)もあります。

阿弖流為(アテルイ)の悲劇

先ほどご紹介した通り、坂上田村麻呂は征夷大將軍として活躍した人物です。では「征夷大將軍」とはどのような任務を負う役職でしょうか。

「征夷」というのは「蝦夷」(えみし)を討伐するという意味なのですが、「蝦夷」というのは當時政治の中心があった奈良?京都から遠く離れた「みちのく」である東北(奧州)を支配していた一族を指す言葉です。

當時は都から遠く離れている、ということで奧州に対する偏見や差別もあったと言われていますが、朝廷にとってはこの地も平定して初めて安定した政治支配が実現するとして、この地の平定のために「征夷大將軍」に任命されたのが坂上田村麻呂だったのです。

坂上田村麻呂は最初は奧州の平定に苦戦するものの、最終的にはこの地を治めていた阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)を説得し、この地を朝廷の支配下に置くことに両者を納得させます。
そして、この二人を連れて京都に帰還し、天皇の前で服従を誓わせたのですが、これが悲劇を生む結果となってしまいます。

坂上田村麻呂としては服従を誓わせた後、アテルイとモレの二人を奧州に帰し、両者の下で和平的な共存を考えていたのですが、都の重臣たちはこれに猛反発。
いつ朝廷を裏切るか分からないということで、アテルイとモレは河內杜山で首をはねられてしまいました。

清水寺を訪れると、寫真のようなアテルイとモレの名前が彫刻された石碑が置かれているのですが、これはこのエピソードによるせめてもの二人への鎮魂の祈りを捧げたものと言えるでしょう。

【世界遺産】京都?清水寺が歩んだ苦難の歴史

歴史ある寺院の中で、今日に至るまで何事もなく安泰に生き延びてきた寺院というのはほぼ皆無でしょう。多くの寺院がその長い歴史の中で度重なる災害や苦難の連続に打ち勝ってきたのであり、清水寺も例外ではありませんでした。

平安時代から庶民の厚い信仰を受けていた清水寺の周りにはたくさんの民家が立ち並んでいたのですが、これは逆に民家から火が出ると清水寺にも簡単に燃え移ってしまう危険性と隣り合わせでもあります。
実際に、清水寺は平安から鎌倉にかけて8回もの火事に見舞われたと言われています。

その後も爭いや失火による火災にたびたび見舞われた清水寺。ここでは火災に限らず、世界遺産?清水寺がたどってきた苦難の歴史の一部をご紹介します。

延暦寺との抗爭

先ほど、平安時代において清水寺は朝廷より「鎮護國家之道場」として正式にお寺としての運営を認められたことをご紹介しましたが、その後、清水寺は奈良の世界遺産?興福寺の末寺となり法相宗の寺院としてその運営を行っていくことになります。

この興福寺の末寺という存在と清水寺が位置する地理的な事情により、清水寺は延暦寺との間でたびたび抗爭が勃発しました。
どういうことでしょうか。詳しくお話ししましょう。

もともと世界遺産?延暦寺を開いた最澄は、南都六宗の権力爭いなどの腐敗に幻滅し、新しい教義の場を求めて比叡山に延暦寺を興しました。このこともあり、南都六宗の一角である興福寺の末寺であった清水寺に良い印象を持っていなかったのです。

実際に桓武天皇が平安京に遷都したこと、そして平安京でもお寺の亂立を認めずに厳しく取り締まったことは、奈良の平城京において仏教が政治と強く結びつきすぎて、いろいろな問題が勃発した苦い経験から來ています。

桓武天皇は、比較的考えが近い最澄を厚く保護したわけですが、これには延暦寺が平安京にとって鬼門となる北東に位置していたこともあります。

一方の興福寺も、清水寺を通じてあわよくば京の都への足掛かりや、情報収集を行う目的を持っていた事でしょう。

加えて、清水寺が平安京から東海道に及ぶ交通の要所にあったこともあり、比叡山?京の都?奈良を結ぶ上で清水寺は地理的な重要な意味合いを持っていました。

この両者のにらみ合いから抗爭に発展することも珍しくなく、清水寺は時には城郭という堅固な防御機能を築くこともあったと言われています。

応仁の亂

他の京都の多くの寺社同様、清水寺も応仁の亂の戦火によって荒廃してしまい、時代が時代だけに、もはや権力者の善政による立て直しも困難な危機に陥りました。

この清水寺のピンチを救ったのが、願阿彌という一向宗(時宗)の僧でした。彼は全國を行腳して勧進、つまり寄付を募り、見事に清水寺の再興に貢獻したのです。

もともと歩いたり踴りながら念仏を唱えて各地を回る時宗は、一大ボランティア集団としての社會的役割も擔っており、願阿彌もその時宗の僧であったことから、民衆はもちろん、幕府や朝廷からの信頼も厚いものがありました。

ですが、応仁の亂で荒廃したお寺は數知れず。なぜ願阿彌はその中から清水寺の復興に盡力しようと思ったのでしょうか。

これは1つの仮説でしかありませんが、清水寺が観音信仰の聖地であり、特に貧民や賤民を含む民衆にとっての拠り所になっていたことが大きいでしょう。

清水寺は広く庶民からの信仰を集め、その周りに民家も多く立ち並んでいたことはご紹介しましたが、清水寺に參詣する人に食糧などを乞うため、自然と清水坂には多くの民衆が住み著くようになっていました。加えて、京都と東海道を結ぶ交通の要所でもあった清水寺。

また、応仁の亂は守護大名による私的な爭いにより勃発したもので、この戦火で最も苦しめられたのは貧しい民衆であったことは間違いないでしょう。
特に民衆に寄り添ってきた時宗の願阿彌が清水寺に盡力しようと決意した理由もそのような部分にあったのではないでしょうか。

願阿彌は北陸、東海、山陰はもちろん、南は九州の薩摩まで周って勧進を行いました。
この時、勧進によってどこの誰から寄付を集めたかを記した勧進帳が殘されているのですが、興味深いのがその筆頭に足利將軍義政の妻、日野富子の名前が記されていること。

応仁の亂の中心人物でもある日野富子からの勧進は、せめてもの罪滅ぼしだったのでしょうか。。

話を願阿彌に戻しましょう。
願阿彌は興福寺から正式な勧進僧としての認定を受け、その後「本願職」という呼稱が定著するきっかけとなりました。

この本願職は、今では清水寺の伽藍再建や財政運営を統括する役職の呼稱になっており、願阿彌が居住していた場所が成就院となっています。

江戸時代:寛永の火災

江戸時代に入っても清水寺の不幸は続きます。寛永6年の1629年、今度は成就院からの失火で清水寺が全焼してしまいました。

応仁の亂からの復興を手掛けた願阿彌の居住舎からの失火で再び焼失の憂き目に會うというのは何という皮肉でしょうか。

この時の火災からの復興を手助けしたのは、時の江戸幕府三代將軍、徳川家光。
清水寺に限らず、家光が復興援助をしたお寺というのは數多くありますが、世界遺産?清水寺もその一つというわけです。

ちなみに、この時の復興に盡力したのが家光の他にもう一人。家光の妹の東福門院(和子)です。
この東福門院は徳川家から天皇家に嫁いだ人物で、両者の橋渡し的な役割を擔っていたと言われています。

清水寺の復興に東福門院が手を貸したのは、天皇家と徳川家の良好な関係を築く目的もあったのでは、とも考えられています。

現在の清水寺は、この時に再興されたものです。

この後も、明治維新の波亂の渦で悲しい最期を遂げた成就院の住職、月照?信海兄弟や、その後の廃仏毀釈運動など清水寺には様々な試練が起こりましたが、このお話はまた別の機會に。

【世界遺産】清水寺の舞臺はなぜ造られた?

清水の舞臺が造られたのはいつ?

世界遺産清水寺と言えば一番有名なのは何といっても「清水の舞臺」でしょう。

清水寺はその1200年以上に及ぶ歴史において、これまでお話ししてきたように10回以上全壊全焼と言える被害を受けているため、寺公式の記録がなく、舞臺がいつ造られたかも定かではなく、ましてや何のために造られたのかもはっきりしていません。

清水の舞臺がいつ造られたのか?平安時代以降、清水寺は多くの書物の中に登場するので、歴史上作られた書物の中にヒントがありそうです。

まず、平安時代の有名な作品である「源氏物語」と「枕草子」の中にも清水寺は出てきます。
枕草子では僧の日常や説法、お參り風景、観音縁日(18日)のにぎやかな様子など、かなり詳細な様子が描かれているものの、舞臺に関する記載は一切ありません。

「清水の舞臺」がはっきりと書物の中に出てくるのが「成通卿口伝日記」という、とある貴族が殘した日記です。

「成通卿口伝日記」というのは、蹴鞠名人の青年公家、藤原成通(1097~1160)が書き記した日記なのですが、この中で成通は、清水寺の舞臺の高欄に上がって蹴鞠を行った様子を自ら日記に書き殘しています。

そしてこの內容は1254年に編集された「古今著聞集」でも同じように紹介されていることから見て、「清水の舞臺」は平安時代後期には存在していたものと考えてよいでしょう。

ちなみに、「義経記」では義経と弁慶が決闘を行ったのは五條大橋ではなく、清水寺の舞臺として記されています。
この他「今昔物語集」「宇治拾遺物語」「法然上人行狀絵図」でも清水寺の舞臺が登場しており、広く民衆の拠り所だった清水寺の人気の高さがうかがえますね。

清水の舞臺はなぜ造られたのか?

ではなぜ「清水の舞臺」はが造られたのでしょうか。いくつかの説をご紹介しましょう。

①手狹な境內を広げるため

これまでご紹介してきた通り、清水寺は京都だけでなく広く日本中にも知れ渡っていた有名なお寺です。當然參詣、參籠で數多くの人々が訪れたことでしょう。
特に毎月18日の縁日の日には人手も賑やかだったでしょうし、今とは違い多くの公家や貴族たちも參拝で訪れることも多かったでしょう。

そうなると、貴族や公家たち參拝客をもてなす僧がその案內をするため、境內は手狹だったのではないでしょうか。

清水寺を実際に訪れてみると、確かにあの舞臺があるからまだ広く感じますが、あのスペースが無ければやや狹い感じも否めません。

ですが広げるにも場所がなく、また當初から內陣から先の禮堂辺りは崖から乗り出した部分に造られていたため、それをさらに南に拡張することになったのではないか、というわけです。(背後には地主神社があったため、広げられない)

②「蕓」を披露する舞臺として作られた?

「舞臺」と一般的に言うとき、その壇上に演者が登場して何かしらの蕓を披露することが普通ですよね。清水寺の舞臺も、まさにこれと同じ目的で作られたのではないでしょうか。

広く庶民に親しまれた清水寺は、多くの人々の參詣場所となっていました。人々が參詣による信仰の証として、「一蕓」を披露するスペースが設けられたと考えるのもあながち見當違いとも言えないのではないでしょうか。

こちらも実際に清水寺を參拝すると感じることですが、參拝のルートとしてはご本尊に向かって左側、西から東に向かって舞臺に出る作りになっています。まさにステージに登壇するかのようではないですか!?

実はすごい!清水の舞臺のヒミツ

清水寺の舞臺は広さ190平方メートル、正面18メートル×側面10メートルに檜(ヒノキ)が敷き詰められています。
(これが「檜舞臺」の語源になったとも言われています。)

また、北側(本尊側)が南側に比べて高くなっているのですが、これは舞臺の方は屋根がついていないので雨で溜まった水を流れ落とす役ためです。

清水寺の舞臺の高さは土臺石から13メートル。
舞臺は懸造りになっていて、西車寄せ下(丸柱小)3本、禮堂廊下の下(角柱)12本、東西両楽舎下(角柱)12本、東廊下の下(角柱)3本、禮堂下(丸柱)30本、舞臺を支える柱18本、計78本の柱がこの舞臺を支えているわけです。

実は舞臺下の18本は6本×3列で釘やかすがいといった金屬は一切使われていないことはご存じでしょうか。

また、柱に使われているのは樹齢400年以上の欅(ケヤキ)の木です。この欅の木は長い間丈夫に持つことでも知られています。少なくとも樹齢と同じ年月はほとんど劣化せず、そこから同じ月日をかけて徐々に衰えていくそうです。
木の力というのはすごいですよね。

現在SDGsが叫ばれていますが、清水寺を今後も維持していくためには樹齢數百年の欅の木を欠かすことができません。この未來のため、2000年の33年に一度の清水寺のご本尊御開帳の際に、記念事業として欅と檜の植樹がなされています。

【世界遺産】「清水寺の舞臺から飛び降りる」は実際にあった!

「清水の舞臺から飛び降りる」ということわざがありますが、実はこれはたとえ話ではなく実際に過去には何度もあった事というのはご存じでしょうか。

正確に言えば清水の舞臺から「飛び落ちる」ということになるのですが、初期は12世紀後半、末法思想が世に広がり始めた時に浄土信仰が流行った時代がありました。この時、観音様がお住まいになる補陀落山(ふだらくさん)とみられていた清水寺から飛び落ちることで、往生を果たそうとしたのです。

その後も、清水の舞臺からの飛び降りは後を絶ちませんでしたが、その目的はどちらかというと現世利益へとシフトしていきます。何か願いを込めて飛び落ち、無事生き殘ることができればその願いは成就される、というわけです。

「成就院日記」には詳細な飛び落ちの記録が約170年にわたって綴られている(16世紀終盤から明治維新ごろまで)のですが、その間、235件の飛び落ち(2回飛び落ちた人がいるので人數は234人)があり、內訳は男性161人、女性63人、年齢では二十代が最も多く、若い者は10代前半の者もいたというかなり細かい記録が殘されています。

身分としては下人や卑人がほとんどで、公家や武士はいないことを考えると、貧しい民衆の間で特に広まった信仰だったと考えられます。

このような観音信仰に加え、清水の舞臺で歌舞伎が上演されると、「宙乗り」も披露されるなど、舞臺から飛び落ちる演出が、この飛び降りにさらに火をつけることになるのですが、やがて柵が設けられ、明治維新とともに完全に「飛び降り」は禁止されるようになりました。

【世界遺産】清水寺と物語の世界

先ほど、世界遺産?清水寺は多くの書物の中にも登場してきたことをご紹介しました。ここでは清水寺と物語についてお話しましょう。

まず、清水寺が登場する書物として、先ほどご紹介した「義経記」の他にも例えば、「しんとく丸」という書物では主人公の申し子が祈願する場所として、「ものぐさ太郎」という作品では男女が出會いを求める場として清水寺が描かれています。

さらに、清水寺そのものを題材とした物語として「観音本地」という書物が殘されています。

この「観音本地」という物語の內容を簡単にご紹介すると以下の通り。

-主人公は貧しい身分(今でいう奴隷)の男性で、家を追い出された後、町の館に住み込んで雑用から掃除からすべてにこき使われる。
-そんなみじめな境遇にも負けず、一生懸命働いていると、ある日不思議な女性に出會い、妻になる。
-この女性の不思議な力で、主人公の生活は豊かになるが、やがてその美貌に天皇までもが惹かれ、妻を奪おうと無理難題を押し付けられる。
-天皇からの無理難題にも女性の不思議な力によって見事にクリア。根負けした天皇はその地位も日本の國の支配も主人公に譲ってしまう。
-その後、女性は自分が観音の化身であることを告げ、主人公のもとを去り、主人公も清水山にお寺を作り、自ら千手観音として「顕現」する。

貧しい主人公が一生懸命働いていると、不思議な力を持った女性が現れ、一気に幸せになっていく逆転劇というわけですが、このようなストーリーは他の書物の中にも描かれています。

ですが、清水寺を題材とした「観音本地」が他の似たような物語と違っている點は、

-主人公が貧しい民よりもさらに身分が低い「非人」という立場であること
-最終的にある地域、國の領地を委ねられるのではなく、日本全土の支配を委ねられること

の2點。

なぜこのような違いが現れたのか、理由ははっきりしませんが、これまでご紹介してきた通り、清水寺が京都にとどまらず、日本全國に知れ渡る観音信仰のお寺であること、そして、一般民衆だけでなく乞食や奴隷といった「非人」の拠り所でもあったことが考えられます。

実際、戦國時代のころに描かれたとされる「清水寺參詣曼荼羅」という絵巻物があるのですが、そこには清水寺が多くの參拝客で賑わっている様子が活き活きと描かれています。

そこは高貴、下賤関係なくあらゆる人が集まる場所であり、まじめな信仰による參拝だけでなく、乞食や下賤による物乞い、男女の出會いを期待した人々、さらには「辻取」と呼ばれた犯罪も日常的に行われていたと言われています。

あらゆる人間模様が出會い、交差する場所でもあった清水寺。そんな「人間臭い」場所は今でも少しは感じることができるでしょう。
人に寄り添い、何とも言えない溫かみを持つ存在としての世界遺産、清水寺。ぜひ一度訪れてみてください!

 

(參考:「物語の中の京都」濱中 修 新典社新書、「京都 清水寺展」 音羽山清水寺 編集、発行、「古寺巡禮 清水寺」森 清範 淡交社、「清水寺の謎 加藤眞吾 祥伝社黃金文庫」)

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溫泉?グルメ?お城など魅力満載!愛媛県松山?道後溫泉を堪能する女性一人旅旅行記 http://www.huge-dicks.com/minna-maru-ehime-matsuyama-dogo-10892.html http://www.huge-dicks.com/minna-maru-ehime-matsuyama-dogo-10892.html#respond Sun, 30 May 2021 23:00:52 +0000 http://www.huge-dicks.com/?p=10892 Copyright © 2021 みんなの一人旅 All Rights Reserved.

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東京駅から人気の寢臺列車「サンライズ瀬戸」に乗車して始まったMaruさんの四國女性一人旅。今回は旅の目的地、四國は愛媛県の松山での旅の様子をご紹介します!
道後溫泉や松山城、グルメ、おもてなし満載のおすすめおひとり様向け旅館など魅力と情報いっぱいの松山の女性一人旅をお楽しみください!

高松駅に到著!道後溫泉観光前の寄り道散策

朝食は駅から徒歩1分のさぬきうどん屋「めりけんや」で!

東京駅を夜出発する寢臺特急「サンライズ瀬戸」に乗車してはるばる四國、高松駅までやって來ました!時刻は朝の8時前、天気はあいにくの雨空。

「サンライズ瀬戸」は寢臺車両がすべて個室というぜいたくな寢臺列車で、內裝も大手住宅メーカーのミサワホームが手掛けた溫かみのあるデザインということもあり、とても人気の列車です。

そんなサンライズ瀬戸での一晩で平日の疲れも癒され、リラックスして贅沢なひと時を過ごし、今日からの四國1泊の旅も體調は萬全!

まずは朝ごはんですが、高松と言えばやはりうどんが食べたくなります。
高松駅から徒歩1分の場所にある「めりけんや」は朝7時から営業しているためサンライズ瀬戸到著後の朝食にぴったりのうどん屋さんです。

ぶっかけ冷の小サイズ(350円)とちくわ天(120円)を注文!
コシのあるうどんとあっさりとだしの効いたつゆがとてもおいしかったです。私が行ったときは15名以上のお客様がいらっしゃいました。さすがうどん県!うどんの人気の高さが伺えます。

玉藻公園

朝食後は高松駅から徒歩3分ほどの場所にある「玉藻公園」へ。高松城跡でもあり、きれいに整備された公園です。

殘念ながらコロナウイルスの影響で休園しており、中まで入れませんでしたが、お堀の外を周るだけでも楽しめました。
特に印象に殘っているのが、お堀の水です。とっても透き通っていてきれいでした!「日本三大水城」の一つで、海水を引き込んでいるそう。

また改めて訪れたい場所です。

晝食は丸亀市の「一鶴」で!

その後高松駅からJR予讃線で約25分、丸亀駅へ向かいました。

晝食に香川県人気グルメの骨付鳥をいただきます。訪れたお店は「一鶴 丸亀店」。
モダンでシックな雰囲気の店內は、カウンター席もあるのでおひとり様でも入りやすいです。

注文したのはひなどり(941円)と瓶ビールの大(707円)。食べ方はワイルドにかぶりついていただくスタイルです。晝からビールというのは少々背徳感がありますが、骨付鳥の味付けとジューシーさがビールとよく合います!
ぜひビールも一緒に注文してみてくださいね!

道後溫泉へは高松駅から坊ちゃんエクスプレス&坊ちゃん列車が便利!

坊ちゃんエクスプレスで松山市へ

香川県を散策した後は愛媛県松山市を目指すことに。今回の旅の最終目的地です!

高松駅から松山市までは高速バス「坊ちゃんエクスプレス」に乗車し、約2時間30分のバス旅。
「坊ちゃんエクスプレス」って名前がかわいいですよね。もちろんこの名前は、道後溫泉を愛したというかの文豪、夏目漱石の作品にちなんだものです。

この「坊ちゃんエクスプレス」、通常、1時間に1本バスが出ているので旅の予定が立てやすいことがポイント。高松駅~松山駅間は4,100円です。當日までに予約をしておきましょう。(時刻表やネット予約はこちらのページをご參照ください。)

途中、高臺にある高速道路を通過するときに瀬戸內海が見えました。海の景色って何歳になってもワクワクしますよね。

この先どんな景色に出會えるのか、到著がより待ち遠しく感じました。

坊ちゃん列車で道後溫泉へ

松山市駅でバスを降車。駅前の電停から坊ちゃん列車に乗車して道後溫泉を目指します。

坊ちゃん列車の運賃は1回の乗車でどこまで乗っても170円!分かりやすい運賃設定は旅人にはとても有難いものです。
車窓からは、松山城や愛媛県庁、大街道など松山市內の名所を一通り見ることができるので、列車に揺られながら道後溫泉の街並みを楽しむプランもぜひ盛り込んでみてください!
松山を訪れたら1度は乗っていただきたいです。

道後溫泉駅周辺を観光

道後溫泉駅舎がかわいい!

道後溫泉駅に到著し、まず目を惹かれたものが道後溫泉の駅舎です。現在の駅舎は1911年に建築された舊駅舎を復元したもの。明治時代の洋風建築がとてもおしゃれでかわいいです!

駅舎にはスターバックスが併設されています。
駅橫には蒸気機関車型の坊ちゃん列車モニュメントや、からくり時計、足湯があり、駅前だけでも見どころが満載です。レトロな雰囲気漂う駅前に來ただけで明治時代にタイムスリップしたような気持ちになります。

道後溫泉商店街

駅のすぐ目の前にある道後溫泉商店街は、愛媛のグルメや名産品が數多くあり、溫泉の浴衣を著て散策している方がちらほらいらっしゃいました。
溫泉街らしい雰囲気が増し、落ち著きます。

旅の思い出に「布遊舎」でポーチとティッシュケースを購入。

「布遊舎」は全國の観光地に店舗がある和雑貨店です。地域限定の柄物があり、旅先でお店を見つけると思い出に購入しています。ぜひ見つけた際は寄ってみてくださいね。

途中、「10FACTORY」に立ち寄り。
旬の愛媛県産のみかんを使用したジュースやジャム、ドライフルーツなどオリジナルみかん商品を販売している人気店です。

「みかんビール(580円)」を飲んでみました。みかんの爽やかな酸味とビールの泡がよく合います!
早速愛媛らしいお酒に出會えて嬉しかったです。

道後溫泉本館

商店街を進むと現れるのが「道後溫泉本館」です。平成31年から保存修理工事を行っています。

普段は工事を行いながらも入浴は可能ですが、私が訪れた日はコロナウイルスの影響で休館をしていました。お湯は次來たときの楽しみにして建物の雰囲気を味わうことにします。

道後溫泉は日本最古の溫泉といわれており、なんと3,000年もの歴史を持っています。
日本神話や古代から記されているとのこと、歴史の重みがありますよね。現在の道後溫泉本館は明治27年に建てられたもので國の重要文化財に登録されています。

これまでの長い年月を考えれば、道後溫泉本館が工事している瞬間に立ち會えるというのは貴重な瞬間ではないでしょうか???!工事が終わったらまた訪れようと心に決めました。

道後ビールと愛媛のソウルフード

散策して少し小腹が空いたのでお店に入ることに。道後溫泉本館のすぐ橫にある「道後麥酒館」へ。

こちらは道後ビールを販売している水口酒造の直営店です。
店內はカウンター席やBOX席、座敷があります。店員さんの対応も良く、女性一人でも入りやすいです。

私は道後ビールのケルシュをジョッキでいただきました!苦みが少なくすっきりと飲みやすいビールでした。麥酒館は愛媛のグルメも充実しています。
じゃこ天とせんざんきをいただきました。

実はこのとき初めてじゃこ天を食べました!
想像以上にビールと合う最高のつまみ!食べ応えもあるのでお腹もバッチリ満たしてくれました。

ひとり飲みを満喫していい具合にほろ酔いになったので宿へ向かいます。

道後溫泉の女性一人旅にもおすすめ!お宿「道後やや」

溫泉街でもおひとり様利用ができる!

一人旅で溫泉街を訪れたとき、宿選びで悩むことがしばしばありませんか?
溫泉旅館は1名料金がなかったり、お部屋が1人にしては広すぎたり。。。

今回宿泊した「道後 やや」は館內に溫泉施設はありませんが、溫泉まで徒歩3分ほどの道後溫泉中心地にあり、1名から利用できるダブルルームを提供してるホテルです!

浴衣のデザインが5種類の中から選べたり、お部屋のあるフロアは靴を脫いで上がったりと、ホテルといっても旅館らしい雰囲気を兼ね備えたホテルです。
大きなホテルではありませんが、コンパクトな中でも宿泊者を満足させる工夫が多數ありました。

今回宿泊したダブルルーム。和モダンなおしゃれな內裝です。

アメニティのシャンプーやボディーソープが韓國製というのが私には嬉しいポイントでした!韓國コスメが好きな女性も多いので女心をくすぐるアメニティ。

宿泊料金は1泊朝食付で7,560円でした。

盛りだくさんのおもてなし

みかんジュースが出る蛇口

道後ややにはみかんジュースが出る蛇口がフロントにあります。

愛媛に行ったなら一度は體験しておきたい蛇口からのみかんジュース!道後ややでは常時3種類のみかんジュースを提供しており、道後ややに宿泊すれば何度でも利用できます。
どれも飲みやすく、おいしいフレッシュなみかんジュースでした。

憧れの蛇口からのみかんジュースを體験してみませんか?

今治タオル使い放題

愛媛といえば今治タオル。

好きな肌觸りの今治タオルを選べる「今治タオルバー」がフロントにありました。
外湯に出る際に好きな今治タオルを選んで持って行けます。好みの枕を選べるホテルは最近増えてきましたが、好みのタオルを選べるのは、今治タオルが名産の愛媛ならではですね!

おもてなしラウンジ

15時~22時までの間、朝食會場の「yayadinning」を「おもてなしラウンジ」として開放されています。

私が宿泊した日は、コーヒーや紅茶の提供、夜は鯛めしが提供されていました!こういったサービスは宿泊時間をより楽しい時間にしてくれるので嬉しいですよね。

朝食がおいしい!

ぐっすりと休んだ翌朝、楽しみにしていた朝食ビュッフェへ!道後ややは朝食も魅力の1つです。

種類豊富なおかずに愛媛ならではの鯛めし、サラダバーは野菜の種類が10種類以上あり、どれもしっかりと新鮮な狀態。さらにみかんは6種類以上用意されています(種類や數は時期によるそう)。

ついつい全種類食べてしまいました!
當たり前ですが、甘さや風味がどれも違う。こんなにみかんを食べ比べできる機會なかなかないです!

焼き鯖や、ウインナー、フレンチトーストなどは注文してから調理してくれるのでアツアツ出來立てをいただくことができます。フレンチトーストはふっくらと焼き上がり、中はとろとろの仕上がり。

これまで食べたフレンチトーストの中で1番私好みでした!

また、使用している器にもこだわりがあり、愛媛の名産「砥部焼」を使用しています。お茶碗の柄やマグカップの柄は1つ1つ異なり、お気に入りのものを選んで使用できます。

大満足の朝食でした!

まだまだ寄りたい!道後溫泉の観光スポット

インスタ映えとしても人気の圓満寺

ホテルをチェックアウトし向かったのは圓満寺。道後溫泉本館の裏手にあります。

こじんまりした仏堂の中には3.67メートルの大きな地蔵尊があり、インパクトのある表情をしています。

1855年に道後溫泉のお湯が止まったとき、この地蔵に祈願したところ再び湯が湧き出たという逸話があり、「湯の大地蔵」と呼ばれています。

可愛らしいおむすび玉がたくさん飾られているためインスタ映えスポットとして女性に人気の場所です。広い場所ではないので朝早めの時間に行ってお參りするのがおすすめです。

道後公園(湯築城跡)

道後溫泉から徒歩3分の場所にある道後公園は湯築城跡でもあります。

16世紀前半、伊予國の守護であった河野氏が戦國期拠點城郭へと整備しました。現在は武家屋敷や土塀が復元され見學することができます。
とても広い敷地は松山市民憩いの場でもあり、平日のお晝でしたがたくさんの方が公園內で過ごしていました。溫泉もあって、こんな広い公園もあるなんて素敵な街ですよね。

天気も良かったため、ゆっくりと園內を散策しました。夏に近づいていることを感じさせるカラッとした風が心地よかったです。

道後溫泉の帰りは松山市観光も忘れずに!

眺めも造りも見事!松山城

道後溫泉を後にし、市電で松山市駅へと戻ります。
松山市駅地下にある「まつ地下タウン」にはコインロッカーが154個あり、そちらに荷物を預け、松山城へ向かいました。

松山市駅から松山城までは徒歩約20分。松山の街から望む天守閣がとてもかっこいいです。松山市駅から歩いて松山城へ向かえば、段々と近づく松山城の迫力を感じることができるのでおすすめです。

東雲口登城道から歩いて天守を目指す

松山城にはロープウェイやリフトがありますが、せっかくなら歩いて登城がおすすめ!昔の戦う武士の気持ちになって歩くことでお城の楽しさは倍増します!

???ただ、松山城の登城道はかなり坂道がきつかったです。午前中でも気溫25度以上あり、日差しが照りつけていました。

根気よく進んでいきましょう。きっと到著したら最高の景色が待っています。

美しい石垣

きつい坂道を登り切ると美しい高石垣が目の前に!

打込み接(うちこみはぎ)という積み方で、戦國時代前半に築城された城郭ではメジャーな造りです。
しかし、松山城の石垣の高さ、曲線のある積み方は他ではなかなか見られない美しさがあります!

石垣好きの私はもう大興奮で、坂道を登った疲れは一瞬でどこかにいってしまいました。

本丸へ到著

東雲口から約25分かけて本丸へ到著です!

本丸からは松山の景色を一望できます。
天守閣はコロナウイルスの影響で閉館していたため、周りをぐるぐると散策しました。

松山城の天守閣は日本で12ヵ所しか殘っていない「現存12天守」のうちの一つです。そんな天守閣を眺めながら炭酸で喉を潤し、當時に思いを馳せるゆったりとした時間は一人旅の醍醐味です。

天守閣も素晴らしいですが、本丸から見える石垣も迫力満點です。ぜひ隅々まで松山城を楽しんでください!

鯛めし もとやま

松山城を後にし、松山ロープウェイ商店街にある「鯛めし もとやま」へ。

こちらは鯛の刺身をご飯に乗せ、卵を溶かした出汁をかけていただく宇和島鯛めしスタイルです。プリプリの鯛と出汁の相性バッチリでご飯が進みます。
添えてある薬味をたっぷりとかけていただくとまた違った風味になり、これもまたご飯が進みます。ボリューム感ありますが、出汁のおかげでペロッと食べてしまいました。

大街道散策

松山ロープウェイ商店街から道路を挾んで反対側にある大街道。巨大なアーケード商店街で、長さは483メートルもあります。
隣接している松山銀天街を通れば松山市駅まで雨の日でも濡れることなく通行可能です。

松山の銘菓「一六タルト」の店舗やカフェなどお店が多數あるので旅中の休憩にぴったりです。

 

その後、松山市駅から松山空港行のリムジンバスに乗車し空港へ向かい、今回の一人旅は終了!
松山?道後溫泉での滯在は1泊ではありましたが、松山の魅力を詰め込んだ一人旅になりました。

松山?道後溫泉の一人旅を振り返って

サンライズ瀬戸で東京から高松、その後松山、道後溫泉へ。とてもとても楽しみにしていた一人旅で、久々に旅行の前日に楽しみすぎて寢付けないというのを経験しました。

サンライズ瀬戸で過ごした一晩は終始ワクワクしてあっという間に高松駅に著いた印象です。
その後の香川、愛媛の旅はサンライズ瀬戸の余韻に浸りつつ、絶景とおいしいグルメを堪能し大満足で帰路につきました。

一人旅では余韻にも一人でじっくりと浸れるという楽しさがあります。自分の感情の赴くまま、好きに冒険に出られる自分のための時間です。

ぜひみなさんもサンライズ瀬戸でゆっくりと四國へ旅に出てみてはいかがでしょうか。

 

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四國への一人旅に便利!女性も安心、快適な寢臺列車「サンライズ瀬戸」乗車レポート!

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旅好きな方なら一度は體験してみたいのが、寢臺列車の旅ではないでしょうか。鉄道王國日本でもこれまで多くの寢臺列車が活躍し、旅人に親しまれてきましたが、今でこそ「観光列車」がブームになっているとはいえ、定期的に運航している寢臺列車は今回ご紹介するサンライズ瀬戸?出雲だけ。
今回は、そんな寢臺列車で四國女性一人旅をしてきたMaruさんのサンライズ瀬戸乗車レポートをご紹介!

寢臺列車「サンライズ瀬戸」の概要(運行區間、車両、料金、予約方法)

サンライズ瀬戸の運行區間

「サンライズ瀬戸」は東京駅~高松駅間を走る寢臺特急列車です。
東京駅~出雲駅間を走る「サンライズ出雲」とは岡山駅まで併結して運転をしており、岡山駅で両車両が分離されてサンライズ瀬戸は高松方面へ、サンライズ出雲は出雲方面へと向かいます。

車両編成としてはサンライズ瀬戸?出雲それぞれ7両編成で、併結運転時は14両編成で運転しており、全車両通り抜けが可能です。

岡山駅までは東京から東海道線を通って向かうため、途中の停車駅としては橫浜駅、靜岡駅や姫路駅などがあります。(上り線と下り線で停車駅が少し異なるので、詳細はJRの公式ページをご參照ください。)

運航時刻表としては東京を21時50分に出発し、高松駅には翌朝7時27分に到著します。

寢臺列車の嬉しいところは時間を有効に利用できるところですよね。夜22時前の出発なので、仕事終わりに列車に飛び乗ることも不可能ではなく、また朝7時半から高松市內を観光できるので丸一日四國での滯在を楽しむことができます。

サンライズ瀬戸の車両

サンライズ瀬戸?サンライズ出雲は、14両が寢臺車両と普通席車両から成りますが、寢臺はすべて個室というぜいたくな作りになっています。

個室はA寢臺個室の「シングルデラックス」、B寢臺個室の「シングル」、「シングルツイン」、「サンライズツイン」、「ソロ」と豊富なラインナップ。
寢臺以外の普通車両には「ノビノビ座席」があり、一番リーズナブルな価格設定です。

サンライズ瀬戸の前身は、1988年4月、瀬戸大橋(香川県)の開業に合わせて運転を開始した「寢臺特急 瀬戸」。ブルートレインを使用し、開放型の寢臺が中心でした。

その後、時代のニーズに合わせて、1998年7月に個室型寢臺を中心とした新型車両「サンライズエクスプレス」が導入されました。內裝は大手住宅メーカーのミサワホームが手がけ、落ち著いた溫かみのあるデザインになっています。

飛行機や新幹線の増便、伸長、高速化により寢臺列車の需要は低迷し、年々姿を消しており、2021年5月現在、定期運行している寢臺列車はサンライズ瀬戸?出雲のみ。何とも寂しい限りですが、サンライズ瀬戸は鉄道ファンはもちろんのこと、旅好きや出張の多いビジネスマンにも人気の列車で繁忙期はきっぷ販売開始とともに満席になります。

きっぷの料金と予約方法

サンライズ瀬戸のきっぷは乗車1ヵ月前の午前10時から購入可能です。

みどりの窓口や旅行代理店などで購入可能ですが、私はJR西日本ネット予約「e5489」を利用しました。みどりの窓口が混雑している場合はネット予約のほうがスムーズに購入できます。

ネット予約の際の注意點として、個室のタイプは選べますが、個室番號や位置までは選択不可であること、JR東日本、JR北海道の券売機ではきっぷを発券できないことがあります。東京駅から乗車する場合はJR東海の券売機や窓口を利用しましょう。

料金についてですが、新幹線などと同じように乗車料金と特急料金がかかり、それに加えて寢臺もしくは普通車両「ノビノビ座席」の料金がかかってきます。

2021年5月現在、乗車料金は東京~香川間で11,540円、特急料金は3,300円となっていて、寢臺料金はその等級によって変わってきますが、等級ごとの料金はこちらのページをご參照ください。
ノビノビ座席は指定席扱いなので、指定席券として通常料金530円がかかります。(繁忙期、閑散期により変動)

念願の寢臺列車「サンライズ瀬戸」に乗るまで

寢臺列車にどうしても乗りたい!

一晩列車で過ごすという非日常を味わえる寢臺列車。旅好きなら1度は寢臺列車に乗って旅に出てみたい方は多いのではないでしょうか?
しかし、現在定期運行している寢臺列車はサンライズ瀬戸?出雲のみ。人気の列車ということもあり、私は今までなかなかきっぷを手に入れることができませんでした。

「どうしても寢臺列車乗りたい!」という熱い思いを抑えきれず今回寢臺列車での旅を決意!

最初で最大の難関が寢臺券をゲットすること。乗車1ヵ月前の午前10時ちょうどにスマホを操作し、幸運にも購入できました!決済はクレジットカードで済ませ、きっぷは乗車前までに券売機で発券すればOKです。
先ほどご紹介した通り、発券はJR東日本、JR北海道の発券機では不可のため、東京駅から乗車する場合はJR東海の券売機や窓口を利用しましょう。

私は今回、B寢臺個室シングルを東京駅~高松駅まで購入。乗車券と合わせて22,540円でした。宿泊費と交通費、さらに貴重な思い出代と考えればリーズナブルに感じます。

いよいよ旅の當日!サンライズ瀬戸乗車前に萬全の準備!

サンライズ瀬戸の発車時刻は21時50分(2021年3月ダイヤ改正)、入線時刻は21時25分ころ。仕事終わりでも余裕を持って乗車できることが寢臺列車の魅力です。

私も用事を済ませてから都內に向かいました。

お風呂を済ませる

サンライズ瀬戸にはシャワールームがついていますが、ャワーカード(300円)はすぐ売り切れになることも???。女性の場合、メイクを落としたり、入浴後にはドライヤーをゆっくり使ったり、スキンケアもしっかりと済ませたいですよね。

私は御茶ノ水駅から徒歩約5分の場所にある「RAKU SPA 1010 神田」を利用しました。銭湯コースはなんと470円で利用可能です!

10時間利用できるRAKU SPAコース(平日1,490円)はコース専用フロアでハンモックやおしゃれなソファー、マンガ、雑誌などを自由に利用可能。コワーキングスペースもあるので旅の前に一仕事終わらせるのもいいですね。
清潔でかわいらしい館內は女性も安心して利用できますよ。

參考

RAKU SPA 1010 神田
〒101-0063 東京都千代田區神田淡路町2-9-9
営業時間 11:00~翌8:00(最終受付 翌7:00)
電話番號 03-5207-2683
HP:https://rakuspa.com/kanda/

リラクでボディケア

お風呂を済ませても時間は20時。まだ時間があるので東京駅八重洲地下街にある「ラフィネ 八重洲地下街店」でボディケアをすることに。せっかくの旅、體中のこりをほぐしてからスタートさせたほうが気分いいです!

21時まで営業しているので寢臺列車乗車前におすすめです。

駅弁とお酒を買う

寢臺列車でお酒を飲むことを楽しみにしていました!ワクワクがとまらない狀態でついつい買いすぎてしまいましたが、充実した時間を過ごすために買い忘れは防ぎたい!

念願のひと時!寢臺列車「サンライズ瀬戸」乗車レポート

21時25分、サンライズ瀬戸?出雲が入線。

「ついに寢臺列車に乗れる!」入線してきた車両を見ただけで感動してしまいました。鉄道オタクではありませんが、一通り外観の寫真は収めておこうと必死に寫真を撮りまくります。窓が大きく、中の明かりが神々しい。。

そしてドアが開き、いざ乗車!

想像以上に落ち著いた雰囲気で高級ホテルの廊下のようでした。人とすれ違うほどの広さはないので大きい荷物やキャリーケースがあるときは少々大変かもしれません。みんなで譲り合って廊下を進みます。

シングルの車両のデッキ部分には洗面臺とトイレが2つずつありました。

私が一晩お世話になったB寢臺個室「シングル」です。2階の進行方向右側のお部屋でした。入口の橫に荷物を置くスペースがあり、小さめのキャリーケースであれば問題なく置けます。

スリッパ、ハンガー、ゴミ袋、枕、掛け布団、ルームウェア、テーブル部分にはコップがありました。施錠設備もバッチリで、暗証番號を自分で設定できるタイプです。

完全に個室なので女性でも安心です。

21時50分、東京駅をいよいよ出発!と合わせて早速買っておいたビールを飲みます!

大きな窓から見える東京の景色。窓の外はいつもと変わらないのに、サンライズ瀬戸に乗りながらビールを飲んでいるだけで特別な景色に感じます。
仕事終わりのサラリーマン、友人と話す女性、働いている駅員さん、「こんな時間でもたくさんの人がいるなぁ」とまじまじと窓から人間観察をしてしまいます。
そして人目を気にせず、女一人で列車に揺られながらお酒を飲む???とっても贅沢な時間です。

こちらは室內のオーディオパネルです。室內の照明やアラームの設定、ラジオを流すことができます。音量も細かく設定できて使い勝手がいいです。

私生活でラジオを聴くことは無くなりましたが、サンライズ瀬戸で聴くラジオは雰囲気バツグン。お世辭にも音質がいいとは言えませんが、少しボソボソと流れるのが寢臺列車の雰囲気と合っています。
ぜひ乗車した際にはラジオを流してゆっくりと過ごしてみてください。

車內探索をしたときに寄ったラウンジがこちら。サンライズ瀬戸は3號車にあります。朝にここで朝食を食べたりコーヒーを飲んだりするのもいいですよね。

車內販売はありませんが、自動販売機が3號車に2臺あります。座席は左右合わせて8席しかないため埋まってしまうこともあるようなので、早朝に行くなどタイミングを見計らっていきましょう。

東京の次は橫浜、熱海、沼津などへ停車。

室內の照明をすべて消して夜の景色を楽しんだり、翌日の予定を考えたりして過ごし、0時20分靜岡駅を過ぎたころやっと眠くなってきたので寢ることに。ベッドは女性なら足を伸ばしても問題なく過ごせます。

ガタンゴトンという音と揺れが心地よく、すぐ眠りにつけました。

途中、駅を通過する際にホームの明かりがカーテンを閉めていてもまぶしかったので起きてしまいましたが、普段見ることのない真夜中の駅の景色はつい気になって見ていました。寢臺列車だからこそ味わえる景色です。

翌朝5時ころに目が覚めました。現在地は姫路駅へ到著前というところ。

天気は雨ですが、不思議なことにサンライズ瀬戸に乗っているとすべてが貴重な瞬間に思えて、雨でもポジティブな気持ちに!とても目覚めのいい朝でした。
デッキ部分の洗面臺で揺れと闘いながら顔を洗い、身支度へ。

室內にテーブル、鏡、コンセントがあるのでメイクもヘアアイロンもできます。
が、やはり身支度で大変なのは「揺れ」です。特にメイク時の揺れは苦労するので、細かい部分は駅に停車したときに素早く済ませたほうがミスしないでしょう!

途中アナウンスで、深夜に異常音がしたため確認作業を行い、その影響で20分ほど遅れているとの案內がありました。許されるならいつまでも乗っていたいので遅れなんて全く気になりません。(乗り換えや予定がある方はそうはいきませんよね)

20分遅れでついた岡山駅でサンライズ出雲との切り離し作業がありました。私は切り離し作業を見ませんでしたが、毎回たくさんの方が列車を降りて見るそうです。

岡山駅からはサンライズ出雲と別れ、サンライズ瀬戸は四國へ向かいます。

7時50分、約25分遅れで高松駅へ到著!

ギリギリまで室內の窓から景色を眺め、名殘惜しさを感じつつサンライズ瀬戸を降車しました。ゴールデンウィークは琴平駅まで運転延長されているため、サンライズ瀬戸はまだ走り続けます。

サンライズ瀬戸、お世話になりました!

「サンライズ瀬戸」に乗って実感:女性が寢臺列車に乗るときに必要な物?あれば嬉しいもの

最後に、寢臺列車「サンライズ瀬戸」に乗車してみて実感した女性にとって必要な物?あったら嬉しいものをご紹介しますので、參考にしてみてください。

①ティッシュ

ホテルでは當たり前のようにお部屋にティッシュがありますが、サンライズ瀬戸の個室にはティッシュはありません。食事のときやメイクをするときにティッシュが突然必要になるときありますよね。慌てることのないようポケットティッシュを持っておきましょう。

②歯ブラシ

ティッシュと同様、歯ブラシもありません。乗車してから気がついても遅いので持ち物リストに忘れず入れておきましょう。

③アイマスク、耳栓

駅を通過する際の明かりがまぶしくて目が覚めてしまったので、気になる方はアイマスクを持參すれば明かりを気にすることなくぐっすりと眠れます。また、周りの部屋の方が部屋を出入りするときの施錠音がとても大きく気になりました。設備上仕方がないので、ゆっくりと寢たい方は耳栓を持參するのがおすすめです。

「サンライズ瀬戸」に乗って女一人旅に出よう!

初めての寢臺列車は、童心に帰ったようにワクワクしました。

車內は清潔で、セキュリティ面での心配は全くなく、女性でも快適に過ごせる空間です。目的地にただ行くのではなく、目的地に行くまでの移動も楽しい寢臺列車は、旅を余すことなく楽しませてくれます。

また、コロナ禍のこんな狀況でも人との接觸を防ぐ移動手段として個室利用は最適だと思いました。女一人旅でも気兼ねなく利用できるので、ぜひサンライズ瀬戸に乗って旅に出てみましょう!

今回私が楽しんだ「サンライズ瀬戸」の四國女性一人旅、高松駅に到著後の旅の様子は次回ご紹介します!

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